第五話 白い部屋
通されたのは、白い部屋だった。
ただの白ではない。壁も床も天井も、光を含んだように柔らかい。腕を伸ばせば壁に触れられそうなほど狭いのに、息苦しさがない。乳白色の繭の内側に紛れ込んだような、無機質なのに落ち着きすぎる空間だった。
座る者の心を油断させるために設計された部屋だった。
犬は、入り口で職員に預けた。玲子はひとり、椅子に座っている。
向かいには、神代が腰を下ろしていた。
「ご安心ください。私たちはただ、事実を知りたいだけです」
声は、ペットショップの前と同じように柔らかかった。
玲子の視線は神代をすり抜け、正面のマジックミラーへと揺れた。まるで、その向こうに誰かがいるかのように。
だが、そこには誰もいない。
視ている者は、別の場所にいた。
玲子の椅子から、壁一枚を隔てた隣室。
黒瀬ハルトは、その壁にもたれて椅子に深く腰を下ろし、静かに目を閉じていた。
頭には黒い金属質のヘルメット。無数の細いケーブルが束になり、背後の端末へ伸びている。
1メートル以内にいる相手の負の感情が、映像として脳に流れ込む。その力を機械的に増幅し、記録する装置だった。
素の力で視えるのは、感情の渦と、その断片だけだ。だがこの装置を通せば、感情に絡みついた記憶まで引きずり出せる。
代償もあった。装置を外したあとも、しばらくは素の力が鋭いままになる。使うたびに、その「しばらく」が少しずつ長くなっている気がした。
不意に飛び込んでくるのとは、違う。これは、自分から覗きにいく行為だ。ハルトは身構えるように、深く息を吐いた。
「……準備できてるよ」
モニターの前の審問官が頷き、インカムで神代に合図を送る。
ほどなく、壁の向こうから神代の声が響いた。
「藤堂先生は、高密度演算ユニットや最新型の生体情報解析装置などを多数購入されています。何かご存知ではありませんか。倫理に抵触する研究をされている、という噂もありますが」
玲子は、すぐに笑った。
半分だけの笑みだった。口角の片側だけが上がる、乾いてひび割れた笑み。
「さあ……夫はいつも難しいことばかりですもの。研究の内容なんて、私にはわかりません」
その瞬間。
ハルトの脳に、暗いイメージが流れ込んだ。ノイズが視界を白く染め、次いで濁った黒に塗り替える。
「っ……!」
映像がモニターに溢れた。
最初に来たのは、白い光だった。
実験灯の下に、子どもの背丈の人形が並んでいる。十数体。どの胸にも、暗い空洞が口を開けている。
その中の一体だけが、顔を持っていた。
七歳の少女の顔。玲子の娘の顔だ。
その目が、ゆっくりと開く。こちらを見る。唇が、何かを言おうとして動く。
映像が、恐怖に軋んで歪んだ。どこまでが実際に見た光景で、どこからが悪夢なのか。ハルトには区別がつかない。
別の映像が重なった。
背中だ。作業台に向かう、夫の背中。
「そんなものを作れば、レオナが戻ってくると思っているの?」
玲子自身の声が響く。答えはない。金属の右手がパーツを取り上げる、小さな音だけがする。
顔は、映らなかった。玲子の記憶の中で、夫はもう振り向かない。
映像は、さらに深い層へ潜った。
玄関だった。
靴箱の脇に、小さな靴が揃えてある。泥がついたまま、あの夜から誰にも動かされていない。
玲子は鞄を提げたまま膝をつき、その靴を握り締めていた。嗚咽は声にならない。涙は頬を伝わず、靴を握る指の上に落ちていく。
「ヒューマノイドであの子を作ったって……あの子は返らない。姿が同じでも……それは作り物。違うのよ……」
研究室までは届かない声だった。届かせるつもりも、もうなかった。
靴を、元の場所に戻す。持っていくことは、できなかった。
扉が閉まる。その音だけが、やけに大きく響いた。
そして、いちばん底。
暗い部屋で、玲子は膝を抱えている。実家の、昔の自分の部屋だ。
『止めなきゃいけなかった。なのに、逃げた』
『誰かに知らせれば、止められる。でも、そうしたら、あの人には何も残らない』
『あなたはまだ戻ってこられる。そう言ったのは、私なのに』
知らせることも、忘れることもできない。その場に蹲ったまま、玲子は静かに泣いていた。
ハルトのこめかみを、汗が伝った。
「くっ……!」
壁の向こうで、神代が穏やかに問いを重ねる。
「先生の研究を、まったくご存知ないとは考えにくいのです。何か、ご覧になったものはありませんか」
取調室を映すモニターの中で、玲子は背筋を伸ばしたまま、神代を見返していた。
「いいえ。何も」
声は揺れなかった。
「研究室には、入れてもらえませんでしたから。あの人は事故のあと、誰も寄せつけなくなったんです。だから私は家を出ました。それだけです」
半分は、本当のことだった。だからこそ、嘘は滑らかだった。
だが、ハルトの脳には別の声が届いていた。
『言わない。絶対に言わない。あの人から、これ以上何も奪わせない』
『止められなかった。逃げた。それなのに、守るふりだけはするのね、私は』
『どうすればよかったの……? 私は……ただ、あの人を愛していただけなのに……』
隠し通そうとする必死さ。その下の罪悪感。そして最も深い場所に沈んでいたのは、夫への未練だった。
愛していた。今も、愛している。
だから止められなかった。だから今、嘘をついている。
その嘘ごと、すべてがモニターに記録されていく。
ハルトの呼吸が乱れた。
「……判定を」
掠れた声で促すと、向かいでモニターを確認していた審問官が、短く告げた。
「藤堂玲子――機構倫理規定第十二条違反。倫理違反者の隠匿。動機は夫への愛情。本人の透視により確定。倫理再構築プログラムの対象」
一拍置いて、続ける。
「藤堂啓人――機構倫理規定第九条、重大違反の疑い。ただし、参考認定にとどまる」
本人の心についてなら、自白も長い尋問も要らない。言葉の裏に隠されたものを、ハルトの力は即座に暴き出す。それこそが、機構がハルトを手放さない理由だった。
だが、他人の心に映った誰かは別だ。
本人以外の記憶には、必ず誤解が混じる。玲子の中にいる藤堂は、玲子の恐れが形作った藤堂でしかない。だから参考にしかならない。罪を問うには、本人の心を覗く必要がある。それが機構の規定だった。
ハルトはヘルメットを外し、ゆっくりと呼吸を整えた。
審問官がインカムに手を伸ばし、判定を淡々と神代に伝える。
壁の向こうで、神代の声の調子は少しも変わらなかった。
「そうですか。よくわかりました。少しだけ、こちらでお待ちいただけますか」
玲子が小さく息をつくのが、モニター越しにもわかった。
守り切った。そう信じている顔だった。
ハルトは、目を逸らした。
◇
ほどなく、隣室のドアが開いた。
入ってきた神代の顔から、あの柔らかさは消えていた。ハルトから1メートルの外で足を止め、モニターの記録に目を走らせる。
「参考認定、か」
「はい。規定上、藤堂啓人の違反を確定するには、本人の透視が必要です」
「わかってる」
神代は記録から目を離さなかった。
「だが、これで十分だ。あの男は、亡くした娘をもう一度作ろうとしている。同じ顔の人形じゃ足りない。中身ごとだ。つまり、人格を持つヒューマノイドだ」
低い声だった。
「間違いない」
審問官が頷く。
「では、藤堂玲子の拘束手続きを。第十二条違反は確定しています」
「いや」
神代は首を振った。
「ここで挙げれば、マスコミが嗅ぎつける。藤堂啓人の妻、機構が拘束。そんな見出しが出れば、本人に備える時間をやるだけだ。それに、奥さんは隠し通せたつもりでいる。好都合だ。泳がせておけ」
「では……」
「丁重に、家まで送ってやれ。犬も忘れるな。約束は三十分だ」
そう言ってから、付け加えた。
「ただし、二十四時間、監視を付けろ。誰と会い、誰に連絡するか。全部だ」
ハルトは、黙ってそれを聞いていた。
神代が振り向く。一瞬だけ、いつもの気楽な笑みが戻った。
「よくやった、ハルト。きつかったろう。今日はもう休め」
それだけ言って、神代は部屋を出ていった。
モニターの中で、玲子が職員に付き添われて立ち上がる。犬を受け取り、その白い毛に顔を埋めた。夫を守り切れたのだと、安堵しているように見えた。
その背中に、これから二十四時間、目が貼りつく。
ハルトはモニターを消し、壁に背を向けた。
――人の心を暴くこの力は、救うためではなく、裁くために使われる。
その事実が、あの部屋の白さよりも冷たく、胸の底に沈んでいった。
◇
その夜、実家の暗い部屋で、玲子は夫の番号を呼び出した。
呼び出し音だけが、いつまでも鳴り続けた。
窓の外の通りに、見慣れない車が一台、明かりを消して停まっていた。




