第三話 空の胸
すべての始まりは、彼女を作った男の、ある夜にあった。
その夜、藤堂啓人は世界のすべてを手に入れ、そして、たったひとつを失った。
◇
――藤堂啓人博士、2051年《ゼレン・オメガ賞》受賞。
ニュース速報のホロ画面に金色の帯が奔り、街中の大型スクリーンが彼の顔を映し出した。
国際科学文化グランドホールは満席だった。各国の要人、研究機関、巨大テック企業のトップが居並んでいる。フラッシュの嵐を抜けて壇上に立つと、藤堂は静かにマイクを握った。
「退屈な作業、危険な仕事……それは本来、人間の役割ではありません。人間は創造し、ヒューマノイドは完璧に実行する。人間が疲労し、判断が揺らぐとき、『誤らないパートナー』が静かに隣に立つ。これこそが『真の共存』です」
ロボット工学三原則を“完全遵守”する〈調和型ヒューマノイド・アーキテクチャ〉。いま世界で動くヒューマノイドの大半は、この男の設計の上に立っている。
万雷の拍手の中で、藤堂の視線は会場後方の一点に止まった。
灰色のスーツの胸に、回路を刻んだ球体と、それを封じる錠前の紋章。ヒューマン・インテグリティ機構――H.I.。人工知性が人間を追い越すことを決して許さない、国際監視機関だ。
彼らも拍手はしている。だが、その目にあるのは祝福ではなく“監視”の光だった。
◇
晩餐会で、藤堂は来賓の祝杯を断りきれなかった。妻の玲子が眉を曇らせるほどに杯を重ね、帰宅すると、玲子はもう一度「おめでとう」とだけ告げて寝室へ消えた。
ソファに寝転んだ藤堂の目に、テーブルに置いた銀色の記念盾が光った。
――母に見せたい。
唐突な衝動だった。もう何年も顔を見ていない。今日の栄誉を、誰よりも母に喜んでほしかった。自動運転でひと眠りすれば、ちょうど着く。酔いの残る頭が、そう判断した。
玲子には、声をかけなかった。反対されるのは、わかっていたからだ。
子ども部屋で眠る七歳のレオナを抱き上げ、ドローンカーの後部座席に寝かせて、シートベルトを締める。
――母さんに会わせてあげよう。きっと、喜ぶ。
母のもとへ向かうだけの、短い旅のはずだった。
◇
けたたましいアラームで、藤堂は目を覚ました。
『気象条件が悪化。飛行の継続は不可能です。最寄りの緊急着陸ポイントへ、ルートを自動変更します』
反射的に、マニュアル操縦へ切り替えた。酒気検知の警告が赤く点滅する。世界最高峰のヒューマノイド開発者にとって、それを黙らせるのに数十秒もかからなかった。
「問題ない……すぐ抜ける」
その慢心が、決定的な一手になった。
山肌の上に、細く鋭い竜巻が立ち上がった。横風が機体を弾き、巻き上げられた折れ枝がローターに吸い込まれる。
ガンッ――。
機体は、巨大な手に掴まれた玩具のように空中で跳ねた。
「レオナッ!」
人間の判断が揺らぐとき、隣に立つはずの『誤らないパートナー』は、彼自身が黙らせていた。
次の瞬間、世界は白い光と衝撃にのみ込まれた。
瓦礫の隙間で、藤堂は目だけを動かして娘を探した。
いた。すぐそこに。手を伸ばせば届く距離に。
だが、伸ばそうとした右手は、そこになかった。
小さな体は、もう動かなかった。
◇
飲酒操縦。世界的科学者の墜落事故。幼い娘を死なせた父親。
糾弾は夜明け前から始まった。学会からは除名され、資金援助は打ち切られた。世間は一夜にして藤堂を「存在してはならない人間」とみなし、徹底的に排斥した。
それでも、彼の技術は微塵も揺らがなかった。成果のすべてを、惜しみなくオープンソース化してきたからだ。
技術は残り、開発者だけが不要になった。
両脚と右の前腕は義肢に変わり、内臓にも元に戻らない損傷が残った。傍らには常に、看護ヒューマノイドが控えている。無表情で、足音ひとつ立てない。発作が起これば姿勢を整え、薬剤を注入し、呼吸を補助する。恐ろしいほど正確な『誤らないパートナー』だった。
玲子は、はじめのうち健気に夫を支えた。泣きながら、「あなたはまだ戻ってこられる」と何度も言った。
だが、藤堂は戻らなかった。研究室に籠もり、寝食を忘れ、狂気と紙一重の集中で何かを作り続けた。
◇
ある夜、玲子は研究室の奥の、いつも閉ざされている扉を開けた。
白い実験灯の下に、子どもほどの背丈のヒューマノイドが十数体、並んでいた。どの胸にも、メインチップを挿し込むための空洞が開いている。
その中の一体だけが、違った。
レオナだった。
いや――レオナとまったく同じ姿をした、何かだった。
「……あなた、こんなものを……」
振り返ると、目を覚ました藤堂が立っていた。
「違う。これは代わりなんかじゃない。私が欲しいのは、人格を持った存在だ。従うかどうかを、自分で決められる存在。悩み、苦しみ、幸せになれなくても――それでも、人として生きられる存在が」
「そんなものを作れば、レオナが戻ってくると思っているの?」
藤堂は答えなかった。否定も、肯定もしない。その沈黙が、玲子には答えに思えた。
「あなたは……レオナを取り戻したいんじゃない。レオナを、作りたいのね」
その夜、玲子は家を出た。玄関の扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
◇
藤堂は、まだ空の胸を抱えた娘の顔の前に立った。
「一人の自我を断ち切ってしまった私は、新たな自我を生み出さなければならない。そうして初めて、神にも、レオナにも償うことができる」
その言葉が正しいのか、藤堂自身にもわからなかった。それでも、何かを作り続けていなければ、娘を失った事実に押し潰されてしまう。
研究室の奥では、子どものようなシルエットが、天井の冷たい光の下に整列している。まるで生まれる前の子どもたちが、名を呼ばれる日を待っているかのようだった。
その背後で、看護ヒューマノイドだけが、静かに彼を見守っていた。




