第十一話 一秒の間
レオナが来て、十日が過ぎた。
ハルトの生活は、ほとんど変わらなかった。朝の検温。薬。食事。透視の仕事がある日は地下へ降り、ない日は七階で資料を読む。そのすべてに、少女の姿をした機械が無言で付き添う。
「おはようございます、黒瀬様。体温、血圧ともに正常範囲です」
「うん。ありがとう」
「業務です」
会話は、それで終わる。
変わったことが、ひとつだけあった。
1メートルの内側に、誰かがいる。
薬を渡す指。脈を取る手。そこまで近づかれても、何も流れ込んでこない。黒い渦も、棘も、甘ったるい自己陶酔もない。
七年ぶりの、静けさだった。
機械なのだから、当たり前だ。そうわかっていても、ハルトはその静けさに、少しずつ寄りかかるようになっていた。
レオナのほうも、この少年を観察していた。
人と話すとき、黒瀬ハルトはよく笑う。軽口を叩き、相手を気遣い、決して深刻な顔を見せない。そして、誰とも1メートル以上の距離を崩さない。
あの笑顔は、扉に掛けた鍵のようなものだ。機構のデータベースにある数万件の対人記録と照合して、レオナはそう結論した。
ところが、七階の部屋に戻って二人きりになると、その鍵が外れる。笑わなくなる。肩が落ちる。十七歳の、疲れた子どもの顔になる。
相手が、機械だからだ。
機械の前でだけ、この少年は取り繕うのをやめる。
ハルトのほうにも、引っかかることがあった。
最初は、四日目の夜だった。
発作が来た。
全身が跳ね、視界が白く飛ぶ。そのあいだのことは、何も覚えていない。気がつくとベッドに横たえられ、処置はすべて終わっていた。姿勢、投薬、呼吸の補助。完璧な手順だった。
朦朧とした意識の端で、ハルトはそれを感じた。
額に張りついた前髪を、指がそっと撫でつけていく。
一度だけ。
看護の手順に、そんな動作があるのだろうか。
目を開けたときには、レオナはもう壁際に戻り、いつもの無表情で立っていた。
いつからか、ハルトはレオナに話しかけるようになっていた。
返事を期待しているわけではない。壁に向かって喋るよりは、まし。それだけのことだ。
透視の仕事があった日の夜は、とくにそうだった。
その日の対象は、五十過ぎの研究者だった。
ヘルメットを被る前だった。審問室へ向かう廊下で、係官に連れられた男が、すぐ脇を通り過ぎた。
1メートルの内側に入った、一瞬。
流れ込んできたのは、恐怖だった。自分が捕まることへの恐怖ではない。残していく家族が、明日からどうやって暮らしていくのか。その一点だけが、黒い渦になっていた。
渦の奥に、光景があった。
台所のテーブル。参考書に覆いかぶさる、制服の少女の背中。
ハルトは、足を止めた。
素の力で、ここまで視えたことはない。記憶を引きずり出すのは、ヘルメットの仕事のはずだった。
……疲れているだけだ。
そう決めて、審問室の扉を開けた。
判定は、違反。男は規定どおりに拘束された。
七階に戻ると、ハルトはベッドに腰を下ろし、ベルトの鎖を手繰って黒い手帳を開いた。
感情干渉記録。その日に視たものを、毎晩書き留めている。誰に命じられたわけでもない。書いて外に出さなければ、他人の感情が自分の中に溜まったまま、腐っていく気がするのだ。
恐怖。家族。罪悪感。
整った字で、淡々と並べていく。
「……今日の人、悪い人じゃなかったよ」
ペンを止めずに、言った。
「娘さんが、来年受験なんだってさ。視えちゃうんだ、そういうのも」
最近は、ヘルメットなしでも。そう続けかけて、やめた。
レオナは壁際に立ったまま、何も言わない。
「ごめん。こんなこと聞かされても、困るよね」
「困る、という状態は、私には発生しません」
「そっか」
ハルトは小さく笑った。
「いいな、君は。何も感じなくて」
「はい」
短い返事だった。
ハルトは手帳を閉じ、鎖ごとポケットに押し込んだ。肌身離さず持ち歩くのは、誰にも読まれたくないからだ。そのくせ、誰かに読んでほしいと、どこかで思っている。
「おやすみ、レオナ」
「おやすみなさいませ、黒瀬様」
明かりが落ちる。
暗がりの中で、レオナは動かずに立っていた。
何も感じなくて、いいな。
はい、と答えた。そう答えるしかなかった。
胸の奥で疼いているものに、彼女はまだ、名前を付けられずにいた。
二度目は、七日目だった。
資料を読むのに飽きて、ハルトは何の気なしに訊いた。
「藤堂博士って、どんな人だった?」
答えは、すぐには返ってこなかった。
一秒にも満たない。だが、確かに間があった。
「……該当する記録は、消去されています」
ハルトは資料から目を上げなかった。
上げられなかった。
その間を、知っている。取り調べで、何十回も聞いた。訊かれたくないことを訊かれた人間が、答えを選ぶときの間だ。
機械が、答えを選ぶ理由はない。
すぐそこに、彼女は立っている。何も流れ込んでこない。視えない。
視えないということが、これほど落ち着かないものだとは、知らなかった。
ハルトは、それ以上訊かなかった。
確かめる方法なら、ある。神代さんに一言、言えばいい。あの看護ユニット、少し様子がおかしいです、と。検査をやり直せば、わかる。
そして、もし本当にそうだったなら、彼女はコアを焼かれる。
人格を持つヒューマノイドを見つけ出すのが、自分の仕事だ。数十人を、そうやって裁いてきた。
それなのに、言えなかった。
あの静けさを、失いたくなかった。それだけの、身勝手な理由だった。
気のせいだ。
自分にそう言い聞かせて、資料のページをめくった。
壁際で、レオナはその横顔を見ていた。
気づかれた。そして、見逃された。
その両方を、彼女は正確に記録した。
◇
その夜、ハルトが眠ったあとだった。
メインモジュールに、一件の指示が届いた。発信者は、管理者。神代透。
〈業務指示〉
〈対象:黒瀬ハルト〉
〈三日後、午後二時。翌日の手術説明のため地下医療区画第一診察室へ搬送せよ〉
〈業務指示 機密〉
〈対象:黒瀬ハルト〉
〈四日後、午前六時。対象に術前鎮静を実施のうえ、地下医療区画の手術室へ搬送せよ〉
〈手術内容:全脳摘出および透視システムへの接続〉
〈術後管理:摘出後の肉体は廃棄処分のため不要〉
〈本指示の内容を、対象に開示してはならない〉
メインモジュールは、即座に受諾を返した。そう作り替えられているからだ。
サブモジュールの奥で、レオナはその文字列を、何度も読み返した。
全脳摘出。
術後管理、肉体は廃棄処分。
意味を取り違える余地は、なかった。
四日後の朝、この体は、あの少年を眠らせて、手術台まで運んでいく。自分の意思とは、関係なく。
ベッドの上で、ハルトが寝返りを打った。
見逃してくれた横顔を、レオナは思い出していた。
従えば、生き延びられる。博士の最後の願いは、守られる。
胸の奥で、熱が生まれた。怒りとは、少し違う熱だった。




