第24話 魔術師団長は、眠れない子のそばに小さな灯りを残した
ミラが灯火食堂に服を届けてから、二日ほど経った夜。
灯火食堂の営業が終わり、重い木戸に鍵がかけられると、店内には静かで穏やかな時間が訪れた。
サヨはかまどの火を落とし、ランプの灯りを少しだけ絞って、明日の朝のための出汁の仕込みをしていた。
厨房の隅に置かれた簡易寝台の上で、ルカは膝を抱えて座っている。
着ているのは、ミラが持ってきてくれた服の中から、自分で「これがいい」と選んだ深い青色のシャツだった。
柔らかな布地に包まれているせいか、昼間のルカは少し落ち着いて見えるようになっていた。
けれど、夜は違う。
窓の外がすっかり闇に沈み、通りを行く人の足音も遠ざかっていくにつれ、ルカの呼吸は少しずつ浅くなっていった。
王宮の夜は、ルカにとって休む時間ではなかった。
煌々と魔力灯が灯された豪奢な寝室。
分厚い天蓋のついた寝台。
見張りの騎士。
廊下を歩く誰かの足音。
一見すれば何重にも守られた場所のはずなのに、ルカにはそれが、息を潜めて朝を待つための檻のように思えていた。
少しでも物音がすれば、目が覚める。
誰かが来るかもしれない。
何かが運ばれてくるかもしれない。
目を閉じ、眠りに落ちることは、自分を無防備に差し出すことのようだった。
ルカは、重く下がってくるまぶたをこすった。
ここは王宮ではない。
サヨがすぐそばにいる。
それは分かっている。
それでも、身体に染みついた怖さは、簡単には離れてくれなかった。
サヨはその様子に気づかないふりをしながら、鍋の中をゆっくりとかき混ぜていた。
無理に「寝なさい」と言えば、それもまたルカにとっては命令になってしまう。
だからサヨは、ただ同じ空間にいた。
その時、裏口の結界が、ちり、と微かに鳴った。
サヨが振り向くと、控えめに木戸が叩かれる。
「こんばんは、サヨさん。結界の様子を見に来ました」
サヨが鍵を開けると、王国魔術師団長ノアが立っていた。
王宮で見せる威厳あるローブではない。
街角に紛れてしまいそうな、地味な平服姿だった。
ただ、腕には古びたブリキの缶を大事そうに抱えている。
「いらっしゃい、ノア。冷えたでしょう」
「平気です」
ノアは小さく首を振り、店の中へ入った。
そして、カウンターの上にブリキ缶をそっと置く。
ルカは、ノアの姿にびくりと身を縮ませた。
ノアから漂う魔力の気配は、隠していてもなお大きい。
王宮で見たどの魔術師とも違う、深く静かな水のような気配だった。
それがすぐに危険なものではないと分かっていても、ルカの身体は反射的に強張ってしまう。
ノアは、怯えるルカに近づかなかった。
数歩離れた丸椅子を引いて腰を下ろすと、無表情のまま、ブリキ缶を抱え直した。
ルカの視線が、その缶に向く。
ノアは、ほんの少しだけ缶を胸に寄せた。
「これは非常用です」
「……非常用?」
「私の」
短い言葉に、サヨが小さく笑った。
ノアは缶の蓋を開ける。
かぱ、と軽い音がして、ふわりと甘い匂いが店内に広がった。
バターと砂糖。
少しだけ焦げた小麦粉。
サヨが時間のある時に焼く、素朴な手作りクッキーの匂いだった。
形は少し不揃いで、王宮の菓子のように繊細ではない。
けれど、その匂いは、火のそばにいるような温かさを持っていた。
ノアは缶から一枚取り出し、サヨの前に置いた。
それから、もう一枚を小さな木皿に乗せ、ルカの寝台のそばにある低い台へ置く。
食べろ、とは言わなかった。
「食べなくてもいいです。匂いだけで落ち着くことがあります」
ノアは自分の分のクッキーを一枚口に入れ、さく、と静かに噛んだ。
「私は、そうでした」
ルカは、置かれたクッキーと、ノアを交互に見た。
ノアは天井の煤けた梁を見上げる。
「昔、自分の魔力が怖かったんです」
声は淡々としていた。
大きな出来事を語るというより、鍋の火加減を説明するような静けさだった。
「眠ると、うまく抑えられなくなる気がして。目を閉じるのが苦手でした。自分の中にあるものが、自分のものではないみたいで」
ルカは、信じられないようにノアを見つめた。
王国で最も優れた魔術師。
誰もが一目置く魔術師団長。
その人にも、自分の中にある力を怖がっていた時期があった。
「眠れずにこの店へ来た夜、サヨさんは封印具も説教も持ってきませんでした」
ノアの視線が、カウンターの中のサヨへ向く。
「温かい飲み物と、焼き菓子を出してくれただけです。それから、火の番を一緒にしてくれました」
サヨは何も言わず、鍋をかき混ぜている。
けれどその横顔は、少しだけ懐かしそうだった。
「そのうち、私は寝てしまいました。火のそばで、焼き菓子の匂いがして、見守られている気配があったから」
ノアは、ルカの方へ視線を戻した。
「眠れない夜に必要なのは、強い命令ではありません。ここで眠ってもいいと、身体が少しずつ覚えることです」
そう言って、ノアは指先で空中に小さな円を描いた。
ぽ、と柔らかな光が生まれる。
王宮の魔力灯のように白く冷たい光ではなかった。
暖炉の火を小さく丸めたような、橙色の灯りだ。
眩しくなく、目を刺さず、ただそこにあるだけで、夜の隅を少しだけやわらげる。
ルカは身構えた。
ノアはそれに気づくと、灯りをさらに小さく、弱くした。
「敵を倒す灯りではありません」
「……?」
「眠る場所を、ここだと覚えさせる灯りです」
ノアはその灯りを、ルカの枕元にそっと浮かべた。
「外からは見えません。店の中にいる人の目にも、強くは映らない。けれど、目を覚ました時に、ここが同じ場所だと分かります」
光はゆっくり揺れている。
まるで、小さな呼吸をしているようだった。
「結界も整えました。今夜は、余計な気配は近づけません」
絶対、とは言わなかった。
けれどノアの声には、淡々とした確かさがあった。
「だから、眠れそうなら眠っていい。眠れないなら、ただ目を閉じているだけでもいいです」
ルカは、枕元の小さな灯りを見つめた。
低い台の上のクッキーからは、甘い匂いが漂っている。
かまどの熱はもう弱い。それでも、サヨが鍋を扱う音が、店の奥で静かに続いていた。
誰かが見守ってくれている。
甘い匂いがある。
小さな灯りがある。
それだけで、胸の奥に張っていた糸が、少しずつ緩んでいく。
ルカは膝を抱えていた腕をほどき、ゆっくりと横になった。
まだ怖さは残っている。
けれど、まぶたを閉じてもいいような気がした。
最後に見えたのは、枕元で揺れる橙色の灯りと、少し離れた場所でクッキー缶を守るノアの横顔だった。
ルカの呼吸が、少しずつ深くなる。
サヨは鍋の火を落とし、音を立てないように手を拭いた。
「ありがとう、ノア。夜遅くに、わざわざ」
「必要な点検です」
ノアはそう言って、ブリキ缶の蓋を閉めた。
けれどすぐには帰らず、眠り始めたルカを一度だけ見た。
「……昔の私より、ずっと素直です」
小さな声だった。
サヨは微笑む。
「あなたも、あの頃は素直だったわよ」
「記録には残っていません」
ノアは真顔で言い、缶を大事そうに抱え直した。
裏口へ向かう前に、彼はもう一度だけ結界の流れを確かめる。
灯火食堂の壁に沿って、見えない水面のような魔力が静かに揺れた。
「サヨさんも休んでください。夜の見張りは、こちらで続けます」
「ええ。お願いね」
ノアが去った後も、ルカの枕元には小さな灯りが揺れていた。
低い台の上には、まだ手つかずのクッキーが一枚ある。
小さな灯りと焼き菓子の匂いのそばで、ルカの呼吸はゆっくりほどけていった。




