第三章 夜空へ 第十四話 親指を立てて
午後十一時。
七階の廊下は、真空に沈んだように静かだった。
ハルトはレオナとともに部屋を出た。いつ発作が起きてもおかしくない。自分がどれほど危ういことをしているかだけは、よくわかっていた。
振り返る。無表情の彼女に、不安がこみ上げる。
レオナは何も言わず、小さく頷いた。
最初の関門は、エレベーター前の詰め所だ。
角を曲がる手前で、レオナがメモパッドを向けた。
【会話 黒瀬様】
【処理 任せて】
ハルトは小さく息を呑み、角を曲がった。
詰め所の若い警備員が、顔を上げる。
「あれ、黒瀬さん。どうかしました?」
「しょ、書類を……医療室に、忘れて……」
声が震えた。演技ではない。本当に怖いのだ。いつもなら勝手に出てくる軽口が、ひとつも浮かばない。
「この時間にですか? 少し待っていただければ、私が取ってきますよ。お急ぎなら、誰かに行かせますが」
レオナが、ハルトの背後からするりと滑り出た。腰部から、細いチューブが伸びる。
警備員が「えっ」と声を出すより早く。
プシュッ。
かすかな噴霧音。男は目を見開き、一、二、三で、膝から崩れ落ちた。
ハルトは慌てて息を止めた。
レオナは床の男の脈を確かめ、メモパッドを掲げる。
【安全 発作用の鎮静ガス】
ハルトは震える足で、非常階段へ向かった。エレベーターは使えない。誰と乗り合わせるか、わからない。
階段を下り始めると、呼吸はすぐに荒くなった。いまの体力では、七階から一階まで下りるだけでも拷問に近い。
「は……はぁ……少し……」
壁にもたれると、レオナが酸素マスクを差し出し、メモパッドを突きつけた。
【残り 二階】
文面には、優しさの欠片もない。ただ、肩をそっと支える指先には、背中を押してくれる何かがあった。
ようやく、一階。
扉の向こうは正面玄関だ。受付にも警備員が常駐している。
レオナは扉の隙間から覗き、即座に打った。
【処理 同じ】
また、俺が。
レオナは静かに頷いただけだった。
非常階段の扉を開ける。受付の警備員が顔を上げた。
「黒瀬さん。非常階段からなんて、何かありましたか」
ハルトは1メートルの際まで歩み寄り、低く答えた。
「外に……出たいな、と……」
背後から、レオナの影が迫る。
プシュッ。
男は怪訝な顔のまま、前のめりに倒れた。
【玄関 開ける】
レオナが受付の内側のスイッチに手を伸ばす。重いガラス扉が、静かに開いた。
冷気が流れ込んでくる。
ハルトは声を失った。
自分の意思で外へ出るのは、ここへ来てから初めてだった。
出た。本当に、出たのか。
◇
夜風が頬を刺す。
閉ざされた七階とは違い、外の世界は広く、冷たかった。駐車場には職員の車が数台並ぶだけで、人影はない。その静けさが、かえって胸をざわつかせる。
どれに乗る、と目で問う。
レオナは迷わず駐輪場へ向かい、大型バイクのロックに指先を触れた。
機構の公用車両だった。認証アクセスでピ、と短い電子音。ロックが外れる。
何でもできるんだな、お前。
レオナはバイクにまたがった。ハルトも慌てて後ろに乗る。足が震えていた。
ここまで来ても、信じられない。逃げている。ここでしか生きられないと思っていた場所から。
バイクはかすかなモーター音だけを立てて、静かに走り出した。外灯が遠ざかっていく。レオナの肩越しに、街の灯が広がった。こんなふうに夜景を眺めたことが、これまであっただろうか。
どこまで行くんだ。
問いが顔に出ていたらしい。レオナは片手でメモパッドを掲げた。
【空港 向かう】
飛行機。俺が、乗れるのか。
画面が切り替わる。
【飛行機 予約済み】
いつの間に、と思う。逃亡者である自分は、彼女がいなければ何ひとつできない。
表情には何も出さない、少女の姿をした機械。だがハルトには、その沈黙が何よりも確かな約束に思えた。
レオナだけが、味方だ。
◇
空港の駐車場にバイクを停めると、ハルトは夜の冷気を胸いっぱいに吸い込んだ。
空港。それだけで、夢の中にいるようだった。
レオナに付き添われて、ターミナルへ歩く。深夜の自動ドアが開くと、人影のまばらな広いロビーが、白い明かりの下に静まり返っていた。
端末へ向かう途中、レオナはすっと腕を伸ばし、進路を変えた。向こうから来る旅行客を、ハルトに近づけないためだ。守るべき距離を、彼女は常に正確に測っていた。
夜勤の職員が遠巻きにこちらを見たが、近づいてくる気配はない。
搭乗手続きは自動化されていた。画面には、予約済みのチャーター便が表示されている。名義は、ヒューマン・インテグリティ機構。公務扱いだ。
ハルトは震える指で、承認を押した。
本当に、飛行機に乗るんだ。
搭乗までは、まだ時間があった。
レオナは監視カメラの配置を視線だけで確かめ、ハルトの肩を軽く叩いた。
【買い物 行く】
ハルトは、こくりと頷いた。
案内ロボットに従って通路を抜けると、二十四時間営業のトラベルショップがあった。
ここで、買い物?
棚に並ぶ旅行用品を、ハルトは物珍しく眺めた。キャリーケース。折りたたみ傘。圧縮バッグ。逃げている最中だということを、しばし忘れそうになる。初めての旅行の前夜のような、妙な高揚があった。
レオナがハルトの肩幅を目で測り、薄手の黒いジャケットを差し出した。袖を通し、落ち着かなく腕を回してみる。
似合わない、と言うつもりだった。だが、鏡の中の自分は、思ったより悪くない。
その顔を見て、レオナがわずかに首を傾げた。
嬉しい、という感情に、彼女はまだ名前を与えられない。ただ、胸の内部ユニットに、微かな電流の揺らぎが走った。
続いて、食料の棚へ。ゼリー飲料、栄養バー、チョコレート、ドライフルーツ。レオナは無言で、必要なものをかごに入れていく。
カフェインのタブレットが放り込まれるのを見て、ハルトは眉を寄せた。
徹夜でもするのか。ああ、逃亡中か。そうだった。
浮かれている自分に、苦笑する。
レオナが、親指を立てた。
吹き出しそうになって、堪えた。その親指、なんだか笑えるんだよな。
意味がわからなかったらしい。レオナはもう一度、律儀に親指を立ててみせた。
ハルトはついに堪えきれず、声を殺して肩を震わせた。
笑ったのは、いつ以来だろう。
店を出る頃には、強張りが少し解けていた。見た目だけなら、深夜便を待つごく普通の乗客だ。荷物も多くない。誰が見ても、逃亡者とは思わないだろう。
ハルトの足取りが、わずかに遅くなる。レオナは何も言わず、その歩調に合わせた。
ロビーを抜け、駐機場へ出る専用扉を、ハルトのIDで開ける。
風が強い。空港の風は、街の風とは違った。冷たいが、どこか清潔な匂いがした。
照明の輪の中に、小型ジェットが一機、白く浮かんでいる。
ハルトは、操縦席の窓を見上げた。
誰も、乗っていなかった。




