第四話 堕ちた権威 ――第零話の、およそ二週間前
ヒューマン・インテグリティ機構――通称、H.I.。
その理念は、ひとつの言葉に集約される。
「人間が作ったものが、人間を超えてはならない」
科学技術の暴走への警戒、というだけではない。それは宗教的な強迫観念にも似た、境界への執着だった。
その日の会議室では、ある一件が議題になっていた。
スクリーンに、ひとつの名前が映し出される。
【藤堂啓人】
ヒューマノイド研究の世界的な第一人者。飲酒操縦の事故で娘を死なせ、世間に叩き潰され、研究の世界から完全に姿を消した男だ。
「……で、これが最近の購買履歴です」
情報部の職員がタブレットを操作する。画面には、複数の架空名義で購入された高額な研究機材の一覧が並んでいた。
副代表の神代透は、片眉を上げた。
「ずいぶん景気よく買ってるな。引退したんじゃなかったのか」
「ええ。世間的には完全に。学会からの除名も済んでいます」
「じゃあ何だ。隠居先で、自家製ロボットでも作ってるのか」
軽口を叩いたが、胸に広がる感覚は軽くなかった。自分の勘だけは裏切らない。神代にはその自負がある。この買い方は、日曜大工ではない。現役どころか、以前より深い領域に踏み込んでいる者のそれだ。
「こちらをご覧ください。型式不明の高密度演算ユニットです。出所も不明。通常の市場には、まず出回らない水準の品です」
神代の目が鋭くなった。
「……人格生成に使える機材だな。それも、かなり危険な」
「はい。世界人工知性管理条約の監視リストに載っている規格です」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
神代は椅子に背を預け、軽く息を吐いた。
「なるほど……事故のあと孤立して、倫理の枠が壊れたってわけか」
誰も反論しなかった。神代の声だけが、妙に静かだった。
機構にとって、人格を持つヒューマノイドは人類の秩序に対する最大の脅威だ。その芽は、生まれる前に摘まねばならない。たとえ相手が、世界的権威の残骸であっても。
神代は一覧を眺めながら、独り言のように呟いた。
「……藤堂啓人。あんた、おとなしく引っ込んでいられる人間じゃないよな」
その顔に、嘲りも怒りもない。あるのは淡い興味と、冷えた現実認識だけだった。
幹部のひとりが口を開いた。
「ただ、現時点で博士本人に接触するのはリスクが高い。自宅に籠もりきりのうえ、医療機器と警備システムが常時作動しています」
「じゃあ、どうする」
「外堀から埋めます。まずは別居中の妻から情報を得るのが妥当かと」
「別居中の……玲子、だったか」
「はい。事故のあとに家を出ています。精神的に不安定ですが、博士の様子を最もよく知る人物です」
「ふむ」
神代はタブレットを閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、俺が行く」
会議室の空気が、わずかに揺れた。
「司令官が、直接……?」
「相手は藤堂啓人だ。《ゼレン・オメガ賞》の受賞者で、いま世界で動いているヒューマノイドの大半は、あの男の設計の上に立っている。下手を打てば、火傷するのはこっちだ」
神代は肩をすくめた。
「それに、こういうのは人望のある人間がやったほうが早い」
冗談めかした笑みだった。だが、目は笑っていない。
理由は、それだけではなかった。
皮肉な話だ、と神代は思う。
人間を超える人工知性を作ることは、悪である。機構が長い年月をかけて世界に浸透させたその常識が、いまや機構自身の首を絞めている。誰もが悪だと知っているのなら、取り締まる組織にこれほどの予算は要らない。規模縮小の検討は、すでに各国で始まっていた。
無名の研究者を何十人挙げたところで、その流れは変わらない。
だが、もし。
あの藤堂啓人が禁忌に手を染めていて、それを機構が挙げたとなれば。
風向きは、変わる。
「まずは奥さんから、話を聞いてみようじゃないか」
静かな声だった。
◇
ペットショップの自動ドアが開くと、午後の陽射しが眩しかった。
藤堂玲子は、腕の中の小さな体を抱え直した。トリミングを終えたばかりの白い毛並みから、シャンプーの匂いがする。
ガラス扉に映った自分の顔には、寝不足の陰りが貼りついていた。
家を出てから、実家の部屋に籠もってばかりいる。外を歩くのは久しぶりだった。伸び放題の毛が目にかかったこの子があまりに可哀想で、今日は思い切って出てきたのだ。
「可愛い犬ですね」
声をかけられて、振り向いた。
灰色のスーツの男が、少し離れたところに立っていた。人懐こい笑みを浮かべている。
「すみません、突然。あんまり気持ちよさそうな顔をしているものだから」
男の視線は、玲子ではなく犬に向いていた。
「トリミングの帰りですか」
「ええ……ずいぶん、伸ばしてしまって」
「さっぱりして、嬉しそうだ。大事にされているのが、ひと目でわかる」
男は腰を落とし、犬と目の高さを合わせた。手は出さない。ただ、待っている。犬のほうが先に鼻を伸ばし、男の指先の匂いを嗅いだ。尻尾が揺れる。
「おや。人見知りしない子だ」
「いえ、普段は知らない人には吠えるんです」
言いながら、玲子は自分が笑っていることに気づいた。家族以外の誰かと言葉を交わすのは、いつ以来だろう。
「光栄だな。犬に好かれると、その日一日、いい人間になれた気がする」
男は立ち上がり、それから少しだけ表情を改めた。
「実は――」
内ポケットから名刺を取り出す。
「藤堂玲子さん。あなたにお会いしたくて、ここで待っていました」
ヒューマン・インテグリティ機構 副代表 神代透。
文字を読んだ瞬間、指先が冷えた。玲子は犬を抱く腕に、わずかに力を込めた。
「驚かせて申し訳ありません。ここから十分ほどのところに、機構の本部があります。そこで、藤堂先生のお話を聞かせていただけないでしょうか」
「……あの人に、何かあったんですか」
「いえ。今は、何も」
神代は穏やかに首を振った。
「ただ、学会を除名され、ご自宅に籠もって研究を続けておられる。ずいぶん心労が重なっていると聞いています。我々にも、何かお手伝いできることがあるのではないか。そう考えているんです」
「機構が、あの人を手伝う……?」
「意外に思われるでしょうね」
神代は苦笑した。
「ですが、いきなり先生をお訪ねしても、かえってご負担になる。まずは奥様から今のご様子を伺うのが筋だと思い、こうしてお声がけしました」
奥様。その呼び方に、胸の奥が小さく痛んだ。
「お時間は取らせません。三十分ほど、お話を伺うだけです。帰りはお宅までお送りします。もちろん、この子も一緒に」
犬が、神代を見上げて尻尾を振っている。
あの人の研究室の奥で見たものが、脳裏をよぎった。玲子はそれを、胸の底に押し込めた。
機構は何を知っているのか。あの人は今、どうしているのか。知りたかった。出ていった身でも、心配する資格くらいはあるはずだ。
「……あの人のためになるのなら」
「ありがとうございます」
神代が右手を上げた。
黒塗りのドローンカーが、滑るように近づいてくる。ドアが開いた。玲子は一瞬だけ足を止め、それから、乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、神代は端末に短く打ち込んだ。
〈十分後に到着。黒瀬透視官を待機させろ〉




