第16話 毒ではない苦味
王太子ルシアンの朝食が無事に終わり、彼が再び穏やかな眠りについたのを確認してから、サヨは小さな調理室へ戻った。
鍋には、朝のスープがまだ少し残っている。
昨日より、一口多く飲めた。
たったそれだけのことなのに、サヨの胸はじんわりと温かかった。
食べられる。眠れる。怖がらずに口を開けられる。
弱った体にとって、それは何より大切な一歩だ。
だが、その温かさは長く続かなかった。
調理台の上には、王太子殿下専用として届けられた食材が並んでいる。
最高級とされる魔獣の赤身肉。
滋養強壮によいという香辛料。
眠りを深めると説明された薬草茶。
食前に飲ませるための薄い蜜水。
どれも王宮らしい、立派な品ばかりだった。
けれど、サヨは眉を寄せる。
「……やっぱり、おかしいわね」
まず、魔獣肉。
見た目は美しい真紅で、新鮮そのものに見える。
だが指先で繊維を確かめると、奥に不自然なほど固い筋が残っていた。
丁寧に処理されているように見えて、消化に負担のかかる部分だけが残されている。
偶然かもしれない。
そう思おうとした。
次に、香辛料。
サヨは小さなスプーンで粉末をほんの少しだけすくい、舌の先に乗せた。
「……っ」
辛味の奥に、強い苦味と渋みが広がる。
胃のあたりが、きゅっと縮むような不快感があった。
サヨはすぐに水で口をすすぐ。
毒ではない。
少なくとも、すぐ命を奪うものではない。
健康な大人なら、少し刺激が強いと感じる程度だろう。
毒見役が食べても、異常は出ないかもしれない。
けれど、今のルシアンには違う。
食べることを怖がっている子に。
胃も喉も弱り切った子に。
これを毎日、滋養のためだと言って出し続けたらどうなるか。
食べる。
気分が悪くなる。
吐く。
また食べるのが怖くなる。
その繰り返しになる。
「……毒じゃない。だから、見つからない」
サヨは小さく呟いた。
それが一番、嫌だった。
明らかな毒なら、毒見役が見つける。
治癒魔法が対処する。
医師が薬を使う。
犯人を探すこともできる。
だが、これは違う。
高級な食材。
体によいとされる香辛料。
眠りを助ける薬草茶。
一つ一つは、きっと言い訳が立つ。
善意の顔をして、皿の上に並べられる。
「一人で判断するのは危険ね」
サヨはエプロンで手を拭うと、扉の外に控えていた侍従を呼んだ。
「魔術師団長のノア様を呼んでいただけますか。急ぎですが、騒ぎにはしないでください」
侍従は一瞬だけ目を見開き、すぐに深く頭を下げて走っていった。
それから十分もしないうちに、調理室の扉が音もなく開く。
「サヨさん、呼びましたか」
ひょっこりと顔を出したのは、魔術師団長のノアだった。
漆黒のローブ。
前髪の隙間から覗く、眠たげな瞳。
そして両手には、十七年前から変わらない古びたクッキー缶が大事そうに抱えられている。
「忙しいところをごめんなさい、ノア」
「サヨさんの頼みなら優先します」
「お茶は?」
「飲みます」
即答だった。
サヨは用意しておいたハーブティーと、手焼きの素朴なクッキーを差し出した。
ノアの瞳が、ほんの一瞬だけ輝く。
彼は無言でクッキーを一枚口に運び、サクサクと咀嚼した。
「……美味しいです。魔力の乱れが収まります」
「ありがとう。でも、今日見てもらいたいのは、こっちなの」
サヨは調理台の上の食材を示した。
「王太子殿下用に届いたものよ。魔法的な細工がないか、調べてもらえる?」
ノアの空気が変わった。
先ほどまでの少年のような顔が消え、王国最高峰の魔術師の目になる。
彼は香辛料の袋に手をかざした。
淡い紫色の魔力が、粉の上へ薄く降りる。
次に、魔獣肉。
薬草茶。
蜜水。
調理室が、しんと静まり返った。
やがてノアは、珍しくはっきりと顔をしかめた。
「……厄介ですね」
「毒なの?」
「いいえ」
ノアは首を振る。
「毒ではありません。呪いでもない。魔術刻印もない。だから通常の検査には引っかかりにくいです」
「でも、安全ではないのね」
「はい」
ノアは香辛料の袋を見下ろした。
「一つ一つは問題になりません。健康な者が食べても、せいぜい胃が重い、眠りが浅い、体がだるい。その程度でしょう」
「でも、殿下には?」
「食べるほど、弱る可能性があります」
調理室の空気が冷えた。
サヨは調理台の端を握りしめる。
分かっていた。
けれど、ノアの口から聞くと、胸の奥が冷たくなる。
「これは、殺すための毒じゃないわね」
サヨは静かに言った。
「食べられなくするための食事だわ」
ノアは否定しなかった。
「毒見役は通る。料理人は高級品を使ったと言える。医師は体調不良だと判断するかもしれない。誰も、自分の責任だとは言えない」
サヨは香辛料の袋を見つめる。
「でも、殿下だけが弱っていく」
「……はい」
ノアの声が低くなった。
「もう一つ、気になることがあります」
「何?」
ノアは蜜水の瓶を指差した。
「これに、ごく薄い魔力の痕跡があります」
「細工?」
「そこまでは。ですが、最後に触れた者の魔力だけが不自然に残っています」
「つまり?」
「罠かもしれません。あるいは、誰かが見つけてほしくて残した印かもしれません」
サヨは黙った。
敵なのか。
味方なのか。
偶然なのか。
助けを求める声なのか。
今はまだ、何も決められない。
「犯人は断定できません」
ノアは淡々と言った。
「厨房かもしれない。食材管理部かもしれない。商人かもしれない。医師や侍女が関わっている可能性もあります。逆に、誰か一人が悪いわけではない可能性もある」
「……でも」
「はい」
ノアは頷いた。
「殿下の食卓は、誰かに利用されています」
その言葉が、サヨの胸に重く落ちた。
王宮は、国で一番安全な場所のはずだった。
最高の料理人がいて、最高の食材があり、医師も魔術師も聖女もいる。
それなのに。
その立派な仕組みの中で、ルシアンは食べることを怖がるようになった。
「ノア。エリアス殿下に知らせて」
「今すぐに?」
「ええ。ただし、伝える相手は絞って。騒ぎになれば、相手はすぐに方法を変えるわ」
「分かりました」
ノアは扉へ向かいかけ、ふと振り返った。
「サヨさん」
「なに?」
「殿下は、助かりますか」
サヨはすぐには答えなかった。
大丈夫、と言いたい。
助かる、と笑ってやりたい。
けれど今、ルシアンを囲んでいるものは、あまりに見えにくい。
だからサヨは、自分に言える一番確かな言葉を選んだ。
「助けます」
ノアの瞳が、わずかに揺れた。
「はい」
扉が閉まる。
調理室に一人残ったサヨは、冷めかけたスープの鍋を見た。
細い湯気が、まだ立っている。
消えてはいない。
けれど、守らなければ消えてしまうほどか細い。
サヨは鍋の取っ手に手を添え、静かに息を吐いた。
「王太子としての食卓が、あの子を苦しめているのなら」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「その食卓から、あの子を離さなきゃいけない」
その言葉が、これから起こるすべての始まりになるとも知らずに。




