第17話 生まれ変わるということ
王宮の奥に、今はほとんど使われていない小さな礼拝堂がある。
古い石壁に囲まれたその場所は、夜になるとさらに薄暗い。
控えの間に灯された三本の蝋燭だけでは、集まった者たちの表情をすべて照らすには足りなかった。
サヨは、膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。
目の前の卓には、調理室から持ってきた小さな木箱が置かれている。
中に入っているのは、王太子ルシアンのために用意された食材の一部だ。
魔獣肉。
香辛料。
薬草茶。
蜜水。
どれも、見た目だけなら王宮にふさわしい立派な品だった。
けれど、今のサヨには、その小さな木箱がひどく重いものに見えた。
部屋にいるのは、ごく限られた者たちだけだった。
エリアス、リナ、レオン、ユリウス、ノア、ミラ。
そして、サヨ。
扉の前にはレオンが立ち、外の気配に耳を澄ませている。
ユリウスは紙とペンを手元に置き、リナは祈るように指を組んでいた。
ミラは壁際で静かに周囲を見ている。
ノアはいつもの古びたクッキー缶を抱えていたが、今日ばかりは蓋を開けようともしなかった。
重い沈黙を破り、エリアスが低い声で言った。
「ノア。報告を」
「はい」
ノアは木箱の前に進み出ると、いつもの眠たげな目を細めた。
「結論から言います。毒ではありません。呪いでもありません。魔術刻印もありません」
その言葉に、リナがわずかに息を呑む。
「では、安全なのですか?」
「いいえ」
ノアは即座に首を振った。
「安全ではありません。一つ一つは問題になりにくいものです。健康な大人なら、少し胃が重い、眠りが浅い、体がだるい。その程度で済むでしょう。毒見役が食べても、すぐには異常は出ないと思います」
そこで、ノアの声が一段低くなった。
「ですが、今の王太子殿下に毎日与え続ければ、食べるほどに弱る可能性があります」
部屋の空気が、急激に冷えた。
ギリッ、と。レオンが拳を握りしめる音がした。
「誰だ」
低く、怒りを押し殺した声だった。
「誰が殿下の食卓に手を出した」
「今それを叫べば、相手に逃げる時間を与えますよ」
ユリウスが静かに窘める。
レオンは振り返らなかった。
ただ、怒りに震える拳をゆっくりと解いた。
「……分かっている」
サヨはそのやり取りを聞きながら、木箱の中の香辛料を見つめていた。
毒ではない。
だから、見つからない。
明らかな悪意の形をしていないからこそ、いくらでも言い逃れができる。
滋養のためだった。
王宮の慣例だった。
最高級品を用意しただけだった。
毒見でも異常はなかった。
そう言われれば、皿の上で苦しむ少年の悲鳴は、ただの体調不良として処理されてしまう。
「もう一つ、気になる点があります」
ノアが続けた。
「蜜水の瓶に、ごく薄い魔力の痕跡がありました。細工というほどではありません。ただ、最後に触れた者の魔力だけが、不自然に残っています」
エリアスの目が鋭く細くなる。
「罠か」
「その可能性もあります。あるいは……誰かが見つけてほしくて残した印かもしれません」
「助けを求めている者がいる、と?」
「否定はできません」
壁際で腕を組んでいたミラが、ふと口を開いた。
「流通の途中で入れ替えられた可能性は?」
「あります」
ノアは頷いた。
「保管中に混ぜられた可能性もありますし、食材管理部で手が加えられた可能性もあります。あるいは、それぞれ別の者が善意で選んだ結果、組み合わせとして最悪になった可能性もあります」
「善意で人を弱らせられるのね」
ミラの声には、苦い響きがあった。
ユリウスが、卓上の木箱を見下ろし、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「問題は、皿の上だけではありません」
皆の視線が彼に集まる。
「食材を選ぶ者、運ぶ者、保管する者、許可を出す者、毒見をする者。……王太子殿下の食事に関わる仕組みそのものが、利用されている可能性があります」
サヨは、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
仕組み。
それは、王宮を王宮たらしめているものだ。
最高の食材。
最高の料理人。
厳しい管理。
厳重な毒見。
医師、聖女、魔術師、護衛。
この国で一番安全な場所のはずだった。
なのに、その安全のための仕組みこそが、ルシアンを苦しめているかもしれない。
「食材をすべて替えれば、どうにかなりませんか」
リナが、祈るような、震える声で言った。
「私がそばにいます。治癒も、浄化も、できる限りのことをします。だから……」
「リナ」
サヨは思わず口を開いていた。
リナがこちらを見る。
その顔には、人々を導く聖女ではなく、かつて灯火食堂の片隅で震えていた、一人の少女の不安が浮かんでいた。
「あなたの治癒が足りなかったわけじゃないわ」
「でも」
「怖かったことを、なかったことにはできないの」
サヨは、静かに言った。
「食べて苦しくなった記憶も、また同じことになるかもしれない怖さも、魔法で全部消してしまうのが正しいとは限らないわ」
リナは唇を引き結んだ。
「……はい」
「だから、少しずつ取り戻すの。大丈夫だった、美味しく食べられた、安心して眠れた。そういう記憶を、ひとつずつ重ねていくしかないの」
ルシアンの震える指。
スープを見つめるおびえた目。
一口飲んで、驚いたように息をついた顔。
あの子は、まだ戻れる。
戻れるはずだ。
けれど、そのためには。
「皿だけを変えても、また別の形で入り込まれます」
ユリウスの声が、再び冷たい現実として部屋に落ちた。
「王太子殿下が王太子殿下である限り、その食事は多くの目と手を通ります。守るための手が多いほど、紛れ込む隙も増える」
レオンが低く唸った。
「なら、俺が食材を選ぶところから運ぶところまで、全部俺の手で見る」
「あなたが眠れなくなりますよ」
「眠らなければいい」
「サヨさんに怒られるよ」
「……それは困る」
張り詰めていた場の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、すぐに重苦しい現実は戻ってくる。
「王宮に入る前の流れなら、私がいれば商会の目で追えるわ」
ミラが現実的な声で言った。
「けれど、王宮の中に入った後は私の手は届かない。誰が保管し、誰が取り出し、誰が許可したかまでは、簡単には見えないわ」
「魔力の痕跡は追えます」
ノアが言った。
「ですが、相手が気づけば消されます。こちらが探っていると知られた時点で、次はもっと分かりにくい方法に変えるでしょう」
沈黙が落ちた。
蝋燭の火が、小さく揺れる。
サヨは、そこで初めてエリアスを見た。
王弟殿下は、ずっと黙っていた。
腕を組み、目を伏せ、卓上の木箱をじっと見つめている。
その横顔は、いつもの穏やかで余裕のある大人のものではなかった。
――叔父の顔だった。
大切な子どもを守りたいのに、王族であるがゆえに簡単には手を伸ばせない、一人の人間の顔。
「……私のように」
エリアスが、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「サヨさんの店へ逃げることができれば、どれほどよかったか」
サヨの胸が、わずかに震えた。
その言葉は、あまりにも小さく、切実だった。
けれど、部屋にいた全員の耳に届いた。
レオンがすぐに顔を上げる。
「殿下、それは危険です」
ユリウスも続けた。
「王太子殿下を王宮の外へ密かに出せば、露見した時点で反逆と取られかねません」
「道中も安全とは言えませんわ。王宮より安全な道など、普通は存在しませんもの。……少なくとも、表向きは」
ミラが言う。
「神殿も、完全に信用できるとは言えません。聖女である私が言うのは情けないことですが……」
リナも苦しげに首を振った。
「殿下の魔力は目立ちます。隠すには準備が必要です」
ノアが小さく手を上げる。
全員が正しかった。
エリアスも、それを分かっているのだろう。
だからこそ、その呟きは願いにしかならなかったのだ。
王太子は、王太子だ。
逃げられない。
隠れられない。
皿も、寝台も、祈りも、すべてが彼を縛る役目に結びついている。
王太子として与えられるものが、ルシアンを苦しめている。
けれど、王太子である限り、それらから完全に離れることはできない。
サヨは、自分の手を見下ろした。
この手は、佐倉紗代だった頃の手ではない。
十七年、鍋を持ち、皿を洗い、誰かの額に触れてきた手だ。
けれど、覚えている。
病室の白い天井。
消毒液の匂い。
誰かの顔色を見て、体温を測り、少しでも食べられるものを探した日々。
そして、自分の人生がもう終わってしまったように感じた日のことも。
夫の言葉に少しずつ削られ、自分には何の価値もないと思い込んで、息を潜めていた日々。
それでも。
一度終わったと思ったあとに、朝は来た。
別の名前で。
別の体で。
別の世界で。
サヨ・ミルナーとして、自分の意思で鍋に火をかける朝が来た。
人は、もう一度、あたたかいものを口にできる。
なら。
王太子ルシアンとしての食卓が、あの子を苦しめているのなら。
一度、その重たい名前から降ろしてあげることはできないのだろうか。
サヨは、ゆっくりと顔を上げた。
心臓が強く打っている。
自分でも、何を言おうとしているのか分からない。
けれど、言わなければならない気がした。
「……生まれ変わる、というのはどうでしょう」
声は、自分でも驚くほど静かに響いた。
部屋の空気が止まる。
レオンが眉を寄せる。
リナが目を見開く。
ノアの指が、クッキー缶の蓋の上で止まった。
ミラは何かに気づいたように、わずかに顎を引く。
ユリウスのペン先が、紙の上でぴたりと止まった。
エリアスだけが、ゆっくりと顔を上げた。
「生まれ変わる?」
「はい」
サヨは胸の前で両手を握った。
「逃げるのではなくて……一度、王太子ではない子にしてあげるんです」
自分の言葉がどれほど大きな意味を持つのか、サヨにも分かっていた。
けれど、ルシアンの顔が浮かんだ。
銀の皿を怖がる、小さな手。
食べる前から謝ろうとする声。
一口のスープに、ほっと息をついたあの目。
「あの子は、王太子殿下です」
サヨは言った。
「それは、なくせないことなのかもしれません。でも……今のあの子には、王太子ではない朝が必要なんじゃないでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
蝋燭の火が、小さく揺れた。
ユリウスが、ゆっくりとペンを置く。
その目はもう、先ほどまでとは違っていた。
何かを緻密に計算している目だった。
ミラもまた、腕を組んだまま視線を落としている。
レオンは扉の前で、無言のまま剣の柄を握り直した。
リナは祈るように目を伏せ、ノアは小さく呟く。
「……魔力の気配を隠す方法なら、あります」
エリアスは、長く黙っていた。
王弟として。
叔父として。
そしてかつて、サヨの食卓に救われた一人として。
やがて彼は、静かに息を吐いた。
「サヨさん」
「はい」
「それが何を意味するか、分かっているか」
サヨはすぐには答えられなかった。
分かっている、と言い切るには大きすぎる。
けれど、分かっていないと逃げるには、ルシアンの顔が近すぎた。
だから、正直に言った。
「全部は、分かりません」
エリアスの瞳が揺れる。
「でも、分かっていることもあります」
サヨは、木箱の上にそっと手を置いた。
「このままでは、あの子は食べることを怖がったままになります。眠ることも、起きることも、誰かに差し出されるものも、全部怖くなってしまう」
声が、少しだけ震えた。
「……そんなふうに、生きてほしくありません」
部屋の中に、誰の声もなかった。
「王太子として守れないのなら、一人の子どもとして守る方法を考えたいんです」
その言葉に、エリアスは目を閉じた。
長い沈黙だった。
やがて、ユリウスが低く呟く。
「……不可能では、ありません」
レオンが鋭く振り向いた。
「ユリウス」
「可能だと言っただけです。簡単だとは言っていません」
ユリウスは新しい羊皮紙を一枚引き寄せた。
しかし、すぐには書き始めなかった。
「ですが、詳細をここで口にするのは危険です。今夜、この場にいる者以外に決して漏らしてはならない」
「商談なら、ここからが本番ね」
ミラが小さく笑った。
「商談ではありません」
「分かっているわ。だからこそ、失敗できない」
リナが祈るように言った。
「嘘をつくことになるのですね」
誰も否定できなかった。
サヨの胸が痛む。
けれど、リナは真っ直ぐに顔を上げた。
「なら、死なせないための嘘でありますように」
その言葉に、ノアが小さく頷いた。
エリアスは再びサヨを見た。
「王太子ではない子にする、か」
その声は苦い。
けれど、どこかで確固たる決意を含み始めていた。
サヨは小さく頷いた。
「はい」
その夜、王宮の奥でこぼれたその一言が。
翌朝、王都に流れる不穏な噂の始まりになる。




