第20話 王太子ではない子が、灯火食堂に帰ってきた
夜の帳がすっかり下りた宿場町リーベルは、昼間の荷車の音も、旅人たちの笑い声も失って、深い静けさの中に沈んでいた。
大通りから少し外れた裏通りに、車輪の音を忍ばせるようにして、一台の幌付き荷馬車が止まる。
サヨは、御者台の男に小さく目礼をした。
ミラが手配した者だろう。見慣れぬ顔だが、余計なことを尋ねる気配はない。男は手綱を握ったまま、ただ静かに帽子のつばを下げた。
サヨは馬車のステップを降りると、幌の中へそっと手を差し出した。
冷たい夜気の中、ためらうように、小さな手が伸びてくる。
サヨはその手を、しっかりと握った。
王宮の上等な絹ではなく、少し大きく、ごわついた麻の服を着たルカが、サヨの手にすがるようにして馬車から降り立つ。
三日月は薄い雲に隠れ、路地の奥はほとんど闇に沈んでいた。
サヨはルカの手を引き、自分の店の裏口へ向かう。
一見すれば、誰もいないただの暗い路地だった。
けれど、通りの角の深い影に、不自然なほど動かない大柄な男の気配がある。男の視線はサヨたちではなく、周囲の路地へ鋭く向けられていた。レオンが密かに置いた者だろう。
裏口の古い木扉に手をかけた瞬間、指先にちり、と微かな感触が走った。
ノアの結界だ。
目立たず、けれど確かに、この小さな食堂を守る気配があった。
サヨは一つ息を吐き、使い込まれた真鍮の鍵を回す。
扉は、ぎい、と小さく鳴って開いた。
「ただいま」
ふわりと、温かい空気が二人を包んだ。
干した野菜。
少しの香草。
焦げた醤油と出汁の匂い。
それらが幾重にも重なった、灯火食堂の匂いだった。
数日ぶりに戻った厨房は、出かける前と変わらず整えられていた。
冷えたかまどの灰の匂いすら、今のサヨにはひどく懐かしい。
サヨはルカの手を引いたまま、厨房のランプに火を灯した。
橙色の光が、黒光りする調理台や、壁に掛けられた大小の鍋をぼんやりと照らす。
ルカは、黙ったまま店内を見回していた。
足首まで沈むような赤い絨毯はない。
歩けば、古い床板がきしりと鳴る。
壁に金糸のタペストリーも、王族の肖像画もない。あるのは、手書きの木札の品書きだけだ。
天井には魔法石のシャンデリアではなく、煤けた太い梁が渡っている。
狭くて、古くて、飾り気がない。
そして、ここには視線がなかった。
壁際に並ぶ侍従もいない。
食事の前に銀の匙を口にする毒見役もいない。
作法を正す家庭教師も、ため息をつく医師もいない。
誰も、ルカを見張っていない。
そのことが、ルカには心細くもあり、同時に、背中を固めていたものをほんの少しだけ緩めた。
「ここに座ってね」
サヨは、テーブルの上に上げられていた椅子を一つ下ろし、厨房に近いカウンター席へ置いた。
ルカは近づいたものの、椅子の前でぴたりと足を止めた。
それから、サヨの顔を見上げる。
座ってもいいのか。
そう尋ねるような目だった。
「いいのよ。よっこいしょ、って座るの」
サヨが座面をぽんぽんと叩くと、ルカはおずおずと椅子に上がり、ちょこんと腰を下ろした。
足は床に届かず、宙に浮いている。
その姿は、国を背負う王太子ではなく、どこにでもいる小さな男の子だった。
「少し休んでいてね。私は、明日の朝の仕込みをしてしまうから」
サヨはそう告げると、エプロンの紐を締め直し、調理台の前に立った。
無理に話しかけない。
ルカには今、この店の空気に慣れる時間が必要だった。
かまどに薪をくべる。
火がつくと、ぱちぱちと小さな音がして、厨房にゆっくり熱が広がっていった。
サヨはまな板の上に根菜を並べ、包丁を入れる。
とん、とん、とん。
一定の音が、夜の店内に落ちていく。
小鍋の水が温まり、しゅんしゅんと鳴り始めた。
薪を直す音。
鍋のふちに当たる木べらの音。
どれも、誰かの生活を支えるための音だった。
ルカはカウンター越しに、サヨの背中をじっと見つめていた。
静かだった。
王宮の、息を潜めるような静寂とは違う。
誰も怒鳴らず、誰も冷たい目を向けず、ただ明日の朝のために手が動いている。
けれど、その静けさの中で、ルカの肩は少しずつ強張っていった。
視線は、包丁と、小鍋の湯気のあいだを行き来している。
厨房から漂う匂いは、決して嫌なものではなかった。香草や脂の重たい匂いではない。土の甘みと、火の匂いだ。
それでも、食べ物の気配は、ルカの奥にこびりついた恐怖を呼び起こした。
目の前に置かれる、冷たい銀の皿。
残さず食べるよう促す声。
飲み込めず、喉が拒み、胃が痙攣した時の、周囲のため息。
ルカの手が、膝の上でズボンの生地を握りしめる。
指の関節が白くなった。
食べなければいけない。
サヨが火を起こしている。
自分のために何かを作っている。
出されたものは、食べなければならない。
そう思った途端、呼吸が浅くなった。
唇から血の気が引き、肩が小さく震える。
「……ルカ」
優しい声が降ってきた。
顔を上げると、サヨは包丁を置き、カウンター越しにルカを見ていた。
責める目ではなかった。
急かす目でもなかった。
サヨは小さな木のカップを取り、そこに湯を注ぐ。
それを、ルカの前にそっと置いた。
ルカは息を呑み、カップの中を覗き込む。
そこに入っていたのは、スープでも粥でもない。
湯気を立てる、ただの白湯だった。
「え……?」
戸惑って見上げるルカに、サヨはゆっくり首を横に振った。
「食べなくていいのよ」
ルカの目が、大きく開いた。
「夜も遅いし、馬車に揺られて疲れたでしょう。そんな時は、無理に胃袋を動かさなくてもいいの」
サヨは、木のカップの縁を指先で軽く叩いた。
「温かいお湯を飲んで、お腹の中を少しだけぽかぽかにする。それだけで十分。……それも苦しかったら、無理に飲まなくていいわ」
食べなくていい。
飲まなくてもいい。
その言葉は、ルカの耳の奥で、ゆっくりほどけていった。
「……サヨさん、怒らない?」
かすれた声で、ルカが尋ねた。
サヨは柔らかく微笑む。
「食べることを休む日があってもいいのよ」
そこに失望はなかった。
苛立ちもなかった。
ただ、疲れた子どもを休ませようとする眼差しだけがあった。
ルカの目の縁が、ほんの少し濡れた。
彼は両手で木のカップを包み込む。
じんわりと、木の温もりが手のひらへ移った。
小さく、すするようにして白湯を口に含む。
味はない。ただ温かいだけの湯。
けれどその温もりは、冷えて固まっていた喉を通り、胃の奥をゆっくり撫でていった。
ルカはカップを持ったまま、厨房の方へ少しだけ身を傾ける。
ことことと鍋が鳴る。
野菜と出汁の甘い匂いが、湯気に乗って漂ってくる。
お腹は空いていない。
食べたいとも、まだ思えない。
それでも、その匂いに包まれていると、息が少しだけ楽になった。
サヨは、ルカの小さな背中にそっと毛布をかける。
「今日は、匂いだけでもいいのよ」
食堂にサヨの優しい声が溶けていった。




