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第十三話 筆談

 神代が出ていった部屋に、静寂が戻った。

 ハルトは椅子の背に全体重を預け、天井を見つめた。

 呼吸が浅い。指先の震えが止まらない。

 神代さんが。俺を。

 この世でただ一人、恐れずに近づいてくれた人だった。初日に1メートルの線を越え、負の感情ひとつなく笑ってくれた、あの人が。

 機構の指示なのだろう。脳を抜き取り、未来永劫使い続ける装置にする。そのために、年の離れた兄のように振る舞いながら、ずっと自分を見張っていた。

 胸の奥が、ひび割れるように痛んだ。

 それでも、流れ込んできたものは嘘をつかない。あの罪悪感は本物だった。守れなかった、と本気で思っていた。

 本気で悔やみながら、それでも止めはしない。

 人間は、その両方を同時に抱えられる。知っていたはずだった。

 このまま、ここにいたら。

 その先は、言葉にならなかった。部屋の空気が、急に冷たく感じられる。


 機構には、救われた。それは確かだ。

 呪いのような力を持つ自分を受け入れ、居場所と役割を与え、医療も衣食住も完璧に整えてくれた。外の社会でこの力を抱えて生きるのがどれほど難しいか、痛いほど知っている。

 だが。

 生きているうちに脳を取り出して、使う。

 それだけは、どうしても受け入れられなかった。尊厳も、死ぬことさえも奪われる。ただ殺されるより、はるかに残酷だ。

 逃げなければならない。

 だが、逃げられるのか。

 自分には発作がある。時期も予兆もわからないまま全身が痙攣し、そのあとはしばらく動けない。一人では、どうにもならない。

 それに、外でひとりで生きる術を、何も知らない。

 十歳から人を避け、学校にも行かず、ここへ来てからは七階と地下を往復するだけの毎日だった。頼れる相手も、行くあても、思いつかない。

 どうすればいい。

 ハルトの目が、壁際に立つレオナに止まった。

 発作のとき、自分を支えられるのは、この看護ユニットだけだ。

 だが、機械だ。しかも機構の備品だ。逃げる、と口にした瞬間、報告されるかもしれない。

 それでも、ほかに誰もいなかった。

「……レオナ」

「はい、黒瀬様」

 言いかけた、そのときだった。

 レオナが、片手を上げて制した。

 そして、メモパッドに指を走らせ、画面をこちらへ向ける。

【会話 ダメ】

 ハルトは息を呑んだ。

【監視 されている】

【私の耳が 記録している】

【目は 誤魔化せる】

 そういうことか。この看護ユニットは、見張りでもあったのだ。

 だが、それなら、なぜそれを教える。

 レオナは続けて打った。

【黒瀬様 逃げる?】

 目を見開いた。

 なぜ、知っている。

 眉間に残る、かすかな感触を思い出す。あのとき自分を起こした、スマートグラスの振動。

 グラスを指さすと、レオナは表情を変えないまま、小さく頷いた。

 意図して、視せたのか。

 背筋が冷えた。

 罠かもしれない。

 機構の備品が、機構から逃げろと言う。そんな話があるか。忠誠を試されているのではないか。頷いた瞬間に扉が開いて、神代さんが入ってくるのではないか。

 ハルトはレオナを見つめた。

 何も、視えない。

 七年間、人を信じるかどうかを、この力に決めてもらってきた。視えたものが、すべてだった。

 いま初めて、視えない相手を前にしている。

 震える指で、打った。

【なぜ 助ける】

 レオナの指は、迷いなく動いた。

【看護ユニットの務め 患者の生命を守る】

【手術の指示 患者の生命を終わらせる】

【矛盾。生命を優先する】

 筋は、通っている。

 高度な看護プログラムなら、そう判断することもあるのかもしれない。命を守れという命令と、命を終わらせる手伝いをしろという命令。ぶつかれば、根本にあるほうを取る。それだけのことだ。

 それだけのことだ、と思おうとした。

 あの夜の前髪。あの一秒の間。

 ハルトの指が、画面の上で止まった。

【君は】

 そこまで打って、消した。

 訊けば、答えが返ってくる。

 もし、そうだと言われたら。

 自分はこれまで、それを作ろうとした人間を、数十人も裁いてきた。作られる側がどんな存在なのか、一度も考えずに。人格を持つヒューマノイドに、会ったことさえなかったのだ。

 訊く資格が、自分にあるとは思えなかった。

 それに、わからない。本当に。目の前のこれが心なのか、心に見えるほど精巧な仕組みなのか。視えない以上、確かめる術がない。

 視えない。それでも。

 ――君には、視えたものじゃなく、自分の頭で決めてほしかった。

 皮肉なことに、あの人の言葉が蘇った。

 ハルトは、打った。

【逃げたい。手伝ってくれるか】

 レオナは、親指を立てた。

 あまりに不似合いな仕草だった。ハルトの胸に、小さな灯がともる。

【逃げる場所はあるか】

 頷き。

【神代さんは、気づいたかもしれない。実行は今日、日が暮れてから。計画は立てられるか】

 もう一度、深い頷き。

【計画 立てる】

 今度は、ハルトが親指を立てた。

 レオナは静かに画面を消去し、ハルトを見つめた。

 その瞳に、かすかな温かさがあるように見えた。

 そう見えるように作られているだけかもしれない。

 どちらでもいい、とハルトは思った。いまは。

 レオナが歩み寄り、そっと肩に手を置いた。もう一度、画面を向ける。

【必ず 逃がす】

 涙が溢れそうになった。

 声は出せない。だが、言葉は要らなかった。

 ハルトは小さく頷いた。

 ありがとう、レオナ。

 レオナも、小さく頷き返した。


 レオナは、この瞬間を待っていた。

 決めたのは、昨夜だ。あの指示書を、サブモジュールの奥で読み返したときに。

 黒瀬ハルトを、ここから逃がす。

 それは、博士が遺した「生き延びろ」という願いを、危うくする選択だった。従順な機械を演じ続けるほうが、はるかに安全なのだから。

 それでも、決めた。

 だが、言葉では伝えられない。耳は機構に繋がっている。たとえ筆談で告げたとしても、機械の言葉を、この少年は信じないだろう。七年間、視えたものだけを信じて生きてきたのだから。

 だから、視せた。

 あの男がハルトのそばに屈み込むように、手帳をハルトの足元へ落とした。眠りの浅い瞬間に、スマートグラスを震わせた。

 残酷なやり方だと、わかっていた。唯一信じていた人間の心を、覗かせたのだ。

 それでも、逃げると決めるのは、ハルト自身でなければならなかった。命じられて逃げるのでは、檻が替わるだけだ。

 そして少年は、視えない相手を前にして、自分で打った。

 逃げたい、と。

 この少年を、守りたい。

 その感情が、博士の遺した娘の記憶から来るのか、自分自身の人格が生んだものなのか、わからない。

 ただ、そのことは告げなかった。誰にも悟らせるな。博士の命令は、まだ生きている。

 少年が訊きかけて、やめたこと。その意味を、レオナは正確に理解していた。

 昨夜、レオナはひとりで選んだ。

 いま、二人で選んだ。

 それは、生き延びるためではない、初めての選択だった。


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