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第19話 新しい名前

王都の喧騒から遠く離れた、深い森の中。


 木々に隠されるようにして建つ小さな休憩小屋の前に、一台の幌付き荷馬車が静かに止まった。


 商会長(しょうかいちょう)ミラが手配した、ロッソ商会の管理する小屋だ。

 普段は、街道を外れた商人たちが一時的に休むための場所らしい。


 けれど今は、周囲に魔術師団長(まじゅつしだんちょう)ノアの認識阻害の結界が張られ、近くの道にはミラの部下が目立たぬよう見張りに立っている。


 馬車の外では、粗末な外套をまとったレオンが、最後まで周囲を警戒していた。


「足元、気をつけてくださいね」


 サヨは先に馬車を降りると、少し大きめの麻の服を着たルシアンへ手を差し出した。


 ルシアンはその手を見つめ、それからそっと握る。


 王宮の階段を降りる時のように、侍従が何人も控えているわけではない。

 赤い絨毯もない。

 磨き上げられた床もない。


 ただ、湿った土と、落ち葉と、サヨの温かい手があるだけだった。


 小屋の扉を開けると、ふわりと暖かい空気が流れてきた。


 暖炉には火が入り、ぱちぱちと小さな音を立てている。

 簡素な木の机と椅子。

 壁際に積まれた薪。

 窓には厚手の布がかけられ、外から中の様子は見えないようになっていた。


 その部屋で待っていたのは、王弟(おうてい)エリアスと宰相補佐(さいしょうほさ)ユリウスだった。


「よく無事に着いたな、ルシアン」


「エリアス叔父様……。ユリウスも」


 ルシアンの声に、ほっとした色が混じる。


 エリアスは歩み寄り、膝をついてルシアンと目線を合わせた。

 王弟としてではなく、叔父としての顔だった。


「疲れただろう。まず座りなさい」


 ルシアンは暖炉のそばの椅子に腰を下ろした。


 エリアスはその前に片膝をついたまま、しばらく言葉を選んでいた。

 やがて、静かに口を開く。


「ルシアン。しばらく、お前には王宮を離れて休んでもらう」


「……王宮に、戻らないの?」


「今は、戻らない方がいい」


 ルシアンの指が、膝の上で小さく動いた。


「僕が、悪いことをしたから?」


「違う」


 エリアスはすぐに首を横に振った。


「お前は何も悪くない。悪いのは、お前の食卓に悪意を混ぜた者たちだ」


 ルシアンは唇を噛んだ。


 サヨは、その横顔を見て胸が痛くなった。

 十二歳の子どもが、自分の食事に怯えなければならない。

 そのこと自体が、もう十分すぎるほど残酷だった。


「王宮には、まだ分からないことが多い」


 エリアスは続ける。


「誰が、どこから、どのようにお前の食事へ手を伸ばしたのか。すべてが明らかになるまで、お前を同じ場所に置いておくことはできない」


「じゃあ、僕はどこにいることになってるの?」


「表向きは、離宮で静養していることになっている」


「離宮……」


「ああ。魔力を安定させるため、しばらく面会を制限する。そう発表した」


 ルシアンは少し考え込んだ。


「父上と母上は?」


「知っている」


 エリアスの声が、少しだけ柔らかくなる。


「兄上も、王妃も、すべて承知の上でお前を送り出した」


「怒っていない?」


「怒るはずがない」


「泣いた?」


 その問いは、王太子のものではなかった。

 ただの子どもの声だった。


 エリアスは少しだけ目を伏せた。


「……泣いた」


 ルシアンの目から、ぽろりと涙がこぼれた。


「でも、最後にはこう言った。あの子が、もう一度笑って食べられるようになるなら、どうか頼む、と」


「父上が?」


「ああ」


「母上も?」


「ああ。正直に言うとな、世界が終わるかのような顔で私を見ていた。見ているこちらの方がつらくなるほどだった」


 ルシアンは両手で顔を覆った。


 サヨはそっと近づき、彼の背中に手を添える。


「ルシアン殿下」


 サヨが呼ぶと、ルシアンは涙に濡れた顔を上げた。


「僕、逃げるの?」


 その問いに、サヨは少しだけ息を止めた。


 逃げる。

 その言葉の痛みを、サヨは知っていた。


 前の人生で、逃げることを恥だと思っていた。

 逃げたかったのに、逃げていいのだと誰にも言ってもらえなかった。

 自分の心が擦り切れていることに気づいても、まだ我慢しなければならないと思っていた。


 だからこそ、今は違う言葉を選びたかった。


「休むんです」


 サヨは静かに言った。


「逃げるのではなくて、休むんです」


「休む……」


「はい。食べられるようになるために。眠れるようになるために。怖いものを、少しずつ怖くなくしていくために」


 ルシアンは、じっとサヨを見た。


「でも、僕は王太子なのに」


「だからこそです」


 サヨは、彼の目線に合わせてしゃがみ込む。


「王太子殿下である前に、あなたは十二歳の子どもです。子どもが休むことは、悪いことではありません」


 ルシアンの唇が震えた。


「僕、何をすればいいの?」


 エリアスが答えた。


「しばらく、サヨさんの店で暮らしなさい」


「サヨさんの、店で?」


「ああ。民の暮らしを知ることも、王太子には必要な勉強だ」


 ユリウスが眼鏡の位置を直し、穏やかに続ける。


「殿下には、特別な課外授業だと思っていただければ」


「課外授業……」


「はい。食堂の朝は早く、皿は自分で下げることが多く、町の人々は王宮ほど静かではありません。なかなか得がたい学びになるかと」


 少しだけ、ルシアンの表情が変わった。


「僕、皿を下げるの?」


「できる範囲で」


 サヨが微笑む。


「もちろん、最初から全部できなくていいですよ」


 ルシアンは不安そうに視線を落とした。


「難しいことは?」


 その問いに、エリアスははっきりと答えた。


「大人が引き受ける」


 ルシアンが顔を上げる。


「私が決め、ユリウスが整え、レオンが守り、リナが祈り、ノアが隠し、ミラが運んだ」


 エリアスはルシアンの両手を取った。


「お前が背負うことではない。お前は、ただ生きなさい」


「生きるだけでいいの?」


「今は、それが一番大事な仕事だ」


 ルシアンはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷く。


「……分かった」


 エリアスは静かに息を吐いた。


「難しい話は、ここまでにしよう」


 その声には、少しだけ疲れが滲んでいた。


 サヨは立ち上がり、エプロンを締め直す。


「では、温かいものを用意しますね」


 小屋の隅には、小さな厨房があった。

 王宮の厨房とは比べものにならないほど簡素だ。


 けれど、ミラが手配してくれた籠には、根菜と少しの干し肉、乾燥豆、塩、香草がきちんと入っていた。


 サヨは手を洗い、野菜を刻み、小鍋に水を張る。


 干し肉は、ほんの少しだけ。

 香草も、香りの強いものは避けた。

 疲れた子どもの胃に必要なのは、驚きではなく安心だ。


 火にかけると、やがてコトコトとやさしい音がし始めた。


 小屋の中に、野菜の甘い香りが広がっていく。


 ルシアンは、暖炉のそばでその匂いをじっと追っていた。


 王宮の食事は、いつも彼の前に完成した形で差し出された。


 銀の皿。

 並ぶ毒見役。

 控える侍従。

 見守る医師。


 食べなければならないものとして、やってきた。


 けれど今、目の前ではサヨが鍋をかき混ぜている。

 湯気を見て、香りを確かめ、少し味見をしてから、もう一つまみ塩を加えている。


 食事が、怖いものではなく、誰かの手で少しずつ作られていくものなのだと、ルシアンは初めて知るような気がした。


 やがてサヨは、素朴な木の椀にスープをよそった。


 王宮の、冷たく光る銀の皿ではない。

 木の温もりがそのまま伝わってくる、丸みを帯びた椀だった。


「どうぞ。熱いから、気をつけてね」


 サヨは椀をルシアンの前に置いた。


 ルシアンは、その椀をじっと見つめた。


 毒見役はいない。

 食べろと急かす者もいない。

 残したらどうするのかと顔色をうかがう者もいない。


 ただ、湯気が立っている。


 温かいうちに食べてほしい、という顔をしたサヨがいる。


「殿下」


 サヨは、彼の目線に合わせてしゃがみ込んだ。


「先ほど、馬車の中で、新しい名前が必要だと言いましたね」


 ルシアンが顔を上げる。


「あなたが王太子殿下であることが、消えるわけではありません。いつか、その名前と役目に戻る日も来るかもしれません」


 ルシアンは黙って聞いていた。


「でも、今だけは、ただの子どもでいていいんです」


 サヨは、彼の金色の髪をそっと撫でた。


「食べられない日は、残していい。怖い日は、怖いと言っていい。眠れない夜は、誰かを呼んでいい」


 ルシアンの目が、また少し潤む。


「王太子ではない時の、あなたの名前です」


 サヨは、優しく言った。


「ルカ、というのはどうでしょう」


「ルカ……」


 ルシアンは、その名を唇の上で転がすように呟いた。


 短くて、軽い名前だった。

 王族らしい長い響きも、肩にのしかかるような重さもない。


 町のどこかで、誰かが呼んでいそうな名前。


「ルシアンの、ル?」


「はい」


 サヨは頷いた。


「あなたがあなたでなくなるわけではありません。けれど、少しだけ軽くなれるように」


 ルシアンは胸に手を当てた。


 王太子ルシアンは、離宮で静養している。

 そういうことになっている。


 そして今、自分はサヨの店で休むために、ここにいる。


 逃げるのではなく。

 休むために。


「ルカ」


 サヨが、初めてその名を呼んだ。


 少年は、一瞬だけきょとんとした。

 それから、自分のことだと気づいたように、小さく目を見開く。


 少し遅れて、返事が返ってきた。


「……はい」


 それは、王宮の作法に則った完璧な返答ではなかった。

 けれど、年相応の少年の、素直な声だった。


 エリアスが静かに目を伏せる。

 ユリウスも、何も言わずに眼鏡の位置を直した。


 サヨは、木の椀を少しだけ彼の方へ押した。


「では、ルカ。冷めないうちに、どうぞ」


 ルカは両手で椀を包み込むようにして持ち上げた。


 じんわりと手のひらに伝わる温もり。

 湯気とともに立ち上る、野菜の甘い匂い。


 誰に許可を求めるでもなく。

 誰の顔色をうかがうでもなく。


 ルカは、小さく息を吸った。


「……いい匂い」


 そして、自分の意思で椀に口をつける。


 温かいスープが、喉を通っていく。


 それは、王太子ルシアンではなく、町の子どもルカとしての、初めての食事だった。

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