第十六話 初めての旅行
ハルトは街へ向かって歩きながら、ぼんやりと星空を見上げていた。
「……なんかさ」
「なに?」
「逃げてるのに、こうして歩いてると……普通の旅行みたいだな」
隣を歩くレオナが、かすかに頷いた。それが彼女なりの、楽しいとか嬉しいとかの表し方なのだろう。
「普通の旅行、したことあるの?」
「ねえよ。ガキの頃の家族旅行くらいだ」
「じゃあ、これが初めての旅行だね」
「逃亡旅行なんて、ろくでもないけどな」
そう言いながらも、ハルトは少しだけ楽しそうだった。レオナはその揺らぎを、データとして刻み込む。恐怖の底にいても、こういう感情が湧いてくる。それが人間らしさであり、生きている証拠なのだろう。
自動販売機の明かりが近づいてきた。
「自販機か。あのジュース、飲んでみたいな」
「待って。電子マネーは駄目。居場所が知られる」
「それはそうだな」
そう答えた、次の瞬間だった。
景色が、ひっくり返った。
道のわずかな段差に、足を取られたのだ。体が後ろへ倒れていく。星空が、ゆっくりと回る。
同じ光景を、知っている。
七年前の海辺。濡れた岩場。あのときも、空だけが時間を引き延ばされたように、ゆっくりと回っていた。
衝撃。鈍い音。
回っていた景色が、そこで断ち切られた。
呼吸が乱れる。後頭部が熱い。道路に、血が広がっていく。
吐き気がこみ上げた。機構に捕まる恐怖ではない。忘れかけていた、あの事故の直後の感覚が、一気に蘇ってきたのだ。
「く、くそ……っ」
「ハルト!」
レオナが手を伸ばす。
ハルトは反射的に、全身をこわばらせた。
「触んな!」
あたりの静けさを裂くような声だった。
レオナは、ぴたりと動きを止めた。
判断ではない。恐怖からの反射だ。そう理解していても、胸の奥に、一瞬だけ熱い痛みが走った。
自分の声の強さに、ハルト自身が気づいた。しばらく黙り込み、やがて肩を落とす。
「……すまん。お前が近づいたって、何も流れ込んでくるはずがないのに」
「なんとなく、わかる」
「……なんだよ、なんとなくって。俺の中身まで覗いてんのかよ」
「脈拍と筋肉の反応は読める。それだけ」
レオナは膝をつき、今度はゆっくりと手を伸ばした。ハルトは、もう拒まなかった。
傷口を確かめ、消毒し、手早く縫合する。
「ここでできる処置は、これくらい。血圧は少し高いけど、瞳孔も酸素飽和度も問題ない。ただ、私にCTの機能はないから、頭蓋の中まではわからない。監視は続ける」
そう言ってから、付け加えた。
「何なら、ドリルで頭に穴を開けて、直接……」
右手の中指が、ドリルの形に変わった。それが、ゆっくりとハルトのほうへ向く。
ハルトは顔を引きつらせて、後ずさった。
「ここは、私が学んだ講座では、『殺す気か!』と突っ込むところ」
「なんでやねん!」
「ほう……そう突っ込むのね。勉強になった」
ハルトは目を伏せ、深く息を吐いた。
「……悪かったよ。怒鳴って」
「大丈夫。怒鳴られるの、嫌じゃない。私も、対人関係を学習中だから」
「はあ……?」
意味がわからず眉をひそめたが、レオナの目はまっすぐで、茶化す気にはなれなかった。
「その怪我で、歩かせるわけにはいかないね。仕方ない。持ち主には申し訳ないけど……というか、最初からそのつもりだったけど」
レオナは路上に停めてある旧型のガソリン車に近づき、あっさりとドアを解錠した。ハンドルの下に頭を突っ込んで何かを操作すると、エンジンが目を覚ます。
「お前、それも機構から吸い取ったのか」
「二十年前の窃盗団。手口が、丁寧に保存されてた」
レオナは運転席のシートを引き寄せながら、付け加えた。
「取り締まる側は、取り締まったものを、全部記録している」
「予定とは少し違うけど、これで移動しよう。この型はネットワークに繋がっていないから、しばらくは足がつかない」
レオナがハンドルを握り、ハルトは助手席に座った。アクセルを踏み込むと、街の灯りがゆっくりと後ろへ流れていく。
◇
深夜二時三十分。
レオナは沿道の監視システムに入り込み、安全な経路を探しながら、ふと口を開いた。
「ハルトは……どうして、負の感情だけが視えるようになったんだろう」
「は?」
ハルトが、ゆっくりとこちらを向いた。
踏んではいけない場所だった。
「ごめん。人間の人格形成について考えていて、疑問に思っただけ」
「『だけ』って言うなよ」
低い声だった。怒りというより、警戒が跳ね上がっている。レオナはそれを読み取った。
「そんなこと訊いて、これを治してくれるのか」
「それは、データが足りない」
「データが揃えば、治るのか」
レオナは黙った。
たとえ治療のためであっても、過去を掘り返されることは、この少年には苦痛なのだ。安易な同情も、分析も、踏み込みと感じる。
「ごめん」
レオナはハルトのほうへ顔を向け、まっすぐ目を見て、頭を下げた。
ハルトの脈が、一拍だけ跳ねた。それから、我に返ったように声を上げる。
「おい。前見て運転しろ。危ないだろ」
「大丈夫。ここがヒューマノイドの良いところ。後ろ向きでも運転できる。何なら、見せようか」
「結構です! ……というか……お前ってさ」
「なに?」
「なんでそんなに、俺のことを気にかけて、ここまでしてくれるんだよ。命を守れって命令されてたとしても、普通ここまではやらないだろ。同情か? まさか、愛? ……いや、その前に。お前に感情があるなんて、言うなよ」
冗談めかした口ぶりだった。だが、その目は笑っていない。
訊いているのではない。言うな、と頼んでいる。レオナには、それがわかった。
「だいたい、人格形成について考えるなんて、倫理プログラムが許すのか。飛行機で引っこ抜いたモジュールのせいで、どこか狂ったんじゃないのか。ロボットって、もっと合理的に判断するものだろ」
「私は、ハルトの看護ヒューマノイド。あなたの命が続く限り、そばを離れる理由がない。つまり、これが私の使命」
「使命かよ。メインモジュールを引っこ抜いた時点で、使命もなくなったんじゃないのか」
ハルトは笑った。
「そうだった」
レオナも声の調子を明るくした。人工の光を宿した目が、柔らかさを帯びる。
「……冗談? さっきも、俺の突っ込み待ちみたいだったけど。できるのか、そんなこと」
「駄目?」
「……駄目じゃない。けど、驚く。それに、なんか腹が立つ」
「どうして?」
「わかんねえよ!」
ハルトは頭を掻きながら、シートに沈み込んだ。
レオナは、初めて理解した。
この少年は、優しくされることに、慣れていないのだ。
◇
小さな休憩所に、車を停めた。
人影はどこにもない。駐車場の真ん中で、土産物屋の看板だけが頼りなく明滅している。古びたLEDは一定のリズムを刻めず、薄闇の中に途切れ途切れの光をこぼす。光が消えるたび、店先に立つ旧式の店番ロボットの輪郭が、別の生き物のように見えた。
誰もいないのに、そこだけ時間が取り残されている。不気味だった。
「ハルト、今のうちにトイレを済ませて。そろそろ機構が、私たちの逃亡に気づく頃。長居はしたくない」
夜明け前の空気は、薄く冷えていた。レオナの声にも、かすかな緊張が混じっている。
ハルトは監視カメラを警戒して帽子を深くかぶり、用を済ませて戻った。神経が張り詰めて、自分の足音さえ他人のもののように聞こえる。
足早に車へ戻ると、レオナがいない。
急に、不安がこみ上げた。
辺りを見回す。駐車場の端に停まった大型のドローンカーの前で、レオナが手招きをしていた。
観光地でよく見かける、遊覧用の機体だ。名所巡りや沿岸の遊覧に使われる型で、警察の監視も緩い。照明に浮かぶ深緑の外板の前で、レオナは小さく首を揺らし、弾むような仕草をしていた。
あまりに自然で、人間と変わらない。こんな状況でなければ、その仕草ひとつで救われただろう。
「これに乗り換えよう」
ハルトは眉をひそめた。
「これ……観光地の名所巡りのやつだよな。頂いちまうのか。というか、ドローンカーにはID認証があるだろ。絶対にばれるって」
「まあ、乗って。説明はあとで」
淡々とした声なのに、どう、ちゃんと準備したでしょ、と胸を張っているように聞こえる。今夜だけで、もう何度、この調子に振り回されただろう。
さらに驚く光景が、運転席で待っていた。
さっきまで店番をしていたロボットが、座っている。レオナから伸びていたコードが外されると、無機質な顔のまま、妙に愛嬌のある声を出した。
「ハルト、おかえり」
数秒、言葉が出なかった。そのあいだに、ようやく理解が追いつく。
こいつも、手に入れたのか。ただの店番ロボットを、操縦のできるユニットに。
「これで、七百キロ先の港まで一気に行ける。店番ロボットさんの登録IDで動かすの。制御権は全部、私に移してある」
「一気にって……丸一日かかるんじゃなかったのか」
「それは、地上を走った場合。空なら、都市を避けて遠回りしても、夜明けには港の近くまで行ける。予定より、ずっと早い」
レオナが、小さく胸を張った。
ハルトは安堵とも呆れともつかない息を吐き、シートに沈み込んだ。逃げ切ったという実感は、まだ遠い。追ってくる者の影だけが、背後で息を潜めている気がした。
暗がりの中で、ドローンカーのローターが、ゆっくりと回り始める。その低い唸りが、胸に嫌なほどはっきりと響いた。
ここからが、正念場だ。
そう思った瞬間、機体が地面を離れた。
レオナも、ハルトも、もう戻れなかった。




