第13話 専門家の矜持と台所仕事
静まり返った病室をあとにしたサヨは、ルシアン王太子の経過報告と今後の管理について話し合うため、再び離宮の広い控えの間へと足を運んでいた。
サヨのすぐ後ろには、聖女庁の治癒師長であるリナと、王国騎士団長のレオンがピタリと寄り添うように歩いている。
さらに、今回の事態を重く見た王弟エリアス殿下も、自らサヨの歩調に合わせるようにして、静かに同行してくれていた。
控えの間に入ると、そこにはすでに王宮医師長のガイウスと、王宮副料理長のオルガが待機していた。
二人の表情は固く、ひどく張り詰めている。
特にオルガは、自分が心血を注いだ最高級の料理が拒絶され、サヨの作った「ただの薄い粥」を王太子が完食したという事実に対し、宮廷料理人としての強烈な矜持を揺さぶられているようだった。
「……ガイウス医師長、それにオルガ副料理長」
サヨは、部屋に入るなり、努めて穏やかな声で語りかけた。
「先ほど、殿下はようやく深い眠りにつかれました。お腹が温まり、お部屋の刺激を減らしたおかげだと思います。ですから、明日の朝までは絶対に起こさないようにしてください。それと……」
サヨは、手元に用意していたメモに視線を落とした。
「明日の朝食ですが、いきなり固形物を増やすのは危険です。お粥の水分を少しだけ減らし、すりおろした根菜を少量加えたものにしようと思います。お二人の治療や調理の予定もあるでしょうから、事前に共有しておきますね」
それは、元看護師としての申し送りであり、灯火食堂の女将としての、ごく当たり前の業務連絡のつもりだった。
サヨには彼らを打ち負かしたという奢りなど微塵もない。ただ、目の前の患者である十二歳の子どもが、明日も無事に食事を取れることだけを考えていた。
しかし。
その丁寧で対等な物言いが、この国の最高峰たる専門家たちの間に、冷たい壁を作ることになった。
「……ミルナー殿。殿下が一時的に休息を取れたことについては、君の労をねぎらおう」
低く、極めて理知的な、しかし全く感情の乗っていない声がガイウスの口から発せられた。
彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹な瞳でサヨを見据えた。
「だが、あの水のような粥では、体力を回復させるための『栄養』が決定的に不足している。あのようなものを食べさせ続けては、殿下の御身体は衰弱する一方だ。明日からは、我々が処方した霊薬と、滋養ある食事に戻さねば、殿下の命に関わる」
「その通りです」
ガイウスの言葉に、オルガが静かに、しかし確固たる自信を持って同調した。
彼女の眼差しには、王宮の食を預かる者としての絶対的な自負が宿っている。
「魔獣肉や、薬効のある特別な香辛料を使わない食事では、殿下の滞った魔力循環を促すことはできません。私たちが作る料理は、殿下の御身体を内側から活性化させるために、計算し尽くされたものです。素人の浅知恵で、私たちの献立を乱さないでいただきたい」
彼らは、ただヒステリックに怒っているわけではない。
「自分たちの最新の医学と宮廷料理の知識こそが、王太子を救う唯一の正解である」という強烈な矜持を持っているのだ。
だが、サヨも引き下がるわけにはいかなかった。
「……お待ちください。確かに栄養や魔力の循環は大切かもしれません。でも、今の殿下の胃腸には、お二人の料理は重すぎます。あんな濃厚な味付けや香辛料では、また吐き戻してしまいます」
サヨが患者の様子を根拠に食い下がろうとした、その時だった。
「医学も魔術も修めていない者に、これ以上の議論は無用だ」
ガイウスの声が、氷のように冷たく部屋に響いた。
「君のやったことは、医学的根拠のない一時的な慰めに過ぎない。所詮は素人の民間療法——ただの『女の台所仕事』だ。我々は王室の命を預かる専門家だ。素人は黙って、我々の指示に従いなさい」
台所仕事。
素人は黙って、指示に従え。
その言葉が控えの間に響き渡った瞬間——。
サヨの身体は、まるで氷水を浴びせられたかのように、指先から完全に凍りついた。
(あ……)
目の前で理路整然とサヨを否定するガイウスの顔が、急速に歪み、別の男の顔へと書き換わっていく。
——『看護師なんて、医師の指示がなければ何もできないだろう』
——『医者でもないのに、偉そうに口出しをするな』
——『君のやっていることは、誰にでもできる雑用だ』
前世の夫の、冷酷で、全てを見下すような声。
あの息の詰まるような広いリビング。どれだけ患者の顔色を見て、少しでも楽になるようにと意見を言っても、「資格のない女の雑務」と切り捨てられ、自分の誇りと価値を毎日すり減らされていた、あの地獄のような日々。
胃の奥がギチギチと音を立てて縮み上がる。
心臓が早鐘を打ち、呼吸の仕方が分からなくなる。
サヨは、言葉を失ったまま、ただその場に立ち尽くし、身体を小刻みに震わせることしかできなかった。
十七年間、異世界で必死に築き上げてきたはずの自信が、前世のモラハラ夫の影に一瞬にして押し潰されそうになっていた。
「——ガイウス、オルガ。貴様ら、我が主の前で、二度とその汚い口を開くな」
最初に動いたのは、レオンだった。
彼の全身から、これまでにないほどの禍々しい闘気が噴き出す。
ガシャン、と腰の大剣の柄に手がかけられ、刃が僅かに抜ける鋭い金属音が部屋に響いた。
「レオン、下がりなさい。私がこの者たちの傲慢を、聖女庁の名において正式に告発します」
リナの瑠璃色の瞳からも、絶対的な拒絶の光が放たれていた。
彼女の周囲の空気が、怒りの魔力で微かにパチパチと震える。
二人の計り知れない怒りと殺気に、さすがのガイウスとオルガも一瞬だけ怯み、息を呑んだ。
しかし、彼らがさらに専門家としての反論を重ねようとした、その時。
「——そこまでにせよ」
低く、地を這うような、けれど圧倒的な質量を持った声が、部屋の全ての空気を完全に圧殺した。
声の主は、王弟エリアスだった。
彼はゆっくりと前に進み出ると、震えて固まっているサヨの前にすっと立ち、彼女を背中に隠した。
その広い背中が視界を遮った瞬間、サヨの元へ届いていたガイウスたちの不快な威圧感が、完全にシャットアウトされる。
エリアスは、平伏すらしていないガイウスとオルガを、氷よりも冷たい碧眼で見下ろした。
「ガイウス医師長。そしてオルガ副料理長。……今の言葉、私の耳には、ルシアンを救うための建設的な意見ではなく、自らの無能を棚に上げ、権威を振りかざしているだけに聞こえたが」
「で、殿下……! しかし、我々の医学的見地からすれば、この平民の女のやり方は……!」
「黙れ」
エリアスの一言が、ガイウスの反論を完璧に叩き潰した。
部屋の温度が数度下がったのではないかと思わせるほどの、絶対的な王族の威厳。
「彼女のしてきたことが、素人の『台所仕事』だと? ならば聞くが、その台所仕事に、この国の最高峰たるお前たちの医療と料理は、完膚なきまでに敗北したのではないか?」
エリアスの冷徹な正論が、二人の誇りを鋭く抉る。
「お前たちがその素晴らしい知識と計算し尽くされた献立で、数ヶ月間ルシアンに一口も食べさせられなかった。それは厳然たる事実だ。そして今、彼女の食事でルシアンは深く眠っている。答えはおのずと出ている」
エリアスは僅かに目を細め、二人へ最後通牒を突きつけるように言い放った。
「これ以上、ルシアンの回復を妨げ、私の客を侮辱するならば、お前たちのその『地位』と『権威』が、明日も我が国に存在していると思わぬことだ。……下がれ」
その言葉に含まれた絶対的な冷徹さと、言い逃れのできない正論に、ガイウスとオルガは、今度こそ完全に血の気を失った。
二人は強張った顔のまま、床に何度も頭を打ち付けるようにして、命からがら控えの間から退室していった。
二人の足音が遠ざかり、部屋に静寂が戻る。
けれど、サヨの耳には、前世の夫の、あの冷たい嘲笑が響き続けていた。




