第34話 何の変哲もない食堂
王都の夜は、リーベルに吹く風よりも冷たく硬い。
王宮の執務室で、王弟エリアスは机上の報告書に静かに目を落としていた。
向かいに立つのは、王国宰相補佐ユリウス・クラウゼ。
感情の起伏を悟らせない平坦な声で、彼は静かに告げた。
「ガイウス医師長の地方施療記録に、不自然な照会がありました」
差し出された紙には、王弟の名で許可された辺境施療の記録が写されている。地方の子どもたちを診て回るという、表向きは褒められるべき施策だ。
だが、それを誰かが見ようとした痕跡があった。
「宰相府の文書室を経由し、幾重にも偽装が施されています。閲覧者の尻尾は掴めませんでした」
「当然だろう。黒幕本人が直接動けば目立ちすぎる」
「ええ。記録上は、あくまで『施療費用の確認』という形をとっています」
ユリウスの声は淡々としていたが、報告書を押さえる指先は白くなっていた。
「ユリウス。怒りを表に出すのは珍しいな」
「……隠しきれていませんね。修行が足りないようです」
ユリウスは中指で眼鏡の位置を直した。その瞳の奥には、静かで冷たい怒りが揺れている。
「記録を読む者たちは、施療の回数や使用薬材の量という『数字』しか見ていないのでしょう。……その裏にいる、一人の子どもの顔を見ていない」
ルカは今、あの温かい食堂で、ようやく自分で匙を持ち始めている。
ユリウスが灯火食堂で教わった通り、数字とは本来、人を食べさせ続けるためのものだ。それを権力闘争の道具にしようとする者たちを、彼は決して許すつもりがなかった。
「向こうはまだ確信を持っていないはずだ」
エリアスは低く言った。
「今はまだ、死んだはずの子どもに医師が必要だった理由を、手探りしている状態だろう」
「ええ。だからこそ厄介です。疑いだけで動く者は、決定的な証拠を得るまで音を立てずに近づいてくる」
「リーベルへ人を出すか」
「可能性は高いでしょう。正規の役人ではなく、あの食堂に入っても不自然ではない者——浮浪者などを装って潜り込んでくるはずです」
エリアスは報告書をしまい、窓の外を見た。
「……兵は出せないな」
「出すべきではありません。あの店を兵士で囲めば、何かを隠していると宣言するようなものです」
「あそこは、ただの食堂でなければ意味がない」
ルカが安心して木の椀を持てる場所。サヨがいつものように鍋をかき混ぜていられる場所。
それを守るために、目に見える武力は使えない。
「シオンの様子はどうだ」
「問題ありません。給仕として評判も良いようです」
「……サヨ殿なら、彼女の作られた笑顔に気づくでしょうね」とユリウスが静かに言った。
エリアスは振り返った。
「先生は、本当に困っている者を簡単には追い返せません。空腹を装った密偵が来れば、間違いなく食事を出してしまう。だからこそ、シオンを置いた判断は正しいと思います。奥へ通すかどうかを、物理的かつ自然に遮断できる」
エリアスは頷き、机に戻って便箋を取り出した。
ただの警告だけでは、サヨは自分を責めてしまう。
『見知らぬ客を、すべて拒めとは言いません。
あなたの食堂がそういう場所ではないことを、私は知っています。
けれど、奥へ通す相手だけは、あなた一人で決めず、シオンを使ってください』
そこまで書いて、エリアスのペンが止まった。
相手の意思を尊重したいのに、どこか命令のように読めてしまう。
エリアスは静かに目を閉じ、もう一文を書き足した。
『あなたがいつものように火を入れ、鍋をかき混ぜていると思うだけで、私はこの王宮にいても少し息がしやすくなります。
どうか、その日常を守らせてください』
書き終えてから、エリアスは耳のあたりがわずかに熱くなるのを感じた。
ユリウスは見ていないふりをして、手元の書類を揃えている。
「王弟殿下。宰相府内の記録は私が引き続き追います。……無理はしません。それは、先生にもお伝えください」
「……ああ」
エリアスは丁寧に封蝋を落とした。
遠い宿場町にある小さな灯りを守り抜くために、王宮の中でも、音のない静かな戦いが始まっていた。
*
その頃、王都の貴族街の最奥に位置する古い屋敷の書斎。
重い帳の下ろされた淀んだ空気の中で、大きな椅子に座る老人が、薄い報告書の束をめくっていた。
前に立つ部下の男は、老人の前で大きな息をすることすら恐れている。
「……これだけか」
老人の声は地を這うように低かった。
「はい。リーベル宿場町周辺に放った者たちからの報告は、以上でございます」
「『灯火食堂』……飯がうまい、女将がよく笑う、病み上がりでも食べられる粥を出す……。私はお前たちに、平民の感想文を集めろと言った覚えはないのだが」
「申し訳ございません! ですが、誰に聞いても同じような答えしか返ってこないのです。不審な話は一切出てきません」
老人は報告書を机に放り投げ、もう一枚の紙を抜き取った。ガイウスの地方施療記録の写しだ。
「ガイウスが動いた。辺境の子どもの診療という名目で、その行程にあのリーベルが含まれている」
「偶然、という可能性も……」
「あの医師長は、王宮の規則そのもののような男だ。必要もなく泥にまみれて地方を歩き回るような性分ではない。ましてや王弟の名を使ってとなれば、確実に何かを隠していると考えるのが自然だ」
老人は、骨ばった指で机を軽く叩いた。
「だが、表立っては動けぬ。大仰に兵や役人を動かせば、死んだはずの子どもを血眼になって探していると、自ら王弟に知らせるようなものだからな」
「食堂を検めることは可能です。衛生調査や徴税確認など、理由はいくらでも……」
「だから愚かだと言っているのだ」
老人の声がさらに冷たくなる。
『王太子は死んだ』。彼らはそう信じていた。だが、公には死亡が確定せず、王弟は沈黙を保っている。そこへきてガイウスが動き、小さな食堂の名が浮上した。
偶然にしては、ピースが重なりすぎている。
「何の変哲もない場所だからこそ、隠すには向いている」老人は呟いた。「人は堅牢な城や神殿を疑う。だが、疲れた旅人が安い粥を食うような油臭い食堂を、誰が疑うというのだ」
部下は答えられなかった。
「……肥溜めの者を使え」
「はっ」
「貴族の使いでは目立つ。この食堂は金のない浮浪者にも飯を食わせるらしいからな。底辺の者を雇い、潜り込ませろ」
部下が小さく頷くと、老人は深く椅子に背を預けた。
「だが、騒ぎは起こすな。刃物も使うな。あの場所を荒らせば、かえって何かを隠している者が警戒して動く。……それと」
老人は揺れる暖炉の火を見たまま、静かに付け加えた。
「その食堂の飯が、本当にうまいのかも確かめさせろ」
部下がわずかに顔を上げたが、老人は少しも笑っていなかった。
「誰もが判で押したように同じことを言うのなら、それはそれで重要な情報だ。人の口を完全に揃えさせるようなものには、必ず裏に理由がある」
部下が深く頭を下げて退出すると、書斎には火の爆ぜる音だけが残った。
老人は机の上の報告書を見下ろした。
何の変哲もない、小さな食堂。
その名を指先でゆっくりとなぞる。
「……生きているのか」
誰に聞かせるでもない、乾いた声だった。




