第十八話 追わされる者
午前四時。世界の色が、いっとき止まったような時刻だった。
眼下には、海沿いの曲がりくねった道が、細いリボンのように続いている。ドローンカーは薄く漂う霧を抜け、雲の上を滑っていった。遥か下の海面で、月の残光が揺れている。
そのときだった。
視界が歪んだ。音が遠ざかり、世界が薄い膜の向こう側へ退いていく。
「っ……」
ハルトは頭を押さえた。膝の上のバッグが、床に落ちる。頭の奥が締めつけられ、呼吸が浅くなっていく。
隣の席のレオナが即座に振り向き、一瞬で状況を見て取った。
「ハルト。呼吸が浅い。……店番ロボットさん、速度を落として」
穏やかだが、迷いのない声だった。
運転席の店番ロボットが推進を緩め、機体は滑らかにホバリングへ移る。
「おう、嬢ちゃん。わかった。ハルト君、大丈夫かい」
田舎の親父のような、温かい声だった。
レオナは手を伸ばしかけて、止めた。指先が、わずかに震える。
数時間前の声が、蘇っていた。
触んな。
怯えきっているときのハルトには、触れられること自体が引き金になる。それは、もう知っている。
だが、今回は違った。ハルトの瞳は焦点を失い、意識が遠のいている。
レオナは、できる限り静かに、指先だけでハルトの腕に触れた。
体がわずかに震えた。だが、拒まれはしなかった。代わりに、掠れた声が漏れる。
「ごめん……ちょっと、はしゃぎすぎた……」
「発作。ゆっくり吸って。体を楽にして。抗痙攣薬を入れる」
手際よく薬剤を用意しながら、呼吸と鼓動を読み取っていく。ハルトは荒い息を整えながら、かすかに目を上げた。
「レオナがそばにいると……少し、落ち着く……」
機械に向ける言葉ではなかった。
「ハルト。この先、もっと体に負担のかかる場面がある。だから……」
言いかけて、口を閉ざした。
この少年に残された時間は、長くない。その事実は、言葉にした途端、痛みに変わってしまう。
「大丈夫。俺はまだ生きるよ。レオナにも、まだ迷惑をかけられる」
ハルトは目を細め、弱々しいが温かい笑みを浮かべた。
私は、ハルトを守るだけの存在ではない。ハルトといることで、私のほうが変わっている。
「ハルト君、大丈夫かねえ。わしも心配じゃわい」
店番ロボットの声に、レオナは小さく頷いた。
「ありがとう、店番ロボットさん。ゆっくり出して」
「おう、任せとき」
レオナはハルトを後部座席に横たえ、毛布を掛け、バイタルの監視を続けた。窓の外を風がかすめ、海の匂いがかすかに入り込んでくる。東の空の縁が、わずかに白み始めていた。
追ってくる影は、まだ消えていない。
それでもこのひととき、逃避行は静かな安らぎに包まれていた。
◇
午前五時三十分。
現地から報告が入った。コンビニで休憩していたトラック運転手の証言だ。午前一時過ぎ、町外れの自動販売機の近くで、少年とヒューマノイドを見たという。少年は転んで怪我をし、ヒューマノイドが手当てをしていた。
時刻。人数。状況。すべてが符合する。
神代は即座に、捜査員の増派を指示した。
「目撃から四時間あまり。もともとの体力に加えて、怪我までしている。歩いてはいない。必ず、そこで乗り物を手に入れている。車か、ドローンカーの盗難だ。だが、ドローンカーにはID認証がある。となれば、旧式のガソリン車しかない。盗難の届け、道路の走行記録、不審車の目撃。すべて洗え」
部下たちが散っていく。
報告を待つあいだ、胸の底に重い塊が沈んでいった。
ハルトは、十七歳の少年だ。保護の対象として扱われてきた。同時に、機構の未来を支える鍵でもあった。
生きたまま脳を摘出し、機械と繋ぎ、思想監査装置として機構に組み込む。そのための計画だ。
それを、悟られた。
ハルトを無傷で確保できなければ、失態では済まない。反逆の嫌疑すら、かけられる。
だが、捕らえたところで、救われるわけでもなかった。
ハルトが戻れば、なぜ逃げたのかが調べられる。自分が心を読まれたこと。それが、この逃走の発端だったこと。すべてが明るみに出る。
逃がしても、破滅する。捕らえても、破滅する。どちらに転んでも、自分に先はなかった。
背筋に、冷たい鋼の線が走った。
しかし、このまま逃がすわけには行かなかった。
二年前、ハルトを機構に誘ったときのことを思い出す。
あのとき俺は、十五歳の少年にこう言った。君自身の答えを待っている、と。力で視えたものに頼らず、自分の頭で考えて決めろ。そういう意味だった。
ハルトは、そのとおりにした。自分の頭で考え、機構から逃げると決めた。
皮肉な話だ。そうするように教えたのは、ほかでもない自分なのだから。
神代は、苦く笑った。
いつのまにか、変わっている。追う理由が、機構のためから、自分が生き延びるためへと。
端末が震えた。
目撃地点近くで旧型ガソリン車の盗難が一件。さらに、沿道の防犯カメラに、少年の体格と一致する人物が助手席に座る姿が映っていた。
神代は立ち上がった。
「旧型車は速度が出ない。長くも走れない。いまどき、ガソリンを入れられる場所は数えるほどだ。経路上の給油所をすべて当たれ」
そう命じながら、別のものが胸に巣食っていた。
追い詰められているのは、ハルトではなく、自分のほうではないか。
藤堂啓人が遺したものを、見落としていた。地下室で見下ろした、あの亡骸の顔が脳裏に焼きついている。穏やかな顔だった。後悔でも、恐怖でもない。あれは、何かをやり遂げた者の顔ではなかったか。
追っているつもりで、追わされている。あのヒューマノイドは、こちらの判断をすべて織り込んだうえで、動いているのではないか。
思考を振り払うように、神代は命令を重ねた。
「通行車両の照合。周辺への聞き込み。道路封鎖の準備。ただし、黒瀬に危害を加えるな。繰り返す。黒瀬に、危害を加えるな」
なぜその一言だけを繰り返すのか、自分でも不思議だった。
神代は、静かに息を吐いた。
ハルトを捕らえなければならない。あの看護ヒューマノイドを、破壊しなければならない。
生き延びるために。
そう、自分に言い聞かせた。それ以外の理由があることを、認めるわけにはいかなかった。




