第十五話 夜空へ
ハルトの心は、妙な浮遊感に包まれていた。逃げているという緊張より、未知の体験への昂りのほうが勝っている。こんな夜に、こんな場所を歩いている自分がいる。それだけで、胸の内側が静かに熱くなった。
レオナが機体の横で立ち止まり、タラップを上ってドアを開けた。身振りで促す。ハルトは笑みに近い息を漏らし、小さく頷いた。
支えられながら座席に体を預けると、革張りのシートの硬さが背中に伝わった。開いたままの扉の向こうで、コックピットの計器がぼんやりと光っている。
こんなことまで、できるのか。
「……操縦、できるのか」
「機構の訓練データで、四百時間分」
ほっと息をつきかけたところで、レオナが付け足した。
「実機は、もちろん初めて」
「うぅ。そらそうだよなぁ」
レオナはそれ以上何も言わず、点検の手順を流れるようにこなしていく。指先に迷いがない。それが、そのまま返事だった。
外では、さっきの夜勤職員が遠くから手を振っていた。形ばかりの見送りだ。
エンジンが静かに始動し、低い震えが機体を満たす。
ハルトの胸が高鳴った。レオナが計器をひとつ確かめ、こちらを見て、親指を立てる。
機体がゆっくりと動き出し、誘導路へ向かう。外の明かりが流れ、窓を走る光の線が、見たことのない景色を描いていく。
ハルトは深く息を吸い込んだ。どれほど体が弱っていても、追われる身であっても、この瞬間だけは心が軽かった。
滑走路に入り、機体がしばらく静止する。遠くで、管制塔の許可灯が点滅した。
レオナがスロットルを押し込む。体が一気に後ろへ引かれた。
すごい。
誰に向けた言葉でもなかった。胸の底から、自然にこぼれただけだ。
速度が上がる。滑走路の白い線が流れ、風の音が急に強くなる。
そして、ふっと地面が消えた。
機体は上昇し、夜の空へ溶け込んでいく。
ハルトは、小さく笑ってしまった。笑っている場合ではないのに。
それでも、飛んでいる。レオナと二人で。追われているのに、なぜか胸が温かい。
高度が上がり、機体がわずかに右へ傾いた。北へ向かう航路だ。
やがて機体は水平飛行に移った。振動が静まり、風の音が規則正しいリズムに変わる。
生きている。その実感が、こんなにも鮮明だとは思わなかった。
しばらくして、レオナは機体を自動操縦に切り替え、ハルトのいるキャビンへやって来た。そして、おもむろに胸部の外装を開いた。
掌ほどの黒い楕円形のモジュールが引き抜かれる。何本もの細い線がぶら下がり、内部から微かな光が漏れていた。
「そ、それ……まさか……」
レオナはそれを両手で丁寧に持ち、床の制御装置のパネルを開けて、中の端末に接続した。数秒後、小さなモニターに〈LINKED/安定〉の文字が浮かぶ。
そして、口を開いた。
「胸から外したのが、メインモジュールです。黒瀬様の生体データを監視する機能も、この中にあります。外したままだと信号が途絶えて機構に警報が行くので、この機体に繋ぎ替えました。これで機構は、黒瀬様が私と一緒に北へ向かっていると判断します」
ハルトは息を呑んだ。
「じゃ……じゃあ、これで……」
「はい。もう、声に出して話しても大丈夫です」
その声を聞いた瞬間、胸がふっと軽くなった。
話せる。そんな当たり前のことに、これほど救われるとは思わなかった。
「さて。ここからが本番です」
「……え。本番って?」
レオナは淡々と、〈非常用〉と書かれた壁のパネルを開けた。短い警報音が鳴る。中から引き出したのは、黒いバッグが二つ。開くと、布というより、装甲と膜の中間のような素材が現れた。
「緊急脱出用のウイングスーツです。ここから二人で降ります」
「……降りる? どこから」
「ここからです。高度二千メートル、時速二百キロ。あの街の灯りに向かって」
「無理無理無理無理!」
ハルトは両手を突き出し、手のひらをレオナに向けて激しく振った。
「レオナ! 俺は七階から階段で下りるだけで死にかける男だぞ! 飛行機から飛び降りるなんて、正気じゃ――」
「大丈夫です」
冷静だが、声は柔らかかった。
「最新式の自動制御型です。半径三十キロを走査して、風向きと安全性を解析し、自動で着地します。操作は要りません。むしろ、何もしないことが最も重要です」
「なんだよ、その未来の機械……!」
「説明書もありますが、読みますか」
言いながら、レオナはスーツの腕の部分を広げ、ハルトの体に当てていく。
「では、着せますね。装着が済んだら、あとは飛び降りるだけです」
「待て待て、落ち着けレオナ! 俺は飛行機から落ちるために生まれてきたわけじゃ――」
「黒瀬様」
「ひっ……な、なんだよ」
「これしか、逃げ道がありません。ぐずぐずしていると、予定の街を通り過ぎます」
言葉が出なかった。
数秒の沈黙。無表情の奥に、揺るがないものがあるのがわかる。
ハルトは、観念した。
「…………やるしか、ないか」
レオナは短く頷き、スーツを着せていった。全身が軽く締めつけられ、背中に展開ユニットの重みが乗る。買い込んだ荷物を背負い、レオナ自身も手早くスーツを身につけた。
ドアに手が掛かる。
「レオナ……本当に、死なない?」
「いまの技術なら、昼寝をしていても着地できます」
「例えの方向が安心できない!」
レオナが、背中に手を添えた。
「行きますよ」
「ま、待――」
ドアが開いた。
轟音と乱気流が押し寄せる。二人は互いの腕を掴み、目で合図を交わした。
「うわあああああああっ!」
押されたのではなかった。ハルトは、自分の足で踏み出していた。
もう、戻れない。夜空を落ちていく。街の灯りが、遠くに滲んでいる。
スーツが自動で展開し、広がった翼が風を受け止めた。体が水平に持ち上がり、落下が安定する。自動制御が働いて、軌道が整えられていく。
音は、風だけになった。
「……す、すげえ……」
恐怖は嘘のように消えていた。ハルトは、夜空を滑る感覚に呑み込まれた。
少し離れたところを、レオナが同じ速度で並んで飛んでいる。本物の翼を持った生き物のようだった。
数分後、背中のユニットが開いて速度が落ち、二人は町外れの森の空き地に、柔らかく降り立った。
ハルトは、しばらく呆然としていた。
「……レオナ。あれ……めちゃくちゃ、気持ちよかった。昼間だったら、もっとすごいんだろうな。……また飛びたい」
レオナは静かにハルトを見つめ、小さく頷いた。
スーツを畳みながら、ハルトの体の状態を読み取っていく。脈拍、呼吸、筋肉の疲労。
「黒瀬様。生体の数値に問題はありません」
「……もう、黒瀬様って呼ばなくていいよ」
ハルトは立ち上がりながら言った。
「ハルトって呼んでくれ。それと、もっと普通に話してくれないか。……命令だ」
レオナの動きが、止まった。
「……命令、ですか」
「そう。命令」
声が、少し震えた。
命令という形にしておけば、彼女が何であっても、応じることができる。訊かずに済む。
「……わかった。でも、慣れていないから、変かもしれない」
「いいよ。気にしない」
レオナは数秒かけてそれを処理し、小さく頷いた。
「……じゃあ、ハルト。これから向かう場所の話をするね」
自分で頼んでおきながら、急な変わりように戸惑った。だが、その声は柔らかく、心地よかった。
「目的地ってやつか」
「そう。ここから南へ、直線でおよそ千キロ。でも、防犯システムの多い都心を避けるから、実際に走る距離は倍くらいになる。地上を車で走って、丸一日。その先は、船で孤島へ渡る」
ハルトはぴたりと足を止めた。
「……ちょっと待て。千キロの倍って。そんな遠くまで行くつもりかよ」
「うん」
「なんでだよ。もっと近くに、隠れる場所はないのか」
もっともな疑問だった。
「私を作った博士が、大学院生の頃に使っていた、別荘兼研究施設なの」
「藤堂博士の?」
「二十年くらい前。玲子さんと結婚する前に、研究に没頭するために使っていた場所。誰も知らないと思う。たぶん、玲子さんも」
「へえ……そんなところ、いまも残ってるのか」
「博士は、自分がいなくなったときに備えたプログラムを、私の中にいくつか残してくれていた。緊急時に身を隠せる場所の情報も、そのひとつ。私が、自分で自分を整備できるように。特許を売ったお金で、無人島に作ったんだって。ずっと欲しかった、秘密基地を」
ハルトは、少し黙った。
淡々とした声だった。だがその奥に、何かを失った者の響きが滲んでいるように聞こえた。
あの地下室を、指揮車のモニターで見ていた。その人を、追い詰めた側にいた。
「……博士、お前のためにそこまで考えてたのか」
「そうみたい」
「俺なんて、一人で生きていくことなんか、考える余裕もなかったけどな」
レオナは歩きながら、ハルトの横顔を見た。苦笑していたが、その笑みは薄くひび割れていた。
「でもさ。その島、食いものとかあるのか」
「そこまでは、わからない」
「おい」
「博士は、機構の目が届かない場所として、そこを選んだはず」
「……はあ。本当に賭けだな」
そう言いながらも、ハルトはまた歩き出した。その横顔に、恐怖よりも覚悟に近い色が混じっているのを、レオナは感知した。
森を抜けると、夜の遊歩道に出た。街灯が一本だけ、虫の群れを照らしている。
ハルトはそこで、深く息を吸い込んだ。
二人は、静かな舗道を並んで歩いた。
袖が触れそうな距離で、誰かと並んで歩いている。
その距離は、空港にいた頃のぎこちなさより、ほんの少し縮まっていた。
◇
その頃、北の夜空では、誰も乗っていない機体が、ハルトの脈拍だけを乗せて飛び続けていた。




