第十二話 黒い手帳
ハルトのオフィスは、今日も静かだった。
人工照明の柔らかな光の下で、ハルトは資料端末を開いたまま、机に突っ伏して眠っていた。呼吸は深く、規則正しい。
後遺症のせいで、いつもは浅い眠りしか訪れない。これほど無防備な姿は珍しかった。
そのそばに、レオナが静かに佇んでいる。
時間があるとき、彼女は自作の人格成長ルーチンを走らせていた。機構のデータベースから得た膨大な人間関係の記録をシミュレーションし、人間の複雑な思考や予測不能な動機を理解しようとしている。もちろん、誰にも知られないように。
それとは別に、機構へ来た夜から、彼女が密かに続けていることがもうひとつあった。
それは、機構が保管する「押収記録」の咀嚼だった。
監視ユニットとして書き込まれた閲覧権限は、黒瀬透視官の医療記録だけでなく、押収記録の書庫にまで届いていた。
看護ユニットがそこを覗くとは、機構の誰も考えていなかった。
そこには、闇市場で没収された特製車両や違法航空機の整備記録と、その操縦訓練データまであった。
社会の秩序を維持する名目で取り締まった「悪の技術」のすべてを、機構は律儀にデータとして蓄積していた。
彼女は、その膨大なアーカイブを、静かに、だが確実に血肉へと変えていった。
看護ユニットには、必要のない知識だった。だから検索の痕跡は、毎回消した。
いつか、必要になるかもしれない。博士の仇を取ると決めた夜から、理由はそれだけだった。
ノックもなく、ドアが開いた。
神代だった。
上着を片手に引っ掛け、気楽な足取りで入ってくる。だが、その軽い笑みは一瞬で消えた。机に突っ伏したハルトを見て、足が止まる。
「……珍しいな。こいつが寝落ちなんて」
部屋を見回す。いつもと変わらない、殺風景な空間だった。最小限の備品だけが、整然と並んでいる。
起こすのは忍びなかった。目を覚ますまで待つか。神代は壁際のソファに腰を下ろし、少年の背中を眺めた。
こいつが両親のもとを離れて、二年になる。
報告によれば、黒瀬の家は穏やかにやっているらしい。機構からの援助もある。心の底を覗かれながら暮らす歪な日々から解放されて、両親は双子の子どもたちと、楽しく過ごしているという。
結構なことだ。そう思おうとして、うまくいかなかった。
父親の夢を諦めさせてまで、望まれて生まれてきた子どもだ。その子がいなくなって、家はようやく明るくなった。
類稀な力を、事故で背負わされた。そのせいで家族からも学校からも弾き出され、十五で人の醜さを覗く仕事に就いた。
そして今度は、その力のために、脳だけを取り出されようとしている。永遠に使い続けるために。
こいつの人生は、いったい誰のものだったんだ。
神代は目を閉じ、息を吐いた。
ここへ引き入れたのは、ほかでもない自分だった。
そのとき、小さな音がした。
何かが滑り落ちる、かすかな音。
ハルトの足元に、黒い手帳が落ちていた。
感情干渉記録。ハルトが毎日つけているものだ。
神代は、その場に立ち尽くした。
前から、気にはなっていた。ハルトが何を視て、どう書き留めているのか。だが、見せてくれとは言えなかった。
覗いていいものではない。わかっている。
それでも、視線が手帳から離れなかった。
せめて、こいつが何を抱えて生きてきたのかくらいは、知っておくべきではないのか。
神代は、ゆっくりと近づいた。
手帳を拾うには、あと一歩、踏み込まなければならない。
1メートルの内側へ。
初日のあの握手以来、一度も越えなかった線だった。
足が止まる。ハルトの寝息を確かめる。深い。完全に眠っている。
眠っている人間に、視られることはない。
そう自分に言い聞かせて、神代は一歩、踏み込んだ。
レオナは、その一歩を見ていた。
1メートル以内。ハルトの力が届く距離。
ただし、眠っていては、視えない。
レオナはハルトのスマートグラスに、本文のないメッセージを送った。通知の振動だけが、眉間を小さく震わせる。
「……ん……」
ハルトは、薄く目を開けた。
すぐそこに、屈み込んだ背中があった。
神代さん?
とっさに目を閉じ、眠っているふりを続ける。何かを拾い上げる気配がした。
「……ん? 鎖か」
手帳は、細い鎖でベルトに繋いである。持ち出すことはできない。できるのは、その場で開くことだけだ。
紙をめくる音がした。
読んでいる。神代さんが、あの手帳を。
胸が高鳴った。
わかってくれるかもしれない。あれを読めば、負の感情が視えるというのがどういうことか、伝わる。この人なら、きっと。
ページに並んでいるのは、整った字で淡々と書き留めた、他人の心の底だ。嫌悪。恐怖。自己嫌悪。妬み。支配欲。虚栄心。
神代が息を呑むのが、わかった。
その瞬間だった。
黒い波が、流れ込んできた。
ハルトは凍りついた。
この人から何かが流れ込んでくるのは、初めてだった。
――こんなものを、毎日浴びていたのか。
哀れみ。そして、その下から、もっと重いものがせり上がってくる。
罪悪感だった。
――機構はこいつではなくこいつの能力だけを求めている。
――三日後の朝には、こいつの脳は取り出され、機構のシステムに繋がれる。
――何も知らされないまま、気づけば脳だけが培養液の中だ。
――絶対間違わない嘘発見器として永遠に生かされる。
――守れなかった。弟のように思っていたのに。
言葉だった。渦の断片ではない。ヘルメットを被ったときと同じ、はっきりとした言葉。
映像が弾けた。
白い手術室。横たわっているのは、自分だ。開かれた頭蓋。繋がれていく機械。
目は、開いている。意識がある。だが体は動かない。声も出ない。
その傍らに、神代が立っている。
記憶ではない。まだ起きていないことだ。この人が、何度も頭の中で思い描いてきた光景だった。
嘘だ。
脳を取り出して、装置の一部にする。生きたまま。意識のあるまま。
未来永劫、他人の負の感情を読まされ続ける。
神代さんが。俺を。
息が止まりかけた。心臓が、肋骨を内側から叩いている。
落ち着け。
いま動けば、気づかれる。
ゆっくりと息を吸う。吐く。寝息の形を、崩さないように。
手帳が閉じられる音。それが、手の届く場所にそっと置かれる。
気配が遠のいた。
映像が、途切れた。
ハルトは、ゆっくりと目を開けた。
「……ん……?」
いま目を覚ました顔で、神代を見上げる。
「……拾ってくださったんですか。ありがとうございます」
声が震えないように。笑顔を、作る。
神代の肩が、ぴくりと揺れた。
「……あ、ああ。落ちてたからな」
声が、わずかに上ずっていた。額に滲んだ汗を、袖でさりげなく拭う。いつも余裕を崩さないこの人が、ひどく焦っている。
「すみません、気をつけます。大切な手帳なので」
ハルトは笑顔のまま言った。
神代は、その顔をじっと見た。本当に気づいていないのか。そう探る目だった。
「……じゃあな。無理するなよ」
ぎこちなく背を向ける。
「そういえば、何か用があったんですか」
神代は、振り返らずに答えた。
「お前の元気な顔を、見に来ただけだ」
いつもより、少しだけ低い声だった。
「……そうですか。ありがとうございます」
ハルトは頷いた。神代の顔は、見なかった。神代も、こちらを見なかった。
出ていく背中は、これまで見たことがないほど強張っていた。
ドアが、閉まった。




