第二話 唯一の例外
神代透が黒瀬家を訪ねてきたのは、それから一週間後のことだった。
灰色のスーツに、襟のバッジ。病院で会ったときと同じ姿で、彼はリビングのいちばん奥、ハルトから最も遠い椅子を選んで座った。
テーブルを挟んで、父と母。ハルトは壁際に立ったまま、三人を眺めていた。
「まず、お詫びを」
神代は深く頭を下げた。
「病院では、ご子息を危険に晒しました。力を確かめるためとはいえ、許されることではない」
「……息子から聞いています」
父の声は硬かった。
「凶悪犯を、十五の子どもに近づけた。そんな組織に、息子を預けろと言うんですか」
「はい」
神代は顔を上げた。言い訳はしなかった。
「ヒューマン・インテグリティ機構のことは、ご存知かと思います」
知らない者はいない。世界人工知性管理条約のもと、人工知性が人間を追い越さぬよう監視する国際機関だ。
「我々の仕事は、もはや監視だけではありません。人格を持つ人工知性。その開発を密かに進める者を見つけ出し、捜査し、止める。そこまでが、現在の我々の権限です」
「それと息子に、何の関係が」
「隠す者は、嘘をつきます。記録を消し、言葉を取り繕う。機械の検査なら欺ける。ですが――」
神代の目が、初めてハルトに向いた。
「胸の奥に押し込めた野心や恐怖までは、消せない。それを視ることができるのは、世界でご子息だけです」
「この子は、病気なんです」
母が、震える声で割って入った。
「二十歳まで生きられるかどうかと、言われているんです。その残りの時間を、人の醜いところを覗く仕事に使わせるなんて」
「承知しています。そのうえで申し上げます」
神代の口調は変わらなかった。
「機構には、ご子息専用の住居と執務室を用意します。接触する人間は必要最小限。治療と検診も、機構が責任を持って引き継ぎます」
そこで、わずかに間を置いた。
「ご子息を救う、とは申しません。我々は彼の力を必要としている。それだけです。ただ、あの力が疎まれるのではなく、求められる場所は、ほかにないはずです」
父は長いあいだ黙っていた。
「……断ったら、どうなります」
「何も。ご子息は未成年です。ご両親の同意がなければ、この話はここで終わりです」
神代は立ち上がり、テーブルの端に一枚の書類を置いた。
「返事は急ぎません。決めるのは、ご家族です」
リビングを出るとき、神代はハルトの脇を通った。壁際に立つ少年から、きっちり1メートル以上の距離を取って。
「黒瀬くん。君自身の答えを、待っている」
◇
玄関の扉が閉まると、家の中は静まり返った。
最初に口を開いたのは、父だった。
「行かせない」
書類を裏返し、テーブルに伏せる。
「話にならん。あれは、お前を道具としか見ていない」
「そうよ」
母も頷いた。
「あなたは、ここにいればいいの。家族なんだから」
どちらの言葉にも、嘘はなかった。この距離では何も視えない。それでもわかる。十五年、この二人の子どもをやってきたのだ。
階段の上で、床板が小さく鳴った。弟と妹が、手すりの陰から覗いている。十三歳になった双子は、兄と目が合うと、慌てて顔を引っ込めた。
あの二人は、何も考えずに父さんと母さんの隣に座れる。
今さら羨むことでもない。ただの、事実だった。
黒瀬ハルトは、望まれて生まれた。
――それが、ひとりの男の夢を終わらせた。
父は、火星周回軌道上の国際監視宇宙ステーションの長期滞在クルーに選抜されていた。任期は十年。その出発を一か月後に控えて、母の妊娠に気づいた。十年も経てば、もう子どもを産めないかもしれない。夫の「かけら」が欲しくて、母は黙って子を望んだのだ。
父は、驚くほどあっさりと夢を手放した。世間は彼を良き父親と讃え、宇宙が彼を呼ぶことは二度となかった。
それでも、家には穏やかな笑い声が満ちていた。双子が生まれてからは、なおさらだった。
十歳の夏、この力が宿るまでは。
最初に流れ込んできたのは、父の感情だった。
――もし、あのとき、この子ができていなかったら。
母の中にも、影があった。夫の夢を奪ったのは自分の愛だという負い目。それはやがて「この子がいなければ」という形を帯びて、ハルトへ向かうようになった。
両親は、決して悪人ではない。四六時中そう思っているわけでもない。だからこそ、耐えがたかった。
「ハルト」
母が立ち上がり、歩み寄ってきた。引き留めようとして、手を伸ばす。
一歩。
――入った。
視界に、黒い渦が滲んだ。
――この子が、いなくなる。
――やっと、普通の家に戻れる。
――そんなことを思う私は、母親じゃない。
流れ込んできたのは、罪悪感だった。安堵してしまった自分を責める、真っ黒な罪悪感。
母は足を止めた。凍りついたような顔だった。視られた、とわかったのだ。
「……ごめんなさい。違うの、ハルト、私は」
「いいんだ」
ハルトは、わずかに微笑んだ。
「……父さんと母さん、両方の気持ちが一番よくわかるのは、俺だよ」
父が何か言いかけて、口を閉じた。その胸の奥にも同じものがあることを、ハルトは近づかなくても知っていた。
「離れたほうが、お互い楽なんだ」
責めているのではなかった。
反対してくれたのは、本当だ。安堵してしまったのも、本当だ。人間は、その両方を同時に抱えられる。五年間、嫌というほど視てきた。
どうせ誰とも心を通わせられず、部屋に閉じこもって終わる人生なら。
限られた相手とだけ接すれば済む場所のほうが、まだ生きやすい。
ハルトは伏せられた書類を表に返し、父の前へ、そっと押し戻した。
◇
機構の研究棟、七階。
奥にあるオフィス兼住居へ案内されるあいだ、すれ違う職員たちは決まって一歩、いや二歩以上の距離を空けた。視線だけが、背中にまとわりつく。
流れ込んではこない。それでも、わかる。恐れと、好奇だ。
与えられた肩書きは、心理透視官。
――また同じだ。
どこへ行っても、誰であっても、距離は縮まらない。そう思いながら、部屋のドアの前に立ったときだった。
「来たな、黒瀬ハルト」
廊下の奥から、ためらいのない足音が近づいてくる。
神代透だった。だが、様子が違う。上着を脱ぎ、ネクタイを緩め、どこか気楽そうに笑っている。そして何より、止まらない。
病院でも、家でも、決して越えなかった1メートルの線を、当たり前のような歩調で越えてくる。
思わず後ずさった。それより速く、神代は距離を詰めた。
――入った。
ハルトは身構えた。
だが、何も来ない。
怒りも、猜疑も、妬みも、自己顕示欲も。何ひとつ。
沈黙した湖面のように、何も揺れない。ハルトは呼吸を忘れた。
「副代表なんて肩書きだが、ここじゃ司令官と呼ばれることのほうが多い。まあ、好きに呼べ」
「……どうして、近づくんですか」
自分でも驚くほど、素直な声が出た。
「俺の力のことは、誰よりも知っているはずでしょう」
神代は眉を上げ、屈託なく笑った。
「初日に仲間の顔を見に来るのに、距離を取る理由があるか?」
「でも、これまでは」
「あれは勧誘だ。君には、視えたものじゃなく、自分の頭で決めてほしかった。それだけだ」
言葉が出なかった。力を知ったうえで、こんなふうに踏み込んでくる相手は、これまで一人もいなかった。
神代が手を差し出す。
「よろしくな、ハルト。どうだ、俺の悪巧みは視えるか」
「……いいえ。何も」
ハルトは、ゆっくりとその手を握り返した。温かかった。
「……こちらこそ」
神代は満足げに頷くと、「じゃあ、邪魔したな」と軽く手を振り、1メートルの外へすっと離れた。
あれほど気安く踏み込んできたくせに、その後は一度として、内側に入ってこようとはしなかった。その距離の取り方が、ハルトには不思議と心地よかった。
神代透は、ハルトにとって、負の感情が流れ込まなかった唯一の人間になった。
◇
それから、二年が過ぎた。ハルトは心理透視官として働いた。
人格を持つヒューマノイドの開発を試みた者。人工知性に感情を与えようとした者。近づけば、彼らが胸の奥に隠した野心も恐怖も、一瞬で視えた。ハルトの判別によって拘束された研究者と技術者は、数十人にのぼる。
後ろ暗いものが何も視えず、潔白を示せた研究者も、わずかにいた。それが、せめてもの救いだった。
人を裁きたかったわけではない。
ただ、ここでなら生きていける。そう思っていた。
ハルトは、まだ知らない。
あの日、廊下で「例外」が生まれた瞬間を、機構が記録していたことを。
やがて彼の脳を利用する計画が立ち上がったとき、機構が迷わず神代に命じることを。
――黒瀬ハルトとの交友を維持しろ。
――気づかれぬよう、監視を続けろ。
心を許した唯一の人間が、自分を守る役目と同時に、自分を観察する役目を負わされることを。




