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第12話 眠るための夕食

王宮の空が、美しい茜色から深い藍色へと染まっていく。

サヨが控え室に用意された小さな魔導コンロで火の番をしていると、鍋の中からコトコトと優しい音が響いてきた。


夕食の支度だ。

昼間はほとんどお湯に近い野菜のスープだったが、夜は少しだけ腹持ちを良くし、なおかつ胃に負担をかけないものが必要だった。

サヨが選んだのは、この国で一般的に食べられている麦に似た穀物を、原型がなくなるまで柔らかく煮込んだ薄い粥だった。


「先生、お手伝いできることはありますか?」


サヨの背後から、聖女リナが控えめな声で尋ねる。

彼女は、サヨが作業しやすいようにと、すでに使わなくなった調理器具をきれいに洗い上げてくれていた。


「ありがとう、リナ。もうすぐ煮上がるから大丈夫よ。……殿下のご様子はどう?」

「はい。お昼のスープを召し上がった後、少しだけお眠りになりました。ただ、やはりすぐに目を覚まされてしまって……ずっと、何かに怯えているようなご様子です」


リナの表情が曇る。

サヨは、ふうっと小さく息を吐いた。


無理もない。十二歳という年齢で毒殺未遂に遭い、信じていた大人たちから出される食事を拒絶し続けてきたのだ。

一度スープが飲めたからといって、すぐに心の傷が癒えるわけではない。


「毒の恐怖だけじゃないわ。あの部屋の環境が、殿下から安らぎを奪っているのよ」


サヨは、鍋の火を止めながら静かに言った。


「昼間も言ったけれど、人が多すぎるの。常に誰かに見下ろされ、一挙手一投足を監視されている状態じゃ、大人だって落ち着いて眠れないわ。まずは、あの監視の目をなんとかしないと」


食事は、ただ栄養を摂るだけの行為ではない。

安心できる空間で、リラックスして咀嚼し、胃に収める。そして、食後の心地よい満腹感と疲労感とともに、深い眠りにつく。

それらのサイクルが揃って初めて、体は回復へ向かうのだ。


「レオン」


サヨが控え室の扉の向こうに声をかけると、即座に「はい!」という元気な返事とともに、王国騎士団長が顔を出した。


「夜の間、殿下の病室の中にいる近衛兵を、部屋の外に配置換えしてちょうだい。中には、私とリナと、殿下が信頼している侍従を一人だけ残せば十分よ」

「承知しました! すぐに手配します。……ですが、サヨさん。万が一、外から刺客が侵入した場合は……」

「そんな時は、あなたが部屋の前に立っていてくれるんでしょう? 王国一の騎士団長が守ってくれているんだから、心配なんていらないわ」


サヨが微笑みかけると、レオンは一瞬顔を赤くし、それから「絶対に、何者も通しません!」と胸を張って敬礼した。

彼のこうした素直なところは、昔から全く変わっていない。


準備を整え、サヨは木盆を手にルシアン王太子(おうたいし)の病室へと向かった。


レオンの指示により、すでに部屋の中の近衛兵たちは退室し、扉の外で警護に当たっていた。

昼間にサヨが指摘した強烈な香炉の匂いも完全に消え、代わりに、サヨが控え室で沸かしたハーブの、微かな甘い香りが部屋に漂っている。


ベッドの上のルシアンは、魔石のランプの光が落とされた薄暗い部屋の中で、布団を顎まで引き上げて小さくなっていた。


「殿下、失礼いたします」


サヨが静かに声をかけると、ルシアンはビクッと肩を揺らしたが、声の主が昼間にスープをくれたサヨだとわかると、ほんの少しだけ警戒を解いた。


「……また、何か飲むの?」


かすれた声で尋ねるルシアンに、サヨは優しく頷いた。


「はい。夜は冷えますから、お腹を温めてからお休みいただこうと思いまして。今度は、少しだけとろみのあるお粥です」


サヨは、昼間と同じように、あらかじめ熱湯で温めておいた器に粥をよそい、ルシアンの手に持たせた。

ルシアンは、手の中の温かさにほっとしたような顔をした。


「……誰も、いないね」


ルシアンが、ぽつりと呟いた。

部屋を見回すその目には、いつも自分を囲んでいた無表情な大人たちがいないことへの、戸惑いと安堵が入り混じっていた。


「ええ。夜は静かな方が眠れますからね。騎士たちは外でしっかり殿下をお守りしていますから、何も怖いことはありませんよ」


サヨは、ベッドの脇に座り、ルシアンの目線に合わせるように少し身を屈めた。


「さあ、ゆっくりで大丈夫です。もし一口食べて、嫌だと思ったら残していいですからね」


昼間と同じ「残していい」という言葉。

それが、ルシアンの心にかかっていた重い錠を、さらに一つ外したようだった。


ルシアンは、木のスプーンで粥をすくい、おずおずと口に運んだ。

穀物を限界まで煮込んだそれは、噛む必要もないほど柔らかく、ほんのりとした自然の甘みが口の中に広がる。

胃に落ちていく温かさが、こわばっていたルシアンの体を、内側からゆっくりと解きほぐしていく。


「……美味しい」


ルシアンの口から、自然とそんな言葉がこぼれた。

昼間のスープは涙とともに飲み込んだが、今度は、ほんの少しだけ口角が上がっていた。

彼はゆっくりとしたペースで、しかし確実に、器の中の粥を平らげた。


「全部、食べられましたね」


サヨが褒めると、ルシアンは少し誇らしげに頷き、空になった器をサヨに返した。


「よく頑張りました。……さあ、少しお口を濯いで、これを飲んだら横になりましょう」


サヨは、ルシアンに口を濯がせた後、今度は別の小さなカップを差し出した。


「これは?」

「気分を落ち着かせて、よく眠れるようになるお茶です。お薬ではありませんから、苦くないですよ」


それは、サヨが灯火食堂でも、夜によく眠れない客や、不安を抱えた客に出していた、カモミールに似たハーブの薄いお茶だった。

ルシアンはそれを一口飲むと、花の甘い香りにふうっと息をつき、ベッドに深く沈み込んだ。


サヨは、彼からカップを受け取ると、シーツのしわを丁寧に伸ばし、布団をかけ直した。


前世で看護師をしていた頃、患者が眠りにつく前のこの時間は、とても重要だった。

環境を整え、清潔にし、適度な温度を保つ。そして何より、「もう今日一日を終えていいのだ」という安心感を与えること。


「殿下。今日はもう、何も考えなくていいです」


サヨは、ルシアンの乱れた金糸の髪を、そっと手で梳いた。


「ご飯も食べられましたし、悪い人は外の騎士が追い払ってくれます。だから、明日の朝まで、ゆっくり休んでくださいね」


その規則的で優しい手の動きと、温かく穏やかな声。

過酷な王宮の中で、ルシアンにとってそれは、母親の記憶すら曖昧な彼が初めて感じる『絶対的な安心』だった。


張り詰めていた緊張の糸が完全に解け、満腹感とハーブの作用が、心地よい睡魔となってルシアンを包み込む。


「……サヨ、さん」


ルシアンが、初めてサヨの名前を呼んだ。

とろんとした目で、サヨを見上げる。


「明日も……あなたが、ご飯を作ってくれるの?」

「ええ、もちろん。殿下が食べたいものを、食べられるように作りますよ。だから、安心してお休みください」


サヨが微笑みかけると、ルシアンは安心したように目を閉じ、ふうっと深い息を吐いた。


それから数分もしないうちに、ルシアンの呼吸は規則正しく、深く穏やかなものへと変わっていった。

ずっと彼の顔に張り付いていた怯えの色は消え去り、そこにあるのは、十二歳の子どもらしい、無防備な寝顔だけだった。


「……信じられません」


部屋の隅で見守っていたリナが、感極まったように声を震わせた。


「こんなに穏やかに、深くお眠りになるなんて……倒れられてから、一度もなかったことです。治癒魔法で無理やり眠らせても、すぐにうなされて起きてしまわれていたのに」

「お腹が温まって、部屋が静かになったからよ。人間は、安心しないと眠れない生き物なの」


サヨは、ルシアンの寝顔を見つめながら、静かに微笑んだ。


魔法や奇跡なんかじゃない。

これは、食べる人を見て、その人が必要としている環境を整えただけの、当たり前の結果だ。


その夜、王太子は三刻、目を覚まさなかった。

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