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第14話 沈黙を責めない人

嵐が過ぎ去ったあとのような静寂が、サヨに割り当てられた小さな私室を包んでいた。

 ルシアン王太子(おうたいし)の病室のすぐ近くにあるこの部屋は、サヨが休息を取るために用意されたものだったが、今の彼女には豪奢なソファも柔らかな絨毯も、ひどくよそよそしく感じられた。


 サヨは、ソファの端に身を縮めるようにして座り、膝の上でぎゅっと両手を握りしめていた。

 水仕事で荒れたその手は、氷のように冷たくなっている。


『——所詮は素人の民間療法。ただの女の台所仕事だ。素人は黙って、我々の指示に従いなさい』


 王宮医師長(おうきゅういしちょう)ガイウスの放った、氷のように冷徹な言葉が、サヨの頭の中で何度も、何度もリフレインしていた。


 感情的な罵倒であれば、まだ反発できたかもしれない。

 だが、彼らは「この国の最高峰たる専門家」としての絶対的な矜持と論理をもって、サヨのやってきたケアを「医学的根拠のない無価値なもの」と切り捨てたのだ。

 それは、サヨが前世で、医師である夫から毎日浴びせられ続けてきた言葉と、全く同じ形、同じ重さを持っていた。


『看護師なんて、医師の指示がなければ何もできないだろう』

『君のやっていることは、誰にでもできる雑用だ』

『医者でもないのに、偉そうに口出しをするな』


 前世の夫の、冷酷で、全てを見下すような声。

 あの息の詰まるような広いリビング。どれだけ患者の顔色を見て、どれだけ心に寄り添おうと努めても、資格という絶対的な権威を持たないサヨの行いは、常に「無価値な雑用」として切り捨てられた。


 異世界に転生して十七年。

 この宿場町(しゅくばまち)で、自分の腕一つで食堂を切り盛りし、たくさんの人々を笑顔にしてきた。もう、あの頃の無力な自分ではないと、そう思っていたのに。


 結局、私は何も変わっていないのだろうか。

 権威ある専門家たちの前では、自分のやってきたことの価値を信じ抜くこともできず、ただ萎縮して、震えることしかできない。


「……っ」


 浅くなった呼吸を整えようと、サヨが小さく息を吸い込んだ時だった。


 ——コン、コン。


 控えめなノックの音が、部屋に響いた。

 リナか、レオンだろうか。先ほどは彼らにも心配をかけてしまった。

 サヨは慌てて目元を乱暴に拭い、努めて平坦な声を出そうとした。


「はい。……開いています」


 静かに扉が開く。

 しかし、そこに立っていたのは、聖女でも騎士団長でもなかった。


「……サヨ殿。少し、よろしいですか」


 深い群青色の軍服に身を包んだ、王弟(おうてい)エリアスだった。

 彼は護衛の近衛兵を外に残し、たった一人でサヨの私室へと足を踏み入れた。


「え、エリアス殿下……! いけません、私のような平民の部屋に、殿下が直接おいでになるなんて……」


 サヨは弾かれたように立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、ふらついてしまった。

 エリアスは素早く歩み寄ると、サヨの肩にそっと触れ、再びソファに座らせた。

 その手は、驚くほど優しく、そして温かかった。


「無理に立たなくて結構です。……まだ、顔色が優れない」


 エリアスは、サヨの青白い顔と、小刻みに震えている手先を静かに見つめた。

 サヨは不甲斐なさから、ギュッと目を伏せた。


「申し訳、ありません。私……偉そうなことを言って王宮に来たくせに、いざあんな風に、正しい理屈で否定されたら、何も言い返せなくて……」

「正しい理屈、ですか」


 エリアスは静かに反芻し、そして、きっぱりと首を横に振った。


「彼らの理屈は、ルシアンを救えなかった。だから正しくなどありません。あなたが謝ることなど、一つもないのです」


 エリアスの声には、同情や哀れみといった、サヨの自尊心を傷つけるような色は一切なかった。

 ただ事実として、彼女の受けた理不尽な仕打ちを否定してくれている。


 エリアスはサヨから少しだけ距離を取ると、部屋の隅に用意されていた小さなティーセットの前に立った。

 そして、サヨがいつも客にするように、ポットにお湯を注ぎ、手際よくハーブティーを淹れ始めたのだ。


「で、殿下!? そのようなこと、私がやります!」

「いいえ。あなたは今日、たくさんの人のために料理を作ってくれました。今度は、私があなたに温かいものを淹れる番です」


 カチャリ、と陶器の触れ合う上品な音が響く。

 やがて、カモミールに似た甘い香りを漂わせるカップが、サヨの目の前のテーブルにそっと置かれた。


「どうぞ。毒見は済ませていませんが、私を信じていただけますか?」


 エリアスがわずかに悪戯っぽく微笑むと、サヨは思わず小さく吹き出してしまった。


「……ふふっ。殿下が淹れてくださったお茶を疑うわけがありません」


 サヨは震える両手でカップを包み込むようにして持ち上げた。

 カップから伝わる熱が、冷え切っていた手のひらをじんわりと温めていく。

 一口飲むと、花の優しい香りが喉の奥へと広がり、胃の裏側にこびりついていた冷たい恐怖を、ゆっくりと溶かしていった。


「……美味しいです」

「それは良かった。昔、あなたに淹れてもらったスープの温かさには、遠く及びませんが」


 エリアスは、サヨの向かいのソファにゆったりと腰を下ろした。

 その立ち振る舞いはあくまで自然で、サヨを問い詰めるような緊張感は微塵もなかった。


 サヨは、カップの温もりにすがりつくようにして、ぽつりとこぼした。


「……殿下は、聞かないのですか」

「何をですか?」

「私がどうして、専門家の言葉に、あそこまで怯えてしまったのか。……私が、何を恐れているのか」


 前世の夫なら、絶対にサヨの沈黙を許さなかっただろう。

『なぜ黙っている』

『俺の言うことに答えられないのか』

『不機嫌を押し付けるな、妻なら堂々と振る舞え』

 そう言って、サヨが自分の内側の柔らかい部分を無理やり引きずり出し、彼にとって都合の良い言葉で説明するまで、執拗に責め立てた。


 しかし。

 向かいに座る王国の要人は、サヨの問いに、ただ静かに首を横に振った。


「聞きませんよ」


 春の陽だまりのように、穏やかで甘い声だった。


「人が抱える傷の深さは、他人には決して測れないものです。それに、私はあなたを尋問しに来たわけではありませんから」

「でも……」

「もし、あなたが言葉にすることで楽になるのなら、私はいつまででも耳を傾けます。ですが、無理に傷口を開く必要はありません。……話したくなった時だけ、話してください」


 サヨは、はっと息を呑んでエリアスを見た。


「それまでは、ただこうして、お茶が冷めないように一緒にいましょう。私が、あなたの盾になりますから」


 エリアスの深い碧眼が、真っ直ぐにサヨを見つめている。

 そこにあるのは、圧倒的な権力を持つ男の傲慢さではなく、一人の女性を一人の人間として尊重し、その心のペースを何よりも大切にしようとする、途方もない誠実さだった。


 待つことは苦ではない。

 無理強いはしない。


 彼のその姿勢は、十数年前に彼がサヨの食堂で救われた時の記憶からきているのだろうか。

 それとも、彼自身の持つ、生来の優しさなのだろうか。


 どちらにせよ、サヨの胸の奥で、カチリと何かが噛み合うような音がした。

 前世のトラウマで冷たく固まっていた心が、春の雪解けのように、音を立てて崩れていく。


 沈黙を責めない人を、サヨは今夜まで知らなかった。

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