表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/28

第13話 専門家の矜持と台所仕事

静まり返った病室をあとにしたサヨは、ルシアン王太子(おうたいし)の経過報告と今後の管理について話し合うため、再び離宮の広い控えの間へと足を運んでいた。


 サヨのすぐ後ろには、聖女庁(せいじょちょう)の治癒師長であるリナと、王国騎士団長おうこくきしだんちょうのレオンがピタリと寄り添うように歩いている。

 さらに、今回の事態を重く見た王弟(おうてい)エリアス殿下も、自らサヨの歩調に合わせるようにして、静かに同行してくれていた。


 控えの間に入ると、そこにはすでに王宮医師長(おうきゅういしちょう)のガイウスと、王宮副料理長おうきゅうふくりょうりちょうのオルガが待機していた。


 二人の表情は固く、ひどく張り詰めている。

 特にオルガは、自分が心血を注いだ最高級の料理が拒絶され、サヨの作った「ただの薄い粥」を王太子が完食したという事実に対し、宮廷料理人としての強烈な矜持を揺さぶられているようだった。


「……ガイウス医師長、それにオルガ副料理長」


 サヨは、部屋に入るなり、努めて穏やかな声で語りかけた。


「先ほど、殿下はようやく深い眠りにつかれました。お腹が温まり、お部屋の刺激を減らしたおかげだと思います。ですから、明日の朝までは絶対に起こさないようにしてください。それと……」


 サヨは、手元に用意していたメモに視線を落とした。


「明日の朝食ですが、いきなり固形物を増やすのは危険です。お粥の水分を少しだけ減らし、すりおろした根菜を少量加えたものにしようと思います。お二人の治療や調理の予定もあるでしょうから、事前に共有しておきますね」


 それは、元看護師としての申し送りであり、灯火食堂の女将としての、ごく当たり前の業務連絡のつもりだった。

 サヨには彼らを打ち負かしたという奢りなど微塵もない。ただ、目の前の患者である十二歳の子どもが、明日も無事に食事を取れることだけを考えていた。


 しかし。

 その丁寧で対等な物言いが、この国の最高峰たる専門家たちの間に、冷たい壁を作ることになった。


「……ミルナー殿。殿下が一時的に休息を取れたことについては、君の労をねぎらおう」


 低く、極めて理知的な、しかし全く感情の乗っていない声がガイウスの口から発せられた。

 彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹な瞳でサヨを見据えた。


「だが、あの水のような粥では、体力を回復させるための『栄養』が決定的に不足している。あのようなものを食べさせ続けては、殿下の御身体は衰弱する一方だ。明日からは、我々が処方した霊薬と、滋養ある食事に戻さねば、殿下の命に関わる」


「その通りです」


 ガイウスの言葉に、オルガが静かに、しかし確固たる自信を持って同調した。

 彼女の眼差しには、王宮の食を預かる者としての絶対的な自負が宿っている。


「魔獣肉や、薬効のある特別な香辛料を使わない食事では、殿下の滞った魔力循環を促すことはできません。私たちが作る料理は、殿下の御身体を内側から活性化させるために、計算し尽くされたものです。素人の浅知恵で、私たちの献立を乱さないでいただきたい」


 彼らは、ただヒステリックに怒っているわけではない。

 「自分たちの最新の医学と宮廷料理の知識こそが、王太子を救う唯一の正解である」という強烈な矜持を持っているのだ。


 だが、サヨも引き下がるわけにはいかなかった。


「……お待ちください。確かに栄養や魔力の循環は大切かもしれません。でも、今の殿下の胃腸には、お二人の料理は重すぎます。あんな濃厚な味付けや香辛料では、また吐き戻してしまいます」


 サヨが患者の様子を根拠に食い下がろうとした、その時だった。


「医学も魔術も修めていない者に、これ以上の議論は無用だ」


 ガイウスの声が、氷のように冷たく部屋に響いた。


「君のやったことは、医学的根拠のない一時的な慰めに過ぎない。所詮は素人の民間療法——ただの『女の台所仕事』だ。我々は王室の命を預かる専門家だ。素人は黙って、我々の指示に従いなさい」


 台所仕事。

 素人は黙って、指示に従え。


 その言葉が控えの間に響き渡った瞬間——。

 サヨの身体は、まるで氷水を浴びせられたかのように、指先から完全に凍りついた。


(あ……)


 目の前で理路整然とサヨを否定するガイウスの顔が、急速に歪み、別の男の顔へと書き換わっていく。


 ——『看護師なんて、医師の指示がなければ何もできないだろう』

 ——『医者でもないのに、偉そうに口出しをするな』

 ——『君のやっていることは、誰にでもできる雑用だ』


 前世の夫の、冷酷で、全てを見下すような声。

 あの息の詰まるような広いリビング。どれだけ患者の顔色を見て、少しでも楽になるようにと意見を言っても、「資格のない女の雑務」と切り捨てられ、自分の誇りと価値を毎日すり減らされていた、あの地獄のような日々。


 胃の奥がギチギチと音を立てて縮み上がる。

 心臓が早鐘を打ち、呼吸の仕方が分からなくなる。

 サヨは、言葉を失ったまま、ただその場に立ち尽くし、身体を小刻みに震わせることしかできなかった。

 十七年間、異世界で必死に築き上げてきたはずの自信が、前世のモラハラ夫の影に一瞬にして押し潰されそうになっていた。


「——ガイウス、オルガ。貴様ら、我が主の前で、二度とその汚い口を開くな」


 最初に動いたのは、レオンだった。

 彼の全身から、これまでにないほどの禍々しい闘気が噴き出す。

 ガシャン、と腰の大剣の柄に手がかけられ、刃が僅かに抜ける鋭い金属音が部屋に響いた。


「レオン、下がりなさい。私がこの者たちの傲慢を、聖女庁の名において正式に告発します」


 リナの瑠璃色の瞳からも、絶対的な拒絶の光が放たれていた。

 彼女の周囲の空気が、怒りの魔力で微かにパチパチと震える。


 二人の計り知れない怒りと殺気に、さすがのガイウスとオルガも一瞬だけ怯み、息を呑んだ。

 しかし、彼らがさらに専門家としての反論を重ねようとした、その時。


「——そこまでにせよ」


 低く、地を這うような、けれど圧倒的な質量を持った声が、部屋の全ての空気を完全に圧殺した。


 声の主は、王弟エリアスだった。

 彼はゆっくりと前に進み出ると、震えて固まっているサヨの前にすっと立ち、彼女を背中に隠した。


 その広い背中が視界を遮った瞬間、サヨの元へ届いていたガイウスたちの不快な威圧感が、完全にシャットアウトされる。

 エリアスは、平伏すらしていないガイウスとオルガを、氷よりも冷たい碧眼で見下ろした。


「ガイウス医師長。そしてオルガ副料理長。……今の言葉、私の耳には、ルシアンを救うための建設的な意見ではなく、自らの無能を棚に上げ、権威を振りかざしているだけに聞こえたが」


「で、殿下……! しかし、我々の医学的見地からすれば、この平民の女のやり方は……!」


「黙れ」


 エリアスの一言が、ガイウスの反論を完璧に叩き潰した。

 部屋の温度が数度下がったのではないかと思わせるほどの、絶対的な王族の威厳。


「彼女のしてきたことが、素人の『台所仕事』だと? ならば聞くが、その台所仕事に、この国の最高峰たるお前たちの医療と料理は、完膚なきまでに敗北したのではないか?」


 エリアスの冷徹な正論が、二人の誇りを鋭く抉る。


「お前たちがその素晴らしい知識と計算し尽くされた献立で、数ヶ月間ルシアンに一口も食べさせられなかった。それは厳然たる事実だ。そして今、彼女の食事でルシアンは深く眠っている。答えはおのずと出ている」


 エリアスは僅かに目を細め、二人へ最後通牒を突きつけるように言い放った。


「これ以上、ルシアンの回復を妨げ、私の客を侮辱するならば、お前たちのその『地位』と『権威』が、明日も我が国に存在していると思わぬことだ。……下がれ」


 その言葉に含まれた絶対的な冷徹さと、言い逃れのできない正論に、ガイウスとオルガは、今度こそ完全に血の気を失った。

 二人は強張った顔のまま、床に何度も頭を打ち付けるようにして、命からがら控えの間から退室していった。


 二人の足音が遠ざかり、部屋に静寂が戻る。

 けれど、サヨの耳には、前世の夫の、あの冷たい嘲笑が響き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ