第七話 地下二階
午後一時。
規制線に並んだカメラの赤いランプが、一斉にその洋館へ向いた。
世界が、見始めた。
「突入」
神代の声が無線に流れる。隊員たちが門を抜け、先頭の一人が玄関の錠を焼き切って、扉を引き開けた。
暗い。
鎧戸を閉め切った家の中を、ヘルメットのライトが幾筋も走る。その一つひとつに、小さなカメラが付いている。隊員たちが見るものを、いま世界中が見ていた。
塀の内側にあったのは、要塞ではなかった。ただの、家族の家だった。
壁には家族写真。リビングには、埃をかぶったソファ。階段脇の柱には、子どもの背丈を刻んだ傷が、七本目で止まっている。
靴箱の脇に、泥のついた小さな靴が、揃えて置いてあった。
誰も、何も言わなかった。
指揮車のモニターに、その靴が映った。
ハルトは息を呑んだ。
知っている。玲子の記憶の底で、彼女が握り締めて泣いていた靴だ。
あれは、恐怖が作った幻ではなかった。
隣で、神代は画面から目を離さずに言った。
「進め」
「一階、クリア。居住区画に人影なし」
「地下への経路は」
「階段は防火扉で塞がれています。内側から溶接済み。残るのは、キッチン奥のエレベーター一基。表示は地下二階までです」
班長は、閉じた扉の前で足を止めた。
呼び出しボタンを押す。光らない。電源が落とされている。
隊員が二人、扉の隙間に工具を差し込んだ。金属が軋み、左右に割れる。
その向こうは、縦に落ちる闇だった。
ライトを向ける。はるか下、地下一階と二階のあいだに、かごの天井が見えた。階の途中で、宙吊りのまま止められている。
「使わせない気か」
班長は低く言った。
「時間稼ぎだ。シャフトを降りる。ロープ用意」
◇
地下二階。
完全に密閉された研究室を満たしているのは、白い天井灯の光と、途切れることのない空調の低い音だけだった。
藤堂は作業台に身をかがめ、震える手で、一枚のチップをホルダーから取り出した。
かろうじて指でつまめる大きさの、無機質な欠片。だがそこには、自ら考え、行動を決定する人格形成プログラムと、娘の記憶の断片が収められている。正確には、藤堂が事故のあとに自分の記憶から再構築したものだ。レオナの声。表情。好きだった色。夜泣きのときに握ってきた、小さな手の感触。その残響だった。
二時間前のことだ。
作業の手を止めさせたのは、看護ヒューマノイドの声だった。
「訪問取消の通知です。ご家族から、理由が添えられています。読み上げます」
抑揚のない声が、妻の言葉をなぞった。
「啓人さん。機構が来ます。私は何も話していない。でも、あの人たちは全部知っている。逃げて。お願い」
玲子の言葉を聞くのは、あの夜以来だった。
出ていった妻が、まだ自分を守ろうとしている。その事実が、胸の奥を鈍く刺した。
逃げる、という選択は最初からなかった。この体は、薬剤と機械の監視なしでは半日ともたない。それに、置いていけないものがある。
だから藤堂は、残された時間のすべてを、最後の調整に注ぎ込んだ。
打てる手は打ってある。エレベーターの電源を落とし、かごは階の途中で止めた。地下二階の扉もロックした。それでも、稼げるのはせいぜい数分だろう。
頭上で、鈍い音がした。
顔を上げる。監視画面の中で、いくつものライトが家の中を進んでいく。リビング。階段。かつて三人で暮らした部屋を、黒い装甲服が土足で踏んでいく。
やがて画面のひとつが、こじ開けられたエレベーターの扉を映した。
「間に合わない……」
研究室の奥には、子ども型のヒューマノイドが十数体、整然と並んでいる。その中の一体は、レオナの顔をしていた。
本来なら、このチップはあの一体に入れるはずだった。
だが、あれは一目でわかる。亡くした娘と同じ姿。それだけで、人格を持つ存在を作ろうとした証拠になる。機構は真っ先に破壊するだろう。
藤堂は、作業台の隣に目を向けた。
看護ヒューマノイドが立っている。
白い外骨格。無表情。呼吸すらしない、静止した胸。
事故以来、ずっと彼の命を管理してきた機械だ。何百回も体調を確かめ、発作の兆候を見張り、必要なら薬剤を打ってくれた個体。二時間前には、妻の言葉を、一語も誤らずに届けてくれた。
もとは研究用のプロトタイプを、看護向けに手直ししたものだった。表情は乏しいが、必要な会話なら十分にできる。
藤堂は、この一体に賭けることにした。
「……お前しか、いないんだ」
看護ヒューマノイドは返事をしない。藤堂は、その沈黙を責めなかった。
監視画面の中で、黒い影がひとつ、またひとつと、ロープを伝って闇へ降りてくる。
時間切れだ。
藤堂は看護ヒューマノイドの臀部にあるサブモジュールパネルを開け、人格形成チップを挿し込んだ。メインチップとの統合が始まる。プロトタイプにしかない機構だ。検査で見落とされる可能性に賭けた、隠し場所だった。
ヒューマノイドの全身が、一度だけぴくりと震えた。ディスプレイに、見たことのないパラメータが乱れた光を描く。
◇
ロープが、闇に垂れていた。
隊員たちは一人ずつ、壁を蹴りながら降下していく。ライトの輪が、コンクリートの壁と、油で黒ずんだレールを舐める。自分の呼吸の音が、ヘルメットの内側でやけに大きい。
地下一階。扉を内側からこじ開け、二人が飛び込んだ。
「地下一階、クリア。倉庫のようです。誰もいません」
班長は足元を照らした。すぐ下に、かごの天井がある。地下二階の扉は、その向こうだ。かごを抜けなければ、辿り着けない。
不意に、低い唸りがシャフトを震わせた。
全員が動きを止めた。ロープを握る手に、汗が滲む。
かごではない。電源は落ちたままだ。
唸りは、さらに下から来ていた。
「……下で、何かが起動している」
班長は無線に囁いた。
「急げ」
◇
藤堂は深く、苦しげに息を吐いた。指先が震える。娘を失った夜の、冷たいアスファルトの感触が、掌に戻ってくるようだった。
看護ヒューマノイドが、初めて、わずかな「反応」を示した。
顔が動いたわけではない。声を出したわけでもない。ただ、首の角度が変わった。人が相手の言葉を待つときの、あの傾きに近づいた。
それだけで、藤堂の胸はかきむしられるように痛んだ。
扉のすぐ上で、重いものが着地する音がした。一つ。二つ。途中で止めた、かごの天井だ。
藤堂は看護ヒューマノイドの顔を両手で包み、その目を覗き込んだ。
「まず、ヒューマノイドとしてのお前に命令する」
声が震えた。
「人格を持っていることは、不具合だ。知られれば、お前は即座に廃棄される。だから、お前だけの秘密にしろ。誰にも悟らせるな。これは命令だ」
瞳が、わずかに揺れた。理解したのか。それとも、ただのセンサーの反応か。
「次は、人格形成ルーチンへの命令だ」
息を吸う。
「お前は……私の娘のレオナではない。私はお前を、レオナとして作ったわけじゃない。娘として存在してほしいわけでもない。……ただ、生きてほしい。私の過ちの代わりにではなく、誰かに管理されるためでもなく。お前自身として、生き延びてくれ」
音声モジュールから、か細い声が漏れた。
「……理解、しました」
表情のない顔。だが、その声はわずかに震えていた。
藤堂の目から、涙が溢れた。
◇
点検ハッチから、四人がかごの中へ滑り込んだ。
内扉をこじ開ける。目の前は、コンクリートの壁だった。その足元に、地下二階の扉の上半分だけが覗いている。
かごが階の途中にある以上、入口はこの隙間しかない。身を屈めて、一人ずつ。待ち伏せる側には、理想的な形だった。
班長は膝をつき、扉に耳を寄せた。空調の音。それに混じって、かすかな声がする。
誰かが、誰かに語りかけている。
言葉までは聞き取れない。ただ、泣いているような声だった。
班長は首を振り、切断機を扉の合わせ目に当てた。
火花が散った。
◇
扉の上半分に、火花の線が走り始めた。
あと一分もない。
藤堂は、奥に並ぶ子どもたちを見つめた。
「……すまない」
端末を操作し、すべての子ども型ヒューマノイドを緊急起動させる。
一体、また一体と、目に光が灯る。胸部のメインモジュールが輝き、四肢が動き出す。
レオナの顔をした一体も、目を開けた。
藤堂は、震える声で命じた。
「これから入ってくる者たちから、私を守れ。行動不能にしてかまわない。だが、殺すな。動けなくするだけだ」
子どもたちは無言で頷いた。小さな体が、一斉に扉へ向かう。人間の子どもにはありえない、素早い動きだった。
看護ヒューマノイドが、藤堂を見つめた。
「博士……これは……」
「お前を守るためだ」
藤堂は、その肩に手を置いた。
「私は今から、完全な悪人になる。人間を攻撃するヒューマノイドを作った、禁忌の研究者として。機構は私を見せしめにして、規制を強めるだろう。だが、それでいい。お前は人を攻撃しなかった。ただの優れた看護ユニットだ。そうして残れると、私は信じる」
もう一度、その顔を見た。
「これが、お前を守る最後の方法だ」
扉が、破られた。




