第十七話 北へ向かう光点
午前三時。
機構の地下、生体モニター室。定時の確認に立った医療班の当直は、画面を三度見返した。
脈拍、体温、呼吸。すべて正常。
異常なのは、位置情報だけだった。
黒瀬透視官の現在地が、北極圏へ向かって猛烈な速さで移動している。
誤作動を疑い、ログを何度も確かめた。だが数値は冷酷に更新され続ける。背筋を冷たいものでなぞられたような感覚のまま、彼は七階の詰め所を呼び出した。
応答はない。
宿直の警備員を七階へ向かわせる。返ってきた報告は、決定的だった。
「黒瀬透視官、部屋にいません。看護ヒューマノイドも消えています」
扉を開けた部屋は、人の気配をすべて削ぎ落としたように静まり返っていた。
館内は騒然となった。当直の全員が捜索に駆り出され、廊下、搬入口、医療室、立ち入り制限区画と、あらゆる場所に散っていく。
数分後、ロビーから切迫した声が入った。
「警備員が眠らされています! 玄関のロックが、内側から解除されています!」
そして、駐車場を確認した職員が、最後の一報をもたらした。
「バイクが一台、消えています!」
黒瀬ハルトは看護ヒューマノイドを伴い、夜の街へ出ていったのだ。
◇
午前三時三十分。
神代のもとに、緊急連絡が入った。報告する声は震えていた。
神代は短く応じ、次々と指示を出した。
「館内のカメラとセンサーの記録を、時系列で洗え。黒瀬の生体モニターと照合しろ。消えたバイクの行き先を、交通網のデータで追え。周辺の道路、高速、離着陸場に警戒を敷け。武器は使うな」
声は冷静で、抑揚がなかった。だが、その目には鋭い光が宿っている。
「発見した場合は、黒瀬透視官の生命を最優先にしろ。いいな」
「了解しました」
神代はすぐに、ハルト本人へ回線を繋いだ。繋がらない。ネットワークに接続されていません、という無機質な自動応答が返ってくるだけだった。
看護ヒューマノイドの集音記録も確かめた。聞こえるのは、砂を噛むような雑音だけだ。
焦りと苛立ちと、それとは別の何かが、胸の底に混ざり合って沈んでいく。
◇
午前三時四十五分。
神代は本部に着いた。騒然とする廊下を、歩調ひとつ変えずに進む。行き交う職員たちが、無言で左右に道を開けた。
その足取りとは裏腹に、脳裏には昨日の出来事が蘇っていた。
自分の、軽率さ。
手帳見たさに、あいつのすぐそばまで踏み込んだ。相手は、人の負の感情を読む人間だというのに。
あのとき、胸にあったもの。
ハルトの脳を生きたまま摘出し、装置に接続して、永続するシステムにする。公表されていない極秘の計画だ。知る者は限られている。
それを、ハルトが視たのだとしたら。
すべての辻褄が合う。逃げた理由。行動の急さ。そして、あの笑顔。
神代は唇を噛んだ。
ハルトが真実に辿り着いたのなら、原因が自分にあることも、いずれ知れる。
あの力を永続させるために、機構は研究にも設備にも、莫大な予算を注ぎ込んできた。地位を失うだけでは済まない。監視を任された者として、確実に処分される。
消されることさえ、あり得る。
だからこそ、見つけ出さなければならなかった。
情報指令室に入り、並んだ画面を睨む。指示が飛び、端末の光が走り、靴音が響いている。
ハルトの認証記録は、空港でチャーター機と買い物に使われたのを最後に途切れていた。位置情報は、北極圏へ向かう機上を示している。
鎮静ガス。眠らされた二人の警備員。争った形跡はない。見事なまでに静かな逃走だった。
ハルトに、そんな知識も手際もあるはずがない。
では、あいつが「レオナ」と呼ぶ看護ヒューマノイドが、機会を窺っていたのか。
手帳を覗いたあの瞬間に、ハルトが目を覚ましたこと。あれも、仕組まれていたのか。いや、そもそも眠っているハルトの足元に手帳が落ちたこと自体が、計画だったのではないか。
神代は息を吐いた。
あの少年は十七歳。病に侵され、命は長くない。だがその力は、使い方ひとつで世界の権力の形を変える。だから機構は、手放さない。決して。
背後の職員に告げる。
「捜索を、地上だけでなく空域にも広げろ。海上の航路も照会をかけろ。周辺の自治体と管制局に通知。ただし、情報は伏せておけ。外に漏らすな。これは内部で処理する」
返事が重なり、人が動き出す。
神代は画面に目を戻した。昨日の、ハルトの顔がよぎる。穏やかな笑み。あれは、仮面だったのだ。
このまま逃がすわけにはいかない。どんな理由があろうと。
◇
機体は、管制の呼びかけに応じていなかった。
民間機とはいえ、このまま他国の領空に入れば、迎撃の対象になる。
ここまでの逃走には、明らかに計画性がある。だがハルトには、航空路の知識も、軍事空域を見分ける判断力もない。では、誰が航路を選んだのか。
その疑問に行き当たった途端、ぞっとするものが背を走った。
チャーター機には、緊急遠隔操作の仕組みが載っているはずだ。乗っ取りへの対策として、搭載が義務づけられている。
神代は即座に命じ、運航会社に機密任務として着陸誘導を要請させた。三十分後に最寄りの空港へ降ろせる、との返答だった。現地の機構員も、すでに配置についている。
時間だけが、胃を削るように過ぎていった。指先が、無意識に机を叩いていた。
◇
午前四時二十五分。
現地からの映像が、大型モニターに映し出された。
着陸してくる機体。現地の監視員が、息を呑む。
ドアが、開いている。
神代は画面に顔を寄せた。途中で降りたのか。どこで。
ハルトの位置情報は、依然として機内を示している。
着陸後、内部の確認が入った。緊急脱出用のスーツが、二着なくなっていた。
ハルトにあれが扱えるとは思えない。ヒューマノイドの関与は、もはや疑いようがなかった。
次の報告が、さらに神代の喉を締め上げた。
看護ヒューマノイドのメインモジュールが機体の制御装置に接続され、黒瀬ハルトの生体データを送信し続けていたというのだ。
喉の奥が、焼けるように熱くなった。
ヒューマノイドが、自分でやったというのか。
もしそうなら、藤堂啓人は、人格を完成させていたことになる。そして、あの査察でただ一体だけ破壊を免れた機体に、それを仕込んでいた。
あり得るのか。本当に。
検査は通したはずだ。感情値の測定も。それを、すり抜けたというのか。
藤堂の死の意味が、反転する。
心を覗かれれば逃げ切れない。そう悟って死を選んだのだと、思っていた。違う。あの男が恐れたのは、自分の罪が暴かれることではない。あの看護ユニットの中身を、知られることだったのではないか。
ぞくりとした。
そして、焼くには惜しいと言ってあれを残し、ハルトに贈ったのは、ほかでもない自分だ。
もしこれが真実なら、失態はハルトを逃がしたことだけではない。人格を持つヒューマノイドを、世に放ったことになる。機構の理念そのものを、根底から覆す事態だ。
破壊しなければ。
思考の底で、声が囁いた。
神代は深く息を吐き、切り替えた。
「どこで降りたのか。どちらへ向かったのか。離陸までの足取りを、もう一度洗え」
部下が即座に報告する。
「空港で、数日分の食料と衣服を購入しています」
「どんな服だ」
「薄手の黒いジャケットです」
「なら、北へ行く気はない。暖かいところへ向かっている」
神代は立ち上がった。
「黒瀬の体力と発作を考えれば、野山を歩くような移動は無理だ。離陸してまもなく降りたとすれば、いちばん近い街へ出る。少年一人と、ヒューマノイド一体。周辺の監視網に照会をかけろ」
命令が次々と飛び、部下たちが動き出す。
神代は、窓の外を見上げた。夜明け前の空が、薄紫の闇から少しずつ色を変えていく。
輪は、狭まりつつある。
だが、あのヒューマノイドの意図は、依然として見えなかった。
手帳を落とし、ハルトを目覚めさせ、こちらの腹の底を読ませた。北へ向かうと見せかけて、別の方角へ消えた。
あれは、俺を翻弄している。
だが、それにも限りがある。
地上で使える移動手段は多くない。必ずどこかで、補給か乗り換えが要る。そこを押さえればいい。
追跡網の再構築。通行車両の照合。周辺への聞き込み。道路封鎖の準備。命令を重ねながら、ひとつだけは繰り返した。黒瀬には、傷ひとつ付けるな。
端末が震えた。追跡網が、次の地点を示している。
神代は動き出した。夜が明ける前に、すべてを終わらせるつもりで。




