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第15話 王宮料理長の焦り

まだ夜も明けきらない、薄暗い時間。

 王宮のメイン厨房は、すでに何十人もの料理人たちが慌ただしく立ち働き、むせ返るような熱気と様々な食材の香りに包まれていた。

 王族や高位貴族、そして何百人という王宮勤めの者たちの朝食を用意するこの場所は、さながら一つの戦場のようだ。


 その厨房の奥、一段高くなった調理台の前で、王宮正料理長おうきゅうせいりょうりちょうのバルテルは、腕を組んだまま深く重い溜息をついていた。

 五十代半ばの、筋骨隆々とした体格。三十年以上、王宮の食卓を守り続けてきた彼の顔には、今、これまでにないほどの深い焦燥と苦悩の色が刻まれていた。


「……信じられませんわ、バルテル料理長!」


 ヒステリックな声を上げて近づいてきたのは、王宮副料理長おうきゅうふくりょうりちょうのオルガだった。

 昨晩の騒動から一睡もしていないのか、美しい顔には濃い隈が浮かび、目は血走っている。


「殿下があの田舎女の作った粥を完食されたなど……! 何かの間違いです。あんな、出汁もバターも使っていない、泥水のような白湯を! 我が国の最高峰たる私たちの料理を差し置いて、あんなものを口になさるなんて!」

「オルガ。少し、頭を冷やせ」


 バルテルは、わめき立てる副料理長を低く太い声で制した。


「事実として、殿下はあの者の料理を召し上がり、数ヶ月ぶりに深くお眠りになった。それが全てだ」

「っ……ですが!」

「お前は、あれをただの手抜きだと言うのか?」


 バルテルは、調理台の端に置かれていた、小さな小鍋を指差した。

 それは昨晩、サヨが控え室でスープを作るのに使い、厨房の洗い場に下げられていたものだった。


「私は昨夜、あの者が作ったスープの残りをほんの少しだけ口にしてみた。……驚いたよ」


 バルテルの言葉に、オルガが息を呑む。

 王宮正料理長ともあろう者が、平民の残飯を口にしたという事実に驚愕したのだ。


「塩気はほとんどない。だが、野菜が本来持っている甘みと、土の香りが、恐ろしいほど丁寧に引き出されていた。強い火力で旨味を叩き出す我々の手法とは全く違う。雑味を出さず、極限まで胃腸への負担を減らすために計算し尽くされた、完璧な『引き算の料理』だった」


 バルテルは、太い指で自分の眉間を揉みほぐした。


「我々は、殿下に体力をつけていただくために、最高の魔獣肉を使い、香りの強いスパイスで食欲を刺激しようとしてきた。だが、それが間違っていたのだ。あの者の料理を味わって、初めて気づかされた。……私は、料理人として敗北したのだと」

「そ、そんな……! バルテル料理長が、あんな素人の女を認めるというのですか!」


 オルガが金切り声を上げた、ちょうどその時だった。


「おはようございます。朝早くから、お邪魔いたします」


 厨房の入り口から、静かで落ち着いた声が響いた。

 真っ白なエプロンをきゅっと身につけ、水仕事で荒れた手を前で組んだサヨ・ミルナーが、そこに立っていた。


 昨晩、前世のトラウマをえぐられて青ざめていた面影は、もうない。

 王弟(おうてい)エリアスが淹れてくれた温かいお茶と、彼女の沈黙を許容してくれた底知れぬ優しさが、サヨの心をしっかりと現在に繋ぎ止めてくれていた。

 今の彼女は、怯える元看護師ではなく、十七年間自分の城を守り抜いてきた『灯火食堂の女将』の顔に戻っていた。


「……何の用ですか、ミルナー」


 オルガが、親の仇でも見るような目でサヨを睨みつける。


「ここは王宮のメイン厨房。あなたのような者が立ち入っていい場所ではありません。殿下の朝食なら、こちらで指示された通りの栄養素を計算して作りますから、あなたはとっととあの薄汚い食堂へ帰りなさい!」


 オルガが近衛兵を呼ぼうと手を挙げた瞬間。


「待て、オルガ。下がるんだ」


 バルテルが前に進み出た。

 彼はサヨを見下ろすと、その鋭い眼光で彼女の立ち振る舞いを値踏みするように観察した。

 サヨは少しも怯むことなく、まっすぐにバルテルの目を見返した。


「あなたが、サヨ・ミルナー殿か」

「はい。王宮正料理長殿とお見受けいたします。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません」


 サヨが丁寧にお辞儀をすると、バルテルは腕を組んだまま、重々しく口を開いた。


「昨夜のあなたの料理、見事だった。我々が数ヶ月かけても成し得なかったことを、たった一杯のスープと粥でやってのけた。……だが、教えてほしい」


 バルテルの声には、オルガのような理不尽な怒りや見下しはなかった。

 そこにあるのは、自らの腕一つで王宮の味を守ってきた職人としての、純粋な焦りと、強烈な敗北感だった。


「我々の料理の、何がいけなかったのだ。最高級の食材を使い、手間暇をかけ、考え得る限りの滋養を詰め込んだ。なぜ殿下は我々の料理を拒絶し、あなたのあの簡素なものを……」


 バルテルの悲痛な問いかけに、厨房の作業を止めた他の料理人たちも、息を呑んでサヨの答えを待っていた。

 彼らもまた、自分たちの料理が否定されたことに傷つき、戸惑っていたのだ。


 サヨは、ふうっと小さく息を吐いた。


「……正料理長殿。一つ、誤解なさっていることがあります」

「なんだと?」

「私は、皆様の作られた料理が間違っていたとは思っていません」


 サヨの言葉に、バルテルもオルガも目を見張った。


「昨日の昼、ワゴンに乗せられていたお料理を拝見しました。お肉の艶、ソースの香り、どれをとっても、私のような食堂の女将には到底作れない、素晴らしい芸術品でした。皆様が殿下の回復を心から願い、情熱を注いで作られたことが、見ただけでわかりました」


 サヨは、エプロンのポケットの辺りで両手を優しく重ねた。


「皆様の料理は、何も間違っていません。ただ……今の殿下のお体には、重すぎただけなのです」

「重すぎた、だけ……?」


「はい」


 サヨは、一つ一つ言葉を選ぶように、丁寧に紡いだ。


「元気な時なら、きっと殿下も皆様のお料理を喜んで召し上がったはずです。でも、今の殿下は心も体も疲れ切り、胃袋が何も受け付けない状態になっています。そこに、どれほど素晴らしいご馳走を出しても、体にとっては負担にしかならないのです」


 それは、サヨが前世で何度も見てきたことだった。

 家族が患者を元気づけようと買ってきた高級なケーキや脂っこい鰻が、かえって患者を苦しめてしまう光景。

 料理の価値と、食べる人の状態は、必ずしも一致しない。


「料理は、ただ栄養を詰め込めばいいわけではありません。食べる人が今、何を飲み込める状態なのか。その顔色を見て、その人に合わせたものを出す。……料理は、食べる人のためにあるものですから」


 サヨの言葉が、朝の厨房に静かに響き渡る。

 バルテルの目が、わずかに大きく見開かれた。

 『料理は食べる人のためにある』。それは、料理人であれば誰もが最初に教わり、しかし権威と格式の中でいつしか見失ってしまいがちな、最も根源的な真理だった。


「私は、少しだけ胃腸を休める料理の作り方を知っているだけです。殿下が元気を取り戻し、お肉やお魚を食べられるようになったら、その時は皆様の素晴らしい技術が必要になります」


 サヨは、バルテルに向かって、ほんの少しだけ柔らかく微笑んだ。


「殿下のために料理をしているのなら、私たちは敵ではないはずです」


 サヨの言葉が落ちた後。

 バルテルはしばらく黙ったまま、サヨの真っ直ぐな瞳を見つめていた。


「……」


 やがて、彼は深く、長く息を吐き出した。

 五十代の屈強な男の顔から、先ほどまでの強烈な焦燥と敗北感がスッと抜け落ち、代わりに、料理に人生を捧げてきた職人としての憑き物が落ちたような、清々しい表情が浮かんでいた。


「……『敵ではない』、か」


 バルテルは、自分の太い両手を見下ろした。

 最高の食材と技術で、最高の皿を作る。それこそが料理人の使命だと信じて疑わなかった。しかし、その皿を食べる相手の「顔」を、自分はいつから見なくなっていたのだろうか。

 彼はゆっくりと顔を上げると、サヨに向かって深く、丁寧にお辞儀をした。


「料理長!? 何をなさっているのです、こんな平民の女に……!」


「黙れ、オルガ。お前も料理人なら、彼女の言葉の重みがわかるはずだ」


悲鳴のようなオルガの声をピシャリと跳ね除け、バルテルは再びサヨに向き直った。


「ミルナー殿。……いや、サヨ殿。あなたの言う通りだ。料理の技術で負けたとは思っていないが、料理人としての『在り方』において、私はあなたに完敗した」

「バルテル様……」

「殿下が再び肉を求められるようになるまで、我々は殿下の食事に一切口出ししない。全て、あなたにお任せしよう」


それは、三十年間王宮の食を支配してきた男が、一介の食堂の女将を「同じ目的を持つ同士」として認めた瞬間だった。


「とはいえ、あなたは王宮の勝手がわからないことも多いだろう。必要な食材や機材があれば、遠慮なく私に言ってくれ。メイン厨房の長として、できる限りの協力は約束する」

「……ありがとうございます、バルテル様。それではお言葉に甘えて、少しだけお野菜を分けていただけますか」


サヨが心からの笑顔で応えると、バルテルもまた、不器用ながらも力強く頷き返した。

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