第一話 1メートルの距離
第一章 彼女が生まれた日
十五歳の冬。
定期検診に訪れた病院の、人けのない廊下。長椅子に座っていたハルトは、そこでその男と出会った。
「黒瀬くんだね。怪しい者ではない。少し、話をいいかね」
灰色のスーツの男だった。襟には、回路を刻んだ球体とそれを封じる錠前をあしらったバッジが光っている。
声をかけてきたのは、数歩離れた場所からだ。その斜め前には、もう一人、力なくうなだれた男が無言で立っている。
普通の訪問ではない。二人のまとう空気だけで、ハルトはそう悟った。
思わず立ち上がる。だが、距離があるせいか、逃げようという気は起きなかった。
「怖がらせるつもりはない。少し話をするだけだ。すまないが、もう一度そこに座ってもらえるかな」
言われるまま、長椅子に腰を下ろす。
スーツの男は、ペン型の器具でうなだれた男の背中を突いた。
「グゥエッ」
男は呻き声を上げ、ハルトに迫ってきた。
一歩。
――入った。
視界が、別の世界に切り替わった。
暗い路地。引きずり込まれる誰か。声にならない悲鳴。肉の裂ける音。
笑っている――この男が。
躊躇も、罪悪感もない。殺したい。壊したい。黙らせたい。その欲求だけが燃え盛っている。
――ぶち殺してやる。全部、全部、ぐちゃぐちゃにして黙らせてやる。こんな世界、知るものか。
「来るなッ!!」
ハルトは長椅子から転げ落ちるように跳び退き、廊下の床に崩れ落ちた。
剥き出しの殺意が、頭蓋の内側を埋めていく。胸が締めつけられ、息ができない。
男の腕が持ち上がる。
その腰に巻かれていた細いロープが、一瞬で張った。スーツの男がロープを力強く引き、器具を背中に押し当てる。
バチッ、と小さな音がした。
男の全身の筋肉が意思とは無関係に収縮し、糸が切れたように床へ突っ伏した。
静かになった廊下で、スーツの男がハルトを見た。
「……なるほど。本当に視えるんだな」
ハルトは荒い息を繰り返しながら、壁を掴んで立ち上がった。足が震え、視界が波打つ。殺意が流れ込んできたのは、初めてだった。
「……殺されるかと、思った……」
掠れた声に、男は軽く首を振った。
「脅かすような真似をして、本当に申し訳ない。君の力を確かめるために、あの男を連れてきた。君に危害を加えさせるつもりはなかったんだ」
ハルトは男を睨んだ。怒りでも恐怖でもない。ただ、理解できなかった。
「なぜ……こんなことをするんだ」
男はゆっくりと答えた。
「我々は、人間の奥底を暴く君の力に興味を持っている。誰も言葉にしない本音――その暗部が視える力に。黒瀬くん。君が疎ましく思っているそれは、才能だ。その才能を、正しい場所で使わないか。我々なら、君が望む生活を提供できる」
ハルトは息を呑んだ。
これまで浴びてきた“救いのふりをした優しさ”とは違う。この男は、助けるなどとは一言も言わない。ただ、ハルトを必要としている。
そして男は、一度も1メートルの内側に入ってこなかった。
「……この嫌な力が、役に立つ?」
ハルトは唾を飲み込んだ。
「……どういうことだ」
男の口元がわずかに動いた。笑みというより、条件が整ったことを確認する動作だった。
「十分だ。改めて連絡する」
スーツの男は、離れた長椅子の端に名刺を置いた。手渡そうとはしない。
倒れた男に手錠をかけ、右手を上げる。どこからか部下が四人現れ、男をストレッチャーに乗せた。一行は、何事もなかったように立ち去った。
ハルトは、残された名刺を手に取った。
ヒューマン・インテグリティ機構 副代表 神代透
◇
その夜、ハルトは自分の部屋で、名刺を何度も裏返した。
あれは、十歳の夏だった。
友人家族と出かけた海で、ハルトは濡れた岩場に足を滑らせ、頭を強く打った。意識を失ったまま波にさらわれ、救出されたのは二時間後だった。病院に運ばれ、目を覚ましたのは数日後。その日を境に、ハルトに奇妙なことが起こり始めた。
なぜ、人の心の底が視えるのか。
答えは、病院で告げられた。事故の後遺症で脳に異常なタンパク質が蓄積し、神経細胞を蝕んでいるという。その異常な脳の働きが、通常の共感とはまったく異なる力を生んだ。
他者の負の感情を覗く力。
相手が半径1メートル以内に踏み込んだ瞬間、その胸の奥に押し込められた憎しみ、嫉妬、恐怖、怒り、罪悪感が黒い渦となり、映像として脳に直接流れ込んでくる。
視えるのは、感情の渦と、その芯にある断片だけだ。ひとつの言葉。ひとつの光景。相手が何を思い、なぜそう感じているのか、その全部まではわからない。
そして、眠っているあいだは、当たり前だが何も感じない。それが、ハルトに許された唯一の休息だった。
神経細胞の変異は進行性で、治療法はない。
二十歳まで生きられるかどうか。それが、ハルトに下された宣告だった。
その力のことを知ってから、両親の愛情は少しずつ、八歳の双子へと傾いていった。
無理もない、とハルトは思った。近づけば心の底を覗かれてしまう子どもと、何も知らずに抱きついてくる子どもたち。どちらのそばが安らぐかは、考えるまでもない。
頭では、わかっていた。
それでも、やりきれなさは芽生えた。弟と妹に向けられる両親の笑顔を、1メートルの外から眺めていると、どうにもいたたまれなかった。
人のぬくもりを感じるはずの距離が、彼にとっては、一瞬で心が凍る距離になった。
笑い合おうと誰かが近づいてくるたび、その内側の影が牙を剥く。誰も悪くない。人間なら誰もが抱えている「見せない本音」にすぎない。
だが、幼いハルトには、それがあまりにも重かった。
それでも、彼は明るく振る舞った。
俯いて人を避けていると、教師やカウンセラー、クラスのお節介焼きたちがすぐに寄ってくるからだ。口では「助けてあげる」「仲間になろう」と言う。だが、憐れむふりの奥で、彼らは見下している。助けてあげた私って偉いでしょ――その甘ったるい自己陶酔が、真っ先に脳へ突き刺さる。
それなら、無理にでも騒がしく笑って、「問題なし」を演じているほうがずっとましだった。誰にも踏み込ませないための、彼なりの必死の防壁だった。
それでも、いつかは気づかれる。
彼の力を知った途端、善人ぶっていた人々は皆、同じ顔をして離れていった。
理解できないものを怖れて避けるときの顔だった。
学校へは、行かなくなった。
――君が疎ましく思っているそれは、才能だ。
あの男の声が、耳に残っている。
この力を、疎まなかった人間はいない。憐れむか、怖がるか、そのどちらかだった。
ハルトは、名刺を捨てられなかった。
あの男は、最後まで1メートルの内側に入ってこなかった。
――少なくとも、この日は。
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