第18話 王都に流れた噂
その日の朝、王都の空気はいつもより少しだけ冷たく、そして重かった。
活気づくはずの市場の入り口で。
焼き立てのパンの匂いが漂う大通りの角で。
城門へ向かう石畳の上で。
人々は顔を寄せ合い、声を潜めていた。
「……おい、聞いたか。昨夜、王宮で……」
「ああ。ルシアン王太子殿下が、お亡くなりになったって……」
「しっ! 声が大きい。不敬だぞ」
誰が最初に口にしたのかは分からない。
だが、王太子死亡という不穏な噂は、朝霧が石畳を這うように、静かに、けれど確かに広がっていった。
「夜明け前に、突然お苦しみになって崩御されたらしい」
「いや、私が聞いた話では、聖女様の治癒魔法でもどうにもならず、静かに息を引き取られたと……」
「馬車で別の場所へ移される途中に亡くなったという話もあるぞ」
噂は一つではなかった。
夜明け前。
聖女の治癒のあと。
離宮へ向かう途中。
語る者によって細部が違う。
それでも、どの噂にも共通していることが一つだけあった。
ルシアン王太子殿下は、もう生きていない。
その一言が、人々の胸に冷たい影を落としていた。
数ヶ月前から殿下の体調が優れないという話は、平民の間にも薄く漏れ伝わっていた。
だからこそ、誰もが笑い飛ばすことができなかった。
しかし、陽が高く昇り始めた頃。
王都の主要な広場に、王宮からの布告役が現れた。
兵士を従えた男は、巻物を広げ、高らかに宣言を読み上げる。
『王太子ルシアン殿下におかれては、御自身の魔力を安定させるため、王家直轄の離宮にて長期の静養に入られた!』
広場に集まった人々が、ざわりと揺れた。
『治療を最優先とするため、当面の間、許可なき面会を禁ずるものとする! 王国の民は、殿下の一日も早き御快復を祈るように!』
布告役の声が石造りの広場に響き渡る。
人々は顔を見合わせた。
「なんだ。亡くなったというのは嘘じゃないか」
「よかった、離宮で療養されるだけなんだな……」
「でも、面会謝絶だろう? やっぱりかなりお悪いんじゃ……」
「まさか、王宮が殿下の死を隠しているんじゃないだろうな」
「馬鹿なことを言うな。そんなことを口にしたら捕まるぞ」
生きているのか。
それとも、死んでいるのか。
王宮の公式発表は、静養。
裏で囁かれる噂は、死亡。
二つの相反する言葉が混ざり合い、王都は落ち着かないざわめきに包まれていった。
*
「……やはり、食いつきましたね」
王宮の奥深く。
分厚いカーテンが引かれた執務室で、宰相補佐ユリウスは机に並べられた報告書を見下ろしていた。
彼の手元には、王都中に散らせた耳からの情報が、刻一刻と集まってきている。
夜明け前に崩御。
聖女の治癒の甲斐なく息を引き取った。
離宮への移送中に亡くなった。
細部の違う噂を、それぞれ別の場所へ流した。
公には、王太子は離宮で静養。
裏では、王宮が死を隠している。
矛盾した二つの情報に、人は必ず反応する。
信じたい者は信じ、疑いたい者は疑い、そして知っているはずのないことに手を伸ばす。
「『夜明け前に崩御』に反応したのは、内務省の一部。……『移送中の死』に安堵したのは、神殿に出入りする商人」
ユリウスのペン先が、報告書の名に線を引いていく。
その線は細く、静かだった。
けれど、逃がさないための線だった。
扉のそばに立っていたエリアスが、低く尋ねる。
「相手は、ルシアンが死んだと思ったか」
「正確には、そう思いたがっています」
ユリウスは報告書を伏せた。
「王宮が死を隠している。そう解釈した者がいます。ならば、少なくとも今は、殿下本人を狙う手は緩むでしょう」
「今は、か」
「はい。永遠ではありません」
エリアスは目を伏せた。
昨夜、サヨが口にした言葉を思い出す。
生まれ変わる、というのはどうでしょう。
あれは、ただ一人の子どもを守りたいという願いだった。
だが、その願いを現実にするためには、王宮は嘘をつかなければならなかった。
エリアスは、窓の外に目を向ける。
「……この嘘の責任は、私が負う」
ユリウスは何も言わなかった。
ただ、静かに頭を下げた。
*
王都のとある屋敷の奥。
日の光が届かない部屋で、ひとりの男が報告を聞いていた。
「王宮からは、離宮で静養との布告が出ました」
報告した者の声は、低い。
「ですが、別筋では、殿下はすでに亡くなられたと」
椅子に座る人物は、しばらく黙っていた。
やがて、わずかに息を吐く。
「……そうか」
その声に、悲しみはなかった。
「王宮は後継問題の混乱を避けるため、死を伏せたか」
「そのように見えます」
「ならば、今は動くな。下手に騒げば、こちらの耳が露呈する」
「よろしいのですか」
「よい。死んだ王太子に、これ以上手を下す必要はない」
その言葉を最後に、部屋は再び沈黙した。
*
王都が噂と憶測に揺れていたその頃。
王都から少し離れた人気のない街道を、商会の紋章が薄く描かれた一台の幌付き荷馬車が、ゆっくりと進んでいた。
見た目は、ごく普通の荷馬車だ。
荷台には干し草と布袋が積まれ、御者台には商会の者が二人座っている。
だが、馬車から少し離れた場所を、ひとりの騎士が馬で並走していた。
粗末な外套をまとい、顔を深く隠している。
その背筋だけが、隠しようもなくレオンだった。
荷台の中には、干し草の柔らかい匂いと、サヨの服から漂ういつもの石鹸の香りが満ちている。
ガタゴトと車輪が跳ねるたび、幌の隙間から差し込む光が小さく揺れた。
「……」
干し草の上に敷かれた毛布の上に、ルシアンは座っていた。
彼が身にまとっているのは、王宮の絹の寝巻きではない。
少し大きめで、生地もごわごわとした、平民の町の子どもが着るような麻の服だった。
首元に結ばれたスカーフも、飾りのない素朴なものだ。
ルシアンは、自分の袖を不思議そうに何度も撫でている。
「どうですか? 少し、首のあたりがチクチクするかしら」
向かい側に座るサヨが、優しく尋ねた。
彼女もまた、王宮の豪華な控え室ではなく、この薄暗く揺れる荷馬車の中にいた。
それでも顔には、いつもの灯火食堂の女将のような、あたたかい微笑みが浮かんでいる。
「ううん。平気」
ルシアンは首を横に振った。
それから、小さな両手をごわごわとした膝の上で重ね、サヨの顔を見つめる。
父王と母后が、泣きそうな顔で彼を抱きしめたことを思い出す。
しばらくの間、休みなさい。
そう言って送り出してくれた時の温もりが、まだ背中に残っていた。
「ねえ、サヨさん」
「はい」
ルシアンは、少しだけ不安そうに、けれど自分の置かれた状況を理解しようと、一生懸命に言葉を探した。
「僕、死んだことになったの?」
王宮を抜け出す時、ユリウスたちが話していたことを、彼も少しだけ聞いていた。
サヨは、ルシアンの小さな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
働き者の、温かくて少しざらついた手。
その感触に、ルシアンの肩から少しだけ強張りが抜ける。
「少し違います」
サヨは、ゆっくりと答えた。
「王太子殿下は、離宮で眠っていることになっています」
「離宮で?」
「はい。誰にも邪魔されず、長いお休みをしていることに」
ルシアンは瞬きをした。
王宮のどこかで眠っている、もう一人の自分。
銀の皿を前にして、毒見役の顔色をうかがい、食べることを怖がっていた王太子ルシアン。
その役目だけが、今は離宮の奥で眠っている。
「あなたを害そうとする悪い嘘から、あなたを守るための嘘です」
サヨの声は、静かだった。
「王太子殿下は、しばらくの間、離宮のベッドで長いお休みをするんです。誰も起こしに来ないように、ね」
ルシアンは、ゆっくりと自分の胸に手を当てた。
「じゃあ、僕は?」
王太子が離宮で眠っているのなら。
今ここで、粗末な麻の服を着て、揺れる馬車に乗っている自分は、一体誰なのだろう。
サヨは、彼の手を包み込んだまま、やわらかく微笑んだ。
「あなたは、これから生まれ変わるところです」
生まれ変わる。
その響きに、ルシアンはしばらく黙った。
銀の皿。
毒見の視線。
重い期待。
誰かに狙われる恐怖。
それらが全部消えるわけではないのだと、幼いながらにも分かっていた。
けれど、今だけは。
今だけは、少し遠くへ置いていけるのかもしれない。
「……新しい名前、ある?」
ルシアンは、期待と、ほんの少しの緊張を込めて尋ねた。
新しく生まれ変わる自分への、最初の贈り物。
サヨは、深く、優しく頷いた。
「あります」
――――
■あとがき
少し刺激の強い展開となりましたが、全てはルシアン殿下の笑顔を取り戻すためでございます。
基本は癒しをテーマとして今後もお話は続いてまいりますのでご安心ください。




