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第22話 騎士団長は、皿洗いを最初の仕事だと言った

リナが灯火食堂を訪れた翌朝。


 朝の常連客たちが仕事へ向かい、灯火食堂にはぽっかりと静かな時間が訪れていた。


 サヨはかまどの薪を少し減らして火を落とし、朝食で使われた器を、洗い桶に張った水で手早く洗っていく。

 こちゃ、こちゃ、と木の器が触れ合う音。

 洗いたての椀から漂う、ほのかな湿り気の匂い。


 ルカはカウンターの隅の席に座り、その様子をじっと見つめていた。


 昨日、リナから「食べられない日もだめな日じゃない」と言われたことで、ルカの呼吸は少しだけ深くなっていた。

 けれど、まだ自分から何かを口にする気にはなれない。


 王宮のように、時間ごとに教練や学問の予定があるわけでもない。

 何をして過ごせばいいのか分からず、ただサヨの手元を目で追っていた。


 その時。


 裏口の木戸が、ぎしり、と重たい音を立てて開いた。


 入り口の光をふさぐほどの大きな影が、店の中へ入ってくる。

 厚手の革の外套に身を包んだ男だった。鎧は着ていない。けれど、その立ち方と歩き方には、武人の気配が染みついていた。


 ルカは、びくっと肩を跳ねさせる。


 王国騎士団長、レオン・ガルド。

 護衛確認という名目で、非番の日に私服でやってきたのだろう。本人はお忍びのつもりなのかもしれないが、その大きな体と低い気配は、少しも忍べていなかった。


 レオンは、カウンターの隅で身を固くしているルカを視界の端に捉えた。

 それから厨房に立つサヨと目が合う。


 その瞬間、彼の身体に染みついた癖が出かけた。


 サヨに向かって、片膝をつこうとしたのだ。


 サヨは洗い桶に手を入れたまま、じろりとレオンを見た。


 『ここはただの食堂よ』


 声には出さない。

 けれど、その視線だけで十分だった。


「っ……あー、おはようございます、サヨさん。今日もいい天気っすね」


 レオンは不自然に姿勢を戻し、首の後ろを掻きながら、野太い声で挨拶した。


「いらっしゃい、レオン。今日は早いのね」


 サヨは、何事もなかったように普通の客として言葉を返す。


 ルカは目を丸くして、そのやり取りを見ていた。

 騎士団長といえば、王宮でも恐れられる存在だ。そんな男が、食堂の女将に目で止められ、どこか所在なさげにしている。


 レオンはルカに近づかなかった。

 ただ黙って外套を脱ぎ、椅子に掛ける。

 太い腕の袖を肘までまくり上げると、まっすぐ厨房の隅にある洗い場へ向かった。


 サヨは何も言わず、少しだけ横へずれて、洗い桶の前を空ける。


 レオンはそこに立ち、水に浸かっていた木の椀を手に取った。


 きゅ、きゅ。

 大きな手には不釣り合いなほど小さな椀を、植物の繊維でできたたわしで丁寧に洗っていく。

 汚れを落とし、清水ですすぎ、乾いた布巾で水気を拭き取って、棚へ重ねる。


 その動きには、無駄がなかった。

 剣を振るう時とは違う。けれど、それと同じくらい体に染み込んだ動作だと分かる。


 ルカは、息をするのも忘れて見入っていた。


 王宮で、騎士が水仕事をする姿など見たことがない。

 騎士の手は剣を握るためにあり、器を洗うのは下働きの者たちだと教えられてきた。


 ルカは、自分でも気づかないうちに椅子から立ち上がっていた。

 そして、洗い場に立つ大きな背中へ、恐る恐る声をかける。


「あの……騎士団長、なのに……お皿を、洗うのですか」


 言ってから、ルカははっとして両手で口を押さえた。


 王宮でこんな口を利けば、すぐに叱責が飛んでくる。

 怒られる。

 そう思って身をすくませたルカに、レオンは手を止めずに答えた。


「俺の最初の仕事だ」


 振り返りもせず、ただ静かに言う。


 サヨは、洗い流された木の椀を受け取りながら、遠い昔のことを思い出していた。


 まだ灯火食堂を開いて間もない頃。

 店の裏口で、生ごみの樽を漁っていた痩せた少年がいた。

 目つきが悪く、腹を空かせ、誰にも助けを求められずにいた子ども。


 サヨはその首根っこを掴んで、厨房へ引きずり込んだ。


『盗むなとは言わない。でも、腐ったものを食べて死ぬのは許さない。皿を洗いなさい。働いた分は、ちゃんと食べさせるから』


 あの時、渡された布巾を泥だらけの手で握りしめ、必死に皿を洗っていた少年。

 それが、レオン・ガルドの最初の仕事だった。


 レオンは、洗い終わった木の椀を一枚だけ手に取り、水桶と一緒に、ルカの前のカウンターへことりと置いた。

 横にあった布巾を、無言で差し出す。


 やってみるか。


 言葉はなかったが、そう言われているのだと分かった。


 ルカは、ごくりと唾を飲み込み、おずおずと手を伸ばした。

 王宮で、一度も水仕事などしたことがない。身の回りのことは、すべて誰かが整えてくれていた。


 冷たい水の中に手を入れる。

 たわしを持ち、見よう見まねで木の椀をこする。


 けれど、力加減が分からなかった。

 つるりと椀が手から滑る。


 ばしゃっ。


 桶の中で水が跳ね、ルカの麻の服の袖と胸元が濡れた。


「あっ……!」


 ルカは濡れた袖を抱え込むようにして、その場で固まった。


 失敗した。

 服を汚してしまった。

 水も跳ねた。


 王宮なら、誰かが息を呑む。

 誰かが困った顔をする。

 すぐに着替えを、と侍従たちが慌ただしく動き出す。


 ルカの呼吸が浅くなる。


 けれど、レオンは濡れた袖を見ても、眉一つ動かさなかった。


「割らなかった。上等だ」


 短く、それだけを言った。


 ルカは、弾かれたように顔を上げる。


 サヨも、慌てて着替えを取りに行ったり、大げさに心配したりはしなかった。

 ただ静かに歩み寄り、乾いた清潔な手拭いを、ルカの手の横にそっと置く。


 怒っていない。

 笑いものにもしていない。


 濡れたなら、拭けばいい。

 ただ、それだけだった。


 ルカは、置かれた手拭いで、自分の袖をそっと拭いた。


 失敗しても、怒られない。

 服を濡らしても、失望されない。


 ルカはもう一度、桶の中の木の椀に手を伸ばした。

 今度は両手でしっかり持ち、たわしでゆっくりと表面をこする。

 水が少し跳ねた。

 けれど今度は、驚かなかった。


 不格好な手つきで、それでもなんとか洗い終えた木の椀。

 サヨはそれを受け取ると、布巾で丁寧に水気を拭き、棚のいちばん手前、よく見える場所にそっと重ねた。


 働くことは、罰ではない。

 誰かに命じられるだけの義務でもない。


 自分の手で洗った器が、誰かの暮らしの中に戻っていく。

 その小さな事実が、ルカの胸の奥に、ほんの少しだけ温かい灯りをともした。


   *


 その日の夜。


 店の片付けを終えたサヨは、ランプの明かりの下で、王都のエリアスへ宛てた短い手紙を綴っていた。

 流麗な言葉を飾る余裕はまだない。

 一日の様子を記す、簡素な報告書に近いものだった。


『エリアス様。

 今日は、ルカが木の椀を洗いました。

 袖を濡らしてしまいましたが、とても真剣な顔をしていました』


 サヨはそこでペンを止め、厨房の隅に置いた小さな寝台へ視線を向ける。


 ルカは、静かな寝息を立てて眠っていた。

 けれど、その顔はサヨの方ではなく、厨房の棚の方へ向いている。


 棚に並んだ木の椀の中に、自分が洗った一枚があることを、ルカは何度も確かめた。

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