第23話 商会長は、正解ばかりを探す子どもに選ぶ自由を教えた
昼の喧騒が引き、灯火食堂に穏やかな午後の日差しが差し込む時間。
サヨはカウンターの中で、夜の営業に向けて野菜の下ごしらえをしていた。
水で洗った大根や人参を切り揃えていく、とん、とん、という規則正しい包丁の音。かまどの火は落とされ、静かな店内にその音だけが心地よく響いている。
ルカは、厨房の火の気が残る一番温かい席に座っていた。
彼の前には、小さな木の椀がある。
昼に出した薄い粥には、匙の跡が少しだけ残っていた。
食べられない日もダメな日じゃない。
リナにそう言われてから、ルカの食事に対する強張りは、ほんの少しだけ緩んでいた。
まだ、普通の食事とは程遠い。けれど、口に入れることへの恐怖は、昨日よりも薄くなっている。
ルカは木の匙を置き、手持ち無沙汰に、自分の服の袖をいじった。
王宮から着の身着のまま抜け出してきたルカが着ているのは、サヨが間に合わせで用意した、少し大きめの麻の服だった。
肌触りはごわごわとしていて、動くたびに首元が少し擦れる。
けれど、王太子という重たい鎧から解放されたようで、ルカはその服が嫌いではなかった。
こと、と。
裏口の木戸が、遠慮がちな音を立てて開いた。
「サヨさん、頼まれていた荷物、持ってきたわよ」
明るく、けれど少し声を潜めた声とともに、大きな荷物を抱えた女性が入ってくる。
ロッソ商会の商会長、ミラだった。
普段は人目を引く装いも軽やかに着こなす彼女だが、今日は宿場町の風景に溶け込むような、動きやすい深緑の商人服を着ている。
「ミラちゃん。悪いわね、忙しいのにわざわざ」
「いいのよ。この辺りに用もあったから」
サヨが手を拭いて出迎えると、ミラは大きな包みを二つ、客席のテーブルに置いた。
ルカは、突然の来客と大きな荷物にびくりと身を縮める。
王宮にいた頃、商人が持ち込む荷物は、たいてい王太子への献上品だった。
それは常に高価で、重々しく、受け取る側にも相応しい態度と礼が求められた。
ミラは、カウンターの隅で固まっているルカに気づくと、ふわりと微笑んだ。
「あなたがルカね。はじめまして、私はサヨさんに育ててもらった元常連のミラよ」
過剰な敬意も、憐れむような目もなかった。
町で会った子どもに声をかけるような、ごく自然な声だった。
ミラも、事情はサヨたちから聞いている。けれど彼女は、目の前の子どもを王太子として扱わなかった。
ルカは戸惑いながらも、小さく頷いた。
「さあ、サヨさん。言われた通り、肌触りがよくて、丈夫で、目立ちにくいものを見繕ってきたわ」
ミラが包みの紐を解くと、中から何枚もの服が現れた。
シャツ、ズボン、薄手の上着、靴下や下着。
どれも華美な飾りはない。けれど、生地は柔らかく、縫い目はしっかりしている。
「ルカ」
サヨが、優しく声をかけた。
「ちょっと、こっちにいらっしゃい」
ルカは椅子から降り、おずおずとテーブルへ近づく。
広げられた服を見て、小さく息を呑んだ。
青、緑、茶色、生成り色。いくつもの色と形が、目の前に並んでいる。
「これ、全部……?」
「そうよ」
サヨは、ルカの肩にそっと手を置いた。
「ルカの着替えが足りなかったから、ミラちゃんにお願いして持ってきてもらったの。好きなものを選んでいいのよ」
好きなものを、選ぶ。
その言葉を聞いた瞬間、ルカの身体がぴくりと硬くなった。
「……えら、ぶ?」
「ええ。あなたが着たいと思う服を選んでちょうだい」
サヨは微笑んで促したが、ルカの顔から少しずつ血の気が引いていく。
王宮で、ルカが自分で何かを選ぶことはほとんどなかった。
着る服は、その日の行事や季節に合わせて侍従たちが用意した。
食べるものは、医師と料理長が決めた。
学ぶことも、遊ぶ時間も、すべて王太子として相応しいかどうかで決められていた。
ルカにとって選ぶことは、自由ではない。
正解を当てなければならない試験のようなものだった。
もし間違えたら。
相応しくないものを選んだら。
大人たちはきっと、困った顔をする。
ルカはテーブルの上の服を見つめたまま、小さく震え始めた。
「……あの、サヨさん」
縋るような目で、サヨを見上げる。
「どれが、いいですか……? どれを着ればサヨさんは困りませんか?」
その声に、サヨは胸を締めつけられた。
この子は、自分の好みより先に、大人の正解を探している。
そうしなければならない場所で、生きてきたのだ。
サヨが口を開く前に、ミラがふわりとしゃがみ込み、ルカと目線を合わせた。
「正解を探さなくていいのよ」
ミラの声は、静かで明るかった。
「似合うものじゃなくて、動きやすいものを選びな」
「でも……」
「間違えたら怒られるって、思ってる?」
ルカは、びくっと肩をすくめる。
ミラは、テーブルに並んだ服を指先で撫でた。
「私もね、昔は自分で服を選ぶことなんてできなかったわ」
「……え?」
「子どもの頃は、毎日泥だらけの服を一着だけ着ていたの。好きな色を選ぶどころか、替えがあるだけで夢みたいだった。その日食べるパンの切れ端を手に入れることで、精一杯だったから」
ルカは、驚いてミラを見た。
今、こんなにも綺麗で、自信に満ちて見える人が、泥だらけの服を着ていたなんて、すぐには信じられなかった。
「でも、この灯火食堂でサヨさんのご飯を食べて、皿を洗って、仕入れや保存のことを教わって、少しずつ分かったの」
ミラは、ルカの小さな手を取り、柔らかな布地の上へそっと置いた。
「選ぶって、誰かの正解を当てることじゃないのよ。自分の暮らしに合うものを、自分で決めることなの」
誰かの正解ではなく、自分で決める。
その言葉は、ルカの胸の奥に、温かい光のように差し込んだ。
間違えてもいい。
怒られない。
ここは、王宮ではない。
ルカは、ミラに導かれるまま、布地の手触りを確かめた。
今着ている麻の服よりもずっと柔らかい。
肌に触れても痛くなさそうで、袖もまくりやすそうだった。
真っ白なシャツは、すぐ汚してしまいそうで少し怖い。
茶色の上着は、重たそうに見える。
やがてルカの目が、一枚のシャツに止まった。
深い海のような、夜明け前の空のような、落ち着いた青色のシャツだった。
布は柔らかく、少しだけ起毛していて温かそうだ。
ルカは、おずおずとその青いシャツに手を伸ばし、きゅっと握った。
「……これ」
消え入りそうな声だった。
「これが、いいです」
ミラは、にっと笑った。
「いいね。洗いやすい」
「袖をまくりやすそうね」
サヨも嬉しそうに微笑んだ。
大人たちは、自分の選択を咎めなかった。
それどころか、当たり前のように受け止めてくれた。
ルカの胸の奥で、小さく縮こまっていたものが、ほんの少しだけ膨らむ。
「着てみましょうか」
サヨに手伝われながら、ルカはごわごわした麻の服を脱ぎ、自分で選んだ青いシャツに袖を通した。
柔らかい布が、身体をそっと包む。
首元も擦れず、動いても窮屈ではない。
何より、自分がこれがいいと思って選んだ服を着ている。
そのことが、ルカには不思議だった。
「どう? きつくない?」
「……うん。あったかい」
ルカは袖を何度も撫でながら、小さく、けれどはっきり頷いた。
その横顔には、王宮でいつも張りついていた緊張ではなく、年相応の、ささやかな誇らしさが浮かんでいた。
*
夜更け。
一日の営業を終え、静まり返った食堂の片隅で、サヨは小さなランプの明かりを頼りに、エリアスへ宛てた短い手紙を綴っていた。
『エリアス様。
今日は、ルカが自分で着る服を選びました。
深い青色の、とても柔らかいシャツです。
自分で選んだ服を着て、彼は今日、少しだけ背筋が伸びていた気がします』
ペンを置き、サヨは厨房の隅の簡易寝台へ視線を向ける。
ルカは、新しい青いシャツを着たまま、穏やかな寝息を立てていた。
自分で選んだものを身につけるという、ささやかで、当たり前の自由。
その小さな自由の積み重ねが、彼を縛っている見えない鎖を少しずつほどいていくのだと、サヨは思った。
サヨは、ルカが蹴飛ばしてしまった毛布をそっと掛け直すと、柔らかな金髪を静かに撫でた。




