↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/22

第十八話 追わされる者

 午前四時。世界の色が、いっとき止まったような時刻だった。

 眼下には、海沿いの曲がりくねった道が、細いリボンのように続いている。ドローンカーは薄く漂う霧を抜け、雲の上を滑っていった。遥か下の海面で、月の残光が揺れている。

 そのときだった。

 視界が歪んだ。音が遠ざかり、世界が薄い膜の向こう側へ退いていく。

「っ……」

 ハルトは頭を押さえた。膝の上のバッグが、床に落ちる。頭の奥が締めつけられ、呼吸が浅くなっていく。

 隣の席のレオナが即座に振り向き、一瞬で状況を見て取った。

「ハルト。呼吸が浅い。……店番ロボットさん、速度を落として」

 穏やかだが、迷いのない声だった。

 運転席の店番ロボットが推進を緩め、機体は滑らかにホバリングへ移る。

「おう、嬢ちゃん。わかった。ハルト君、大丈夫かい」

 田舎の親父のような、温かい声だった。

 レオナは手を伸ばしかけて、止めた。指先が、わずかに震える。

 数時間前の声が、蘇っていた。

 触んな。

 怯えきっているときのハルトには、触れられること自体が引き金になる。それは、もう知っている。

 だが、今回は違った。ハルトの瞳は焦点を失い、意識が遠のいている。

 レオナは、できる限り静かに、指先だけでハルトの腕に触れた。

 体がわずかに震えた。だが、拒まれはしなかった。代わりに、掠れた声が漏れる。

「ごめん……ちょっと、はしゃぎすぎた……」

「発作。ゆっくり吸って。体を楽にして。抗痙攣薬を入れる」

 手際よく薬剤を用意しながら、呼吸と鼓動を読み取っていく。ハルトは荒い息を整えながら、かすかに目を上げた。

「レオナがそばにいると……少し、落ち着く……」

 機械に向ける言葉ではなかった。

「ハルト。この先、もっと体に負担のかかる場面がある。だから……」

 言いかけて、口を閉ざした。

 この少年に残された時間は、長くない。その事実は、言葉にした途端、痛みに変わってしまう。

「大丈夫。俺はまだ生きるよ。レオナにも、まだ迷惑をかけられる」

 ハルトは目を細め、弱々しいが温かい笑みを浮かべた。

 私は、ハルトを守るだけの存在ではない。ハルトといることで、私のほうが変わっている。

「ハルト君、大丈夫かねえ。わしも心配じゃわい」

 店番ロボットの声に、レオナは小さく頷いた。

「ありがとう、店番ロボットさん。ゆっくり出して」

「おう、任せとき」

 レオナはハルトを後部座席に横たえ、毛布を掛け、バイタルの監視を続けた。窓の外を風がかすめ、海の匂いがかすかに入り込んでくる。東の空の縁が、わずかに白み始めていた。

 追ってくる影は、まだ消えていない。

 それでもこのひととき、逃避行は静かな安らぎに包まれていた。


   ◇


 午前五時三十分。

 現地から報告が入った。コンビニで休憩していたトラック運転手の証言だ。午前一時過ぎ、町外れの自動販売機の近くで、少年とヒューマノイドを見たという。少年は転んで怪我をし、ヒューマノイドが手当てをしていた。

 時刻。人数。状況。すべてが符合する。

 神代は即座に、捜査員の増派を指示した。

「目撃から四時間あまり。もともとの体力に加えて、怪我までしている。歩いてはいない。必ず、そこで乗り物を手に入れている。車か、ドローンカーの盗難だ。だが、ドローンカーにはID認証がある。となれば、旧式のガソリン車しかない。盗難の届け、道路の走行記録、不審車の目撃。すべて洗え」

 部下たちが散っていく。

 報告を待つあいだ、胸の底に重い塊が沈んでいった。

 ハルトは、十七歳の少年だ。保護の対象として扱われてきた。同時に、機構の未来を支える鍵でもあった。

 生きたまま脳を摘出し、機械と繋ぎ、思想監査装置として機構に組み込む。そのための計画だ。

 それを、悟られた。

 ハルトを無傷で確保できなければ、失態では済まない。反逆の嫌疑すら、かけられる。

 だが、捕らえたところで、救われるわけでもなかった。

 ハルトが戻れば、なぜ逃げたのかが調べられる。自分が心を読まれたこと。それが、この逃走の発端だったこと。すべてが明るみに出る。

 逃がしても、破滅する。捕らえても、破滅する。どちらに転んでも、自分に先はなかった。

 背筋に、冷たい鋼の線が走った。

 しかし、このまま逃がすわけには行かなかった。


 二年前、ハルトを機構に誘ったときのことを思い出す。

 あのとき俺は、十五歳の少年にこう言った。君自身の答えを待っている、と。力で視えたものに頼らず、自分の頭で考えて決めろ。そういう意味だった。

 ハルトは、そのとおりにした。自分の頭で考え、機構から逃げると決めた。

 皮肉な話だ。そうするように教えたのは、ほかでもない自分なのだから。

 神代は、苦く笑った。

 いつのまにか、変わっている。追う理由が、機構のためから、自分が生き延びるためへと。

 端末が震えた。

 目撃地点近くで旧型ガソリン車の盗難が一件。さらに、沿道の防犯カメラに、少年の体格と一致する人物が助手席に座る姿が映っていた。

 神代は立ち上がった。

「旧型車は速度が出ない。長くも走れない。いまどき、ガソリンを入れられる場所は数えるほどだ。経路上の給油所をすべて当たれ」

 そう命じながら、別のものが胸に巣食っていた。

 追い詰められているのは、ハルトではなく、自分のほうではないか。

 藤堂啓人が遺したものを、見落としていた。地下室で見下ろした、あの亡骸の顔が脳裏に焼きついている。穏やかな顔だった。後悔でも、恐怖でもない。あれは、何かをやり遂げた者の顔ではなかったか。

 追っているつもりで、追わされている。あのヒューマノイドは、こちらの判断をすべて織り込んだうえで、動いているのではないか。

 思考を振り払うように、神代は命令を重ねた。

「通行車両の照合。周辺への聞き込み。道路封鎖の準備。ただし、黒瀬に危害を加えるな。繰り返す。黒瀬に、危害を加えるな」

 なぜその一言だけを繰り返すのか、自分でも不思議だった。

 神代は、静かに息を吐いた。

 ハルトを捕らえなければならない。あの看護ヒューマノイドを、破壊しなければならない。

 生き延びるために。

 そう、自分に言い聞かせた。それ以外の理由があることを、認めるわけにはいかなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。