63 源氏?
十三浦。
津軽半島の中ほど付近、岩木川河口の十三湖の西の端、砂州で日本海と隔てられた内側(十三湖側)に古の十三湊がある。
その十三湖のほとりに弘前藩藩主、津軽信枚の侍大将である杉山源吾と佐竹領・国家老の梅津政景が並んで立っている。
「佐竹様ど秀頼様のお蔭で古の十三湊復活さへられるどは、感無量だ。こった大工事、津軽だげではたげ無理ですた。」
なんとか意味を聞き取った梅津政景が応じる。
「なに、お互いに利がある事で御座れば。しかし古の十三湊は完全に終わっては居なかったのですな。」
「はい、津軽四浦の一づどすて、細々どでは有りますが鰺ヶ沢湊への中継港どすて平田船で年貢米運んでら。」
「全く放棄されているなら大変な作業になると、半ば覚悟して来たので御座るが、これなら比較的早期に南蛮船も入港可能に出来そうで御座いますな。」
「小規模ばって、沖番所の有れば荷揚場、係留杭も有りますだ。」
「杭は残念ながら打ち込みなおすしか無さそうですが、人が住める環境があるので、人足もすぐに増やせました。最初は陸上施設は今の物で足りるでしょうから、南蛮船の侵入水路の浚渫だけで一応使用できますな。」
「実は、元々十三湖の口閉まねように、時々藩総出で砂取り除ぎ、『水戸口掘り』すてあったのばって、こんきすっかり浚渫へば当分は心配せずに済みそうだ。」
十三湖は外海との狭い水路が砂で埋まると氾濫する。津軽平野は稲作適地だが、十三湖と岩木川の氾濫で過去に度々水害を受けて来た。
「そうですな。南蛮船の底がこすれる迄には浚渫しなおす事になるので、水害は随分と減りましょうな。」
………暫くの沈黙………やがて、おずおずと探るように梅津政景が言葉を繋ぐ。
「………で、何か、他に気になる事はありましょうや?」
「??気になる事??としゃべらぃますと??」
「…例えば、急に余所者が増えた…とか…。」
「こんき人足集めだはんで、なんたかんた余所者は増えでおりますが…。」
「………関東者とか、三河者とか………」
「ああ!増えでらのは陸奥の者ばすだね。そごまで遠国の者は居ね。この津軽は津軽以外の者はすぐに判ります。他の陸奥者ども言葉がでっけぐ異なるはんで。先ずはご安心ぐださぃ。」
「それは良かった。この港の成否には陸奥衆の未来がかかって居りまするので。慎重が上にも慎重を期したく。」
「梅津様、そう警戒せんでぐださぃ。津軽安堵されだは亡ぎ太閤様のお蔭。津軽州は片時も忘れでは居りませぬ。幕府さ恭順すてはおりますが、それはそれ。秀頼様さも弓引ぐ気などあろませぬので。」
いわれた政景が肩の力を抜く。
「これは失礼仕った。無用の警戒でしたな。」
「津軽は関ケ原の戦いで遠江まで出兵すたはんで、幕府は頭がら反豊臣、親徳川…と勘違いされでおります。まあ、それもあって、石田三成殿の遺児も無事さ過ごせであった訳ばって。あの遠征は家中でも流石、瑞祥院様(津軽為信)ど感心すきりですた。あれで津軽への徳川の警戒は皆無になったはんで。一度も幕府の密偵などは来ておりませぬよ。」
「それは重畳。残念ながら、我が佐竹は元々関東で徳川と角突き合わせていた上に、関ケ原後の仕置きで大幅に幕府に減封されたため、片時も徳川の警戒は緩みませぬ。息苦しい事この上無しで。」
少し考えて、杉山源吾がぽつぽつと言い出す。
「…然もありなん。されど、そんきが理由でもねのでは。佐竹様は由緒正すき清和源氏。徳川みんた、今今むっりやりひねり出すた似非源氏どは物違いますれば、それも上乗せされで居るべな。征夷大将軍名乗る以上、この負いまなぐは永久さ続ぎますれば。」
言われた梅津政景が今更のように驚く。
「! 確かに。我らは当たり前すぎて忘れて居り申した。言われてみれば、むしろ幕府にとってその毛並みの良さそのものが不快なのでしょうな…となると…細川氏、最上氏などもいつまでも安泰とは言えぬのか………。」
細川氏も清和源氏の流れで足利義康を経て細川義季の代から細川を名乗るようになった、源平以来の正統的な源氏だ。
最上氏も清和源氏、足利氏の流れで斯波兼頼が出羽国への下向以降に最上を名乗るようになった。いずれも誰もが源氏と認めている。
それに比べて家康は挫折と相当な無理を重ねて今に至っている。
1.三河平定後、三河守を朝廷に求めるも「松平のような素性の知れない田舎者に、そんな前例はない。」と断られる。
2.それを受けて、家康は「新田氏から分かれた得川氏が、藤原氏に改姓した先例」を発掘、源氏ではなく藤原氏として三河守を得る。
3.征夷大将軍が藤原氏では無理な事に気が付き、新田氏の流れの吉良家の正式な家系図の末端に松平家初期の数代を書き足して得川と徳川を強引に結び付け得川源氏の嫡流を自称して今に至る。
これらの経緯は同時代を生きる武士たちは皆承知している。殊更に論う事はないが、皆内心では蔑んでいる………という被害妄想に家康以下、幕府一同とりつかれていても驚くことでは無かった。
「! そうかっ !」
「わわっ…如何なさぃだ、政景殿??」
「島津!薩摩の島津で御座る。」
「?」
「薩摩の島津氏が関ケ原後もなんらの減封もなくやり過ごせたのは、島津の強さと立地が原因と思われてきましたが、実は異なるのでは。」
「…島津氏は、たすか、今の系統は伊作の島津氏ですたな。」
戦国時代に覇を唱えた島津氏だが、それは元々の鎌倉・南北朝期からの総州家は室町時代に没落している。以降は薩摩守護職と島津家伝来の家宝を奥州家が受け継いだ。が、三州大乱をきっかけに薩州家、伊作家、豊州家、相州家、羽州家などが分立し、その混沌を再統一したのが伊作島津家だった。
「はい、その薩摩の島津ですが、元々からの源氏ではありませぬ。」
「そうなのだが?」
「島津が源氏を名乗りだしたのは、室町の世からで、元々は古の惟宗氏。かの古代の秦氏の係累であると、大殿(佐竹義重)が話されていたのを、覚えて居りまする。」
「古代の秦氏!それが源氏ば名乗った………あああ!」
「そう、徳川同様、本来は源氏でないのに源氏という事になっている。だから甘い処置で済まされた………のではないかと。」
徳川の闇の深さに触れたような気がした二人はその後は言葉も無く黙り込むのだった。




