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第21話 聖女庁の治癒師長は、食べられない日をダメだと言わなかった

灯火食堂の朝は、かまどに火を入れる音と、一番出汁の澄んだ匂いから始まる。


 サヨは使い込まれた前掛けの紐を背中で結び直すと、木べらで大鍋の底をゆっくりとかき混ぜた。

 まだ外は薄暗く、ひんやりとした空気が床を這っている。ぱちぱちと爆ぜる薪の音と、立ち上る白い湯気だけが、静かな店内に確かな温もりを作っていた。


 客席の片隅、厨房の火の気が一番届くカウンター席に、ルカは座っている。


 サヨが用意した、体を締めつけない麻の服を着て、両手で短く太い木の匙を握りしめていた。

 目の前には、小さな木の椀がある。

 中に入っているのは、米の粒がほとんど溶けるまで煮込まれた、ごく薄い粥だった。ほんの少しの塩気と野菜の甘みだけを含んだ、胃に負担をかけないための食事。


 けれどルカは、木の匙を握ったまま、じっと椀の底を見つめて動けずにいた。


 昨夜、この食堂へやってきて、「食べなくてもいいのよ」とサヨに言われた。

 白湯の温もりだけで、胸の奥がほどけるほど安心した。


 それでも朝になり、目の前に少しでも形のある「食事」が置かれると、どうしても王宮での記憶がよみがえってくる。


 食べなければいけない。

 一口でも飲み込んで、体力をつけなければ。

 立派な王太子でいなければ。


 そう思うほど、胃の奥が冷たい石のように硬くなり、喉がぎゅっと塞がっていく。

 美しく盛りつけられた銀の皿。

 侍従たちの困った顔。

 毒見役の無機質な視線。

 そして、医師たちの深いため息。


 ルカの握る木の匙が、かすかに震えた。


 また、食べられない。

 サヨさんが作ってくれたのに、自分はまた、食べられない。


 俯いたルカの呼吸が浅くなり始めた、その時だった。


 こん、こん、と。

 裏口の木戸が、控えめに叩かれた。


「おはようございます。……朝早くにごめんなさい」


 サヨが手を拭って扉を開けると、質素な灰色の外套を深く被った若い女性が立っていた。


「リナちゃん。おはよう。外は冷えたでしょう」

「ええ、少しだけ」


 フードを下ろしたのは、聖女庁の治癒師長であるリナだった。


 王宮や神殿で見せる、隙のない純白の法衣姿ではない。町に買い物に出る娘が着るような、飾り気のない平服だ。

 今日は非番なのだろう。それでも、ルカの体調を気にかけて、誰にも大げさに知られないよう、この食堂へ足を運んできたのだ。


 リナは、王国の重鎮としての顔を入り口に置いてきたかのように、灯火食堂の温かい空気に触れた途端、ふわりと表情を和らげた。


「おはよう、ルカ君」


 リナは、新しい名で彼を呼んだ。


 王宮でなら、決して許されない呼び方だった。

 けれど、ここで「殿下」と呼んでしまえば、ルカはまた銀の皿と毒見役の視線の前に引き戻されてしまう。


 リナも、そのことを分かっていた。

 治癒師長としてではなく、かつてこの店の片隅で温かい白湯を受け取っていた一人の元常連として、目の前の子どもを王太子ではなく、休むためにここへ来た「ルカ」として扱うことを選んでいた。


 リナはルカのそばまで歩み寄ると、威圧しないように、目線を合わせて静かにしゃがみ込んだ。


 ルカは、知っている顔に少しだけ安堵した。

 けれど彼女が治癒師長であることを思い出した瞬間、肩をこわばらせる。


 王宮での診察は、いつも唐突だった。

 服をめくられ、冷たい器具を胸や額に当てられ、終われば医師たちはルシアンの顔を見ずに紙へ何かを書き込む。

 ルカはまた冷たいものが当てられるのだと思い、ぎゅっと目を伏せた。


 けれど、リナはすぐには触れなかった。


 彼女は一度立ち上がると、かまどのそばへ行き、火に両手をかざした。指先をこすり合わせ、手のひらをゆっくり温める。


「朝の風は冷たいから。冷たい手で触ったら、びっくりしちゃうものね」


 十分に手が温まるのを待ってから、リナはもう一度ルカの前にしゃがみ込んだ。


「ルカ君」

「……?」

「お熱がないか、少しだけお顔に触れてもいい?」


 ルカは、はっと目を開けた。


 触れてもいいか、と聞かれた。

 王宮の大人たちは、そんなふうに尋ねたりしなかった。診察は義務で、体は差し出すものだった。


 戸惑いながらも、ルカが小さく頷く。


 リナの温かい手のひらが、そっと額に触れた。

 次に、首筋へ。

 じんわりとした熱が、強張った筋肉をゆっくりほどいていく。


 リナの触れ方は、ひどく優しかった。

 数値だけを測る冷たい魔力計ではない。浅い呼吸、瞬きの速さ、肩に入った力まで、手の温度と静かな視線で丁寧に見ている。


「うん。お熱はないみたい。魔力の流れも、昨夜より落ち着いているわ」


 リナはにっこり笑って手を離すと、カウンターの奥で野菜の下ごしらえをしているサヨを振り向いた。


「先生、湯たんぽを一つ借りてもいいですか。少しだけ、ルカ君のお腹を温めたいので」

「ええ、待っててね。ちょうどお湯が沸いているから」


 サヨが穏やかに返すと、ルカは目を丸くした。


「……せんせい?」


 小さな呟きに、リナはくすりと笑う。


「そうよ。私にとっては、今でもサヨさんが先生なの」

「聖女様、なのに……?」

「私が聖女と呼ばれるようになれたのは、先生のおかげだもの」


 リナは、ルカの隣の椅子に腰を下ろした。

 使い込まれた木の椅子が、小さく軋む。


「私もね、昔は体がとても弱かったの。自分の中にある魔力が強すぎて、体が追いつかなくて。起き上がることも、食べることも、眠ることも、とても下手だった」


 ルカは、目の前の女性をじっと見つめた。


 王宮の誰もが敬意を払う治癒師長。

 奇跡の御手を持つと称えられる人。

 その人が、起き上がることすらできなかったなんて、すぐには信じられなかった。


「あの頃はね、目の前に出された一口のスープが、鉛みたいに重かったわ。食べなきゃいけないって分かっているのに、どうしても喉を通らなくて」


 リナの声は静かだった。


「食べられない自分が、情けなくて、悔しくて。ずっと、このままなのかと思っていた」


 その言葉は、ルカの胸の奥にすっと染み込んだ。


 同じだ、と思った。

 立派な大人に見えるこの人にも、ご飯が怖くて、食べられなくて、自分を責めていた時期があったのだ。


 サヨが、厚手の布で包んだ湯たんぽを持ってきて、ルカの膝の上にそっと乗せた。

 ずっしりとした重みと、じんわりした熱が、冷えていたお腹のあたりへ広がっていく。


 サヨは何も言わず、ただ湯たんぽを置いて、また鍋の前に戻った。


「さあ、ルカ君」


 リナが優しく声をかける。


 ルカは、湯たんぽを抱えたまま、目の前の木の椀を見つめた。

 ほんの一口の薄い粥。

 木の匙を握る手に力が入る。


 食べなければ。

 食べて、サヨさんやリナを安心させなければ。


 けれど、粥をすくおうとした手が、空中でぴたりと止まった。


 胃の奥が、拒むように小さく波打つ。

 まだ怖い。

 飲み込むことが、怖い。


 ルカの目の縁が、じわりと濡れた。


 せっかく温めてもらったのに。

 優しい言葉をかけてもらったのに。

 結局、自分は一口の粥すら食べられない。


 王宮の医師なら、ここでため息をついただろう。

 侍従なら、困った顔で皿を下げただろう。


 けれど、リナはため息をつかなかった。


 彼女は、ルカの震える小さな手を、自分の両手でふわりと包み込んだ。


「食べられない日も、だめな日じゃありません」


 リナの声は、春の陽だまりのように温かかった。


「身体が、まだ怖がっているだけです。今日は、食べる日ではなくて、温めて休む日。それでいいんです」


 ルカは、涙で滲んだ目でリナを見上げた。


 リナは、かつて自分がサヨにそうしてもらったように、ただルカの弱さを責めず、静かに微笑んでいた。


「一口のスープが重い日は、温かいお湯を飲んで眠ればいいの。そうやって休んでいるうちに、いつか自然と、匙を持てる日が来るから」


 リナの手が、ルカの手を急かさず包んでいる。


「だから、急がなくていいのよ」


 食べられない日も、だめな日じゃない。

 身体が、まだ怖がっているだけ。


 その言葉に、ルカの張り詰めていた息が、ふうっと長く吐き出された。

 無理に食べなくても、誰も失望しない。

 誰も急かさない。


 ルカは湯たんぽの温もりを抱えたまま、静かに小さく頷いた。


 昼前になり、リナが聖女庁へ戻っていった後。

 客足の途切れた静かな時間に、サヨはエプロンのポケットから一通の封筒を取り出した。


 昨夜遅く、王都からこっそり届けられた、エリアス王弟殿下からの短い手紙だった。


 上質な羊皮紙の手触りと、微かに香るインクの匂い。

 そこに、王宮の政治的な報告は書かれていない。

 ただ、静かな気遣いだけがあった。


『サヨ殿。ルカが食べられなかったとしても、そこで休めているのなら、それは十分な前進です。

 どうか、あなた自身も温かいものを口にして、一息ついてください』


 命令ではなかった。

 過剰な干渉でもなかった。


 サヨの判断を信じ、そしてサヨ自身の体まで気遣う、不器用なほど誠実な言葉だった。


 サヨは手紙の端を指先で撫で、小さく息をつく。

 十七年間、一人でこの食堂を守ってきた。

 誰かに労わってもらうことを、いつの間にか忘れていた。


 けれど、この紙の手触りは、ひどく心地よかった。


 ふと視線を上げると、カウンターの隅で、ルカが湯たんぽを抱いたまま静かな寝息を立てていた。

 目の前には、一口も手をつけられなかった薄い粥の椀が、そのまま置かれている。


 けれどルカはその日、手をつけられなかった椀を、自分がだめだった証のようには見なかった。

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