表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/45

第24話 魔術師団長は、眠れない子のそばに小さな灯りを残した

ミラが灯火食堂に服を届けてから、二日ほど経った夜。


 灯火食堂の営業が終わり、重い木戸に鍵がかけられると、店内には静かで穏やかな時間が訪れた。


 サヨはかまどの火を落とし、ランプの灯りを少しだけ絞って、明日の朝のための出汁の仕込みをしていた。

 厨房の隅に置かれた簡易寝台の上で、ルカは膝を抱えて座っている。


 着ているのは、ミラが持ってきてくれた服の中から、自分で「これがいい」と選んだ深い青色のシャツだった。

 柔らかな布地に包まれているせいか、昼間のルカは少し落ち着いて見えるようになっていた。


 けれど、夜は違う。


 窓の外がすっかり闇に沈み、通りを行く人の足音も遠ざかっていくにつれ、ルカの呼吸は少しずつ浅くなっていった。


 王宮の夜は、ルカにとって休む時間ではなかった。

 煌々と魔力灯が灯された豪奢な寝室。

 分厚い天蓋のついた寝台。

 見張りの騎士。

 廊下を歩く誰かの足音。


 一見すれば何重にも守られた場所のはずなのに、ルカにはそれが、息を潜めて朝を待つための檻のように思えていた。


 少しでも物音がすれば、目が覚める。

 誰かが来るかもしれない。

 何かが運ばれてくるかもしれない。


 目を閉じ、眠りに落ちることは、自分を無防備に差し出すことのようだった。


 ルカは、重く下がってくるまぶたをこすった。


 ここは王宮ではない。

 サヨがすぐそばにいる。

 それは分かっている。


 それでも、身体に染みついた怖さは、簡単には離れてくれなかった。


 サヨはその様子に気づかないふりをしながら、鍋の中をゆっくりとかき混ぜていた。

 無理に「寝なさい」と言えば、それもまたルカにとっては命令になってしまう。


 だからサヨは、ただ同じ空間にいた。


 その時、裏口の結界が、ちり、と微かに鳴った。


 サヨが振り向くと、控えめに木戸が叩かれる。


「こんばんは、サヨさん。結界の様子を見に来ました」


 サヨが鍵を開けると、王国魔術師団長ノアが立っていた。


 王宮で見せる威厳あるローブではない。

 街角に紛れてしまいそうな、地味な平服姿だった。

 ただ、腕には古びたブリキの缶を大事そうに抱えている。


「いらっしゃい、ノア。冷えたでしょう」

「平気です」


 ノアは小さく首を振り、店の中へ入った。

 そして、カウンターの上にブリキ缶をそっと置く。


 ルカは、ノアの姿にびくりと身を縮ませた。


 ノアから漂う魔力の気配は、隠していてもなお大きい。

 王宮で見たどの魔術師とも違う、深く静かな水のような気配だった。


 それがすぐに危険なものではないと分かっていても、ルカの身体は反射的に強張ってしまう。


 ノアは、怯えるルカに近づかなかった。

 数歩離れた丸椅子を引いて腰を下ろすと、無表情のまま、ブリキ缶を抱え直した。


 ルカの視線が、その缶に向く。


 ノアは、ほんの少しだけ缶を胸に寄せた。


「これは非常用です」

「……非常用?」

「私の」


 短い言葉に、サヨが小さく笑った。


 ノアは缶の蓋を開ける。

 かぱ、と軽い音がして、ふわりと甘い匂いが店内に広がった。


 バターと砂糖。

 少しだけ焦げた小麦粉。

 サヨが時間のある時に焼く、素朴な手作りクッキーの匂いだった。


 形は少し不揃いで、王宮の菓子のように繊細ではない。

 けれど、その匂いは、火のそばにいるような温かさを持っていた。


 ノアは缶から一枚取り出し、サヨの前に置いた。

 それから、もう一枚を小さな木皿に乗せ、ルカの寝台のそばにある低い台へ置く。


 食べろ、とは言わなかった。


「食べなくてもいいです。匂いだけで落ち着くことがあります」


 ノアは自分の分のクッキーを一枚口に入れ、さく、と静かに噛んだ。


「私は、そうでした」


 ルカは、置かれたクッキーと、ノアを交互に見た。


 ノアは天井の煤けた梁を見上げる。


「昔、自分の魔力が怖かったんです」


 声は淡々としていた。

 大きな出来事を語るというより、鍋の火加減を説明するような静けさだった。


「眠ると、うまく抑えられなくなる気がして。目を閉じるのが苦手でした。自分の中にあるものが、自分のものではないみたいで」


 ルカは、信じられないようにノアを見つめた。


 王国で最も優れた魔術師。

 誰もが一目置く魔術師団長。


 その人にも、自分の中にある力を怖がっていた時期があった。


「眠れずにこの店へ来た夜、サヨさんは封印具も説教も持ってきませんでした」


 ノアの視線が、カウンターの中のサヨへ向く。


「温かい飲み物と、焼き菓子を出してくれただけです。それから、火の番を一緒にしてくれました」


 サヨは何も言わず、鍋をかき混ぜている。

 けれどその横顔は、少しだけ懐かしそうだった。


「そのうち、私は寝てしまいました。火のそばで、焼き菓子の匂いがして、見守られている気配があったから」


 ノアは、ルカの方へ視線を戻した。


「眠れない夜に必要なのは、強い命令ではありません。ここで眠ってもいいと、身体が少しずつ覚えることです」


 そう言って、ノアは指先で空中に小さな円を描いた。


 ぽ、と柔らかな光が生まれる。


 王宮の魔力灯のように白く冷たい光ではなかった。

 暖炉の火を小さく丸めたような、橙色の灯りだ。

 眩しくなく、目を刺さず、ただそこにあるだけで、夜の隅を少しだけやわらげる。


 ルカは身構えた。

 ノアはそれに気づくと、灯りをさらに小さく、弱くした。


「敵を倒す灯りではありません」

「……?」

「眠る場所を、ここだと覚えさせる灯りです」


 ノアはその灯りを、ルカの枕元にそっと浮かべた。


「外からは見えません。店の中にいる人の目にも、強くは映らない。けれど、目を覚ました時に、ここが同じ場所だと分かります」


 光はゆっくり揺れている。

 まるで、小さな呼吸をしているようだった。


「結界も整えました。今夜は、余計な気配は近づけません」


 絶対、とは言わなかった。

 けれどノアの声には、淡々とした確かさがあった。


「だから、眠れそうなら眠っていい。眠れないなら、ただ目を閉じているだけでもいいです」


 ルカは、枕元の小さな灯りを見つめた。

 低い台の上のクッキーからは、甘い匂いが漂っている。

 かまどの熱はもう弱い。それでも、サヨが鍋を扱う音が、店の奥で静かに続いていた。


 誰かが見守ってくれている。

 甘い匂いがある。

 小さな灯りがある。


 それだけで、胸の奥に張っていた糸が、少しずつ緩んでいく。


 ルカは膝を抱えていた腕をほどき、ゆっくりと横になった。

 まだ怖さは残っている。

 けれど、まぶたを閉じてもいいような気がした。


 最後に見えたのは、枕元で揺れる橙色の灯りと、少し離れた場所でクッキー缶を守るノアの横顔だった。


 ルカの呼吸が、少しずつ深くなる。


 サヨは鍋の火を落とし、音を立てないように手を拭いた。


「ありがとう、ノア。夜遅くに、わざわざ」

「必要な点検です」


 ノアはそう言って、ブリキ缶の蓋を閉めた。

 けれどすぐには帰らず、眠り始めたルカを一度だけ見た。


「……昔の私より、ずっと素直です」


 小さな声だった。


 サヨは微笑む。


「あなたも、あの頃は素直だったわよ」

「記録には残っていません」


 ノアは真顔で言い、缶を大事そうに抱え直した。


 裏口へ向かう前に、彼はもう一度だけ結界の流れを確かめる。

 灯火食堂の壁に沿って、見えない水面のような魔力が静かに揺れた。


「サヨさんも休んでください。夜の見張りは、こちらで続けます」


「ええ。お願いね」


 ノアが去った後も、ルカの枕元には小さな灯りが揺れていた。

 低い台の上には、まだ手つかずのクッキーが一枚ある。


 小さな灯りと焼き菓子の匂いのそばで、ルカの呼吸はゆっくりほどけていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ