表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/27

第16話 毒ではない苦味

王太子ルシアンの朝食が無事に終わり、彼が再び穏やかな眠りについたのを確認してから、サヨは小さな調理室へ戻った。


鍋には、朝のスープがまだ少し残っている。


昨日より、一口多く飲めた。


たったそれだけのことなのに、サヨの胸はじんわりと温かかった。

食べられる。眠れる。怖がらずに口を開けられる。

弱った体にとって、それは何より大切な一歩だ。


だが、その温かさは長く続かなかった。


調理台の上には、王太子殿下専用として届けられた食材が並んでいる。


最高級とされる魔獣の赤身肉。

滋養強壮によいという香辛料。

眠りを深めると説明された薬草茶。

食前に飲ませるための薄い蜜水。


どれも王宮らしい、立派な品ばかりだった。

けれど、サヨは眉を寄せる。


「……やっぱり、おかしいわね」


まず、魔獣肉。


見た目は美しい真紅で、新鮮そのものに見える。

だが指先で繊維を確かめると、奥に不自然なほど固い筋が残っていた。


丁寧に処理されているように見えて、消化に負担のかかる部分だけが残されている。


偶然かもしれない。

そう思おうとした。


次に、香辛料。


サヨは小さなスプーンで粉末をほんの少しだけすくい、舌の先に乗せた。


「……っ」


辛味の奥に、強い苦味と渋みが広がる。

胃のあたりが、きゅっと縮むような不快感があった。


サヨはすぐに水で口をすすぐ。


毒ではない。

少なくとも、すぐ命を奪うものではない。


健康な大人なら、少し刺激が強いと感じる程度だろう。

毒見役が食べても、異常は出ないかもしれない。


けれど、今のルシアンには違う。


食べることを怖がっている子に。

胃も喉も弱り切った子に。

これを毎日、滋養のためだと言って出し続けたらどうなるか。


食べる。

気分が悪くなる。

吐く。

また食べるのが怖くなる。


その繰り返しになる。


「……毒じゃない。だから、見つからない」


サヨは小さく呟いた。


それが一番、嫌だった。


明らかな毒なら、毒見役が見つける。

治癒魔法が対処する。

医師が薬を使う。

犯人を探すこともできる。


だが、これは違う。


高級な食材。

体によいとされる香辛料。

眠りを助ける薬草茶。


一つ一つは、きっと言い訳が立つ。

善意の顔をして、皿の上に並べられる。


「一人で判断するのは危険ね」


サヨはエプロンで手を拭うと、扉の外に控えていた侍従を呼んだ。


魔術師団長(まじゅつしだんちょう)のノア様を呼んでいただけますか。急ぎですが、騒ぎにはしないでください」


侍従は一瞬だけ目を見開き、すぐに深く頭を下げて走っていった。


それから十分もしないうちに、調理室の扉が音もなく開く。


「サヨさん、呼びましたか」


ひょっこりと顔を出したのは、魔術師団長(まじゅつしだんちょう)のノアだった。


漆黒のローブ。

前髪の隙間から覗く、眠たげな瞳。

そして両手には、十七年前から変わらない古びたクッキー缶が大事そうに抱えられている。


「忙しいところをごめんなさい、ノア」

「サヨさんの頼みなら優先します」

「お茶は?」

「飲みます」


即答だった。


サヨは用意しておいたハーブティーと、手焼きの素朴なクッキーを差し出した。


ノアの瞳が、ほんの一瞬だけ輝く。

彼は無言でクッキーを一枚口に運び、サクサクと咀嚼した。


「……美味しいです。魔力の乱れが収まります」

「ありがとう。でも、今日見てもらいたいのは、こっちなの」


サヨは調理台の上の食材を示した。


「王太子殿下用に届いたものよ。魔法的な細工がないか、調べてもらえる?」


ノアの空気が変わった。


先ほどまでの少年のような顔が消え、王国最高峰の魔術師の目になる。


彼は香辛料の袋に手をかざした。

淡い紫色の魔力が、粉の上へ薄く降りる。


次に、魔獣肉。

薬草茶。

蜜水。


調理室が、しんと静まり返った。


やがてノアは、珍しくはっきりと顔をしかめた。


「……厄介ですね」

「毒なの?」

「いいえ」


ノアは首を振る。


「毒ではありません。呪いでもない。魔術刻印もない。だから通常の検査には引っかかりにくいです」


「でも、安全ではないのね」

「はい」


ノアは香辛料の袋を見下ろした。


「一つ一つは問題になりません。健康な者が食べても、せいぜい胃が重い、眠りが浅い、体がだるい。その程度でしょう」


「でも、殿下には?」


「食べるほど、弱る可能性があります」


調理室の空気が冷えた。


サヨは調理台の端を握りしめる。


分かっていた。

けれど、ノアの口から聞くと、胸の奥が冷たくなる。


「これは、殺すための毒じゃないわね」


サヨは静かに言った。


「食べられなくするための食事だわ」


ノアは否定しなかった。


「毒見役は通る。料理人は高級品を使ったと言える。医師は体調不良だと判断するかもしれない。誰も、自分の責任だとは言えない」


サヨは香辛料の袋を見つめる。


「でも、殿下だけが弱っていく」


「……はい」


ノアの声が低くなった。


「もう一つ、気になることがあります」


「何?」


ノアは蜜水の瓶を指差した。


「これに、ごく薄い魔力の痕跡があります」

「細工?」

「そこまでは。ですが、最後に触れた者の魔力だけが不自然に残っています」


「つまり?」


「罠かもしれません。あるいは、誰かが見つけてほしくて残した印かもしれません」


サヨは黙った。


敵なのか。

味方なのか。

偶然なのか。

助けを求める声なのか。


今はまだ、何も決められない。


「犯人は断定できません」


ノアは淡々と言った。


「厨房かもしれない。食材管理部かもしれない。商人かもしれない。医師や侍女が関わっている可能性もあります。逆に、誰か一人が悪いわけではない可能性もある」


「……でも」


「はい」


ノアは頷いた。


「殿下の食卓は、誰かに利用されています」


その言葉が、サヨの胸に重く落ちた。


王宮は、国で一番安全な場所のはずだった。

最高の料理人がいて、最高の食材があり、医師も魔術師も聖女もいる。


それなのに。


その立派な仕組みの中で、ルシアンは食べることを怖がるようになった。


「ノア。エリアス殿下に知らせて」

「今すぐに?」

「ええ。ただし、伝える相手は絞って。騒ぎになれば、相手はすぐに方法を変えるわ」


「分かりました」


ノアは扉へ向かいかけ、ふと振り返った。


「サヨさん」

「なに?」

「殿下は、助かりますか」


サヨはすぐには答えなかった。


大丈夫、と言いたい。

助かる、と笑ってやりたい。


けれど今、ルシアンを囲んでいるものは、あまりに見えにくい。


だからサヨは、自分に言える一番確かな言葉を選んだ。


「助けます」


ノアの瞳が、わずかに揺れた。


「はい」


扉が閉まる。


調理室に一人残ったサヨは、冷めかけたスープの鍋を見た。


細い湯気が、まだ立っている。


消えてはいない。

けれど、守らなければ消えてしまうほどか細い。


サヨは鍋の取っ手に手を添え、静かに息を吐いた。


「王太子としての食卓が、あの子を苦しめているのなら」


誰に聞かせるでもなく、呟く。


「その食卓から、あの子を離さなきゃいけない」


その言葉が、これから起こるすべての始まりになるとも知らずに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ