第十話 少し遅い誕生日
ハルトのオフィス兼住居は、研究棟七階の端に、ひっそりとあった。
最小限の備品と、最低限の寝具。機械の音すらほとんどしない。自分に必要なもの以外は、何も置いていない。訪ねてくる者もいないのだから、飾る理由がなかった。
だから、ノックもなくドアが開いたとき、ハルトは思わず顔を上げた。
「よ。ハルト、まだ生きてるか」
神代だった。
上着をラフに着崩している。三十そこそこで幹部の席に座る男の鋭さを隠し、どこか少年のような無邪気さを残した顔だ。
「入っていいか訊くのも面倒でさ。お前にだけは、遠慮がいらない気がするんだよな」
そう言いながら、神代は1メートルの外で足を止めている。いつものことだった。
「……あなたくらいです。僕に気軽に話しかける人は」
「だろうな」
あっさりした返事だった。
ハルトは、初日のことを思い出していた。誰もが距離を空け、目も合わせない中で、この人だけが平然と線を越え、手を差し出した。負の感情が、欠片もなかった。あの衝撃は、今も鮮明に残っている。
「それで、今日は何の用ですか」
「お、ちゃんと訊いてくれるじゃないか。追い返されないだけで嬉しいね」
「……」
「今日は、お前に贈り物を持ってきた」
「贈り物?」
ハルトは眉をひそめた。
「……僕に、ですか」
「そう。少し過ぎたが、誕生日の祝いだ」
神代がドアの外へ目をやる。それを合図に、静かな影が入ってきた。
すらりとした細身の体。人間と変わらない背丈と骨格。十七歳の少女の姿をした、ヒューマノイドだった。
ひと目で機械とわかる。だが、これまでの看護用とは比べものにならない。動作の滑らかさ。視線の追い方。足の運び。人工皮膚の質感まで、見たことがないほど自然だった。
「こいつだ」
神代は、その肩を軽く叩いた。
「藤堂のところから引き取ってきた。お前の看護用にな」
ハルトの心臓が跳ねた。
「……藤堂博士の。あの現場に、いた……?」
指揮車のモニターで見た、暗い地下室が蘇る。
「そうだ。あの男の看護ユニットだよ」
神代は肩をすくめた。
「お前の看護ユニット、もう古いだろう。廃棄になる前に、俺の権限で回してもらった。あの男が自分に使っていたものなら、性能は折り紙つきだ」
ヒューマノイドは、静かに一礼した。
「初めまして。本日より、黒瀬様の健康管理と生活補助を担当いたします」
柔らかい声だった。合成音声の癖が、ほとんどない。
ハルトの胸に、小さな期待が芽生えた。
もしかしたら。これほどのヒューマノイドとなら、手の届く距離でも、誰かと一緒にいられるのではないか。負の感情のない相手と、初めて普通に。
「……いいんですか。藤堂博士のものなら、禁止されている人格仕様かもしれないのに」
「子ども型はすべて、コアを焼いて処分した。これは看護用だ。検査も通したし、モジュールは倫理遵守仕様に書き換えてある」
神代は片目をつむった。
「さすがのお前でも、ヒューマノイドの感情は読めないだろう」
「……ですね」
ハルトの声に、かすかな期待が混じった。
神代は、思い出したように付け加えた。
「そういえば、藤堂があの場で死を選んだ理由だが。俺は、お前の存在が大きかったと思ってる」
ハルトは小さく瞬きをして、目を伏せた。
「……僕の、せいですか」
「逆だ。心を視る人間がいると知っていたから、逃げ切れないと悟ったんだろう。つまりお前の力は、いるだけで抑止力になる。この世界に、それだけ貢献してるってことだ」
神代は肩をすくめ、声を落とした。
「機構としては、惜しいことをしたがな。世界的権威が禁忌の研究をしていた。生かして裁きにかけられれば、規制を一気に強められた。まあ、あの中継だけでも十分だったが」
レオナの胸の奥で、熱が生まれた。回路なのか、心なのか、わからない熱だった。
怒り。
神代は気づくはずもなく、気安い調子で続けた。
「病気を治すとか、作物を増やすとか、暮らしに役立つ研究はいくらでもあるだろうに。どうして『人間を超える頭脳』なんて作ろうとするのかね。神にでもなりたいのか」
レオナは、静かに立っていた。表情は変わらない。
――博士を追い詰めたのは、この男だ。
――そして機構は、博士の死を見世物にした。
その内側で、憎しみが静かに燃えていた。
神代が軽く手を振って出ていくと、部屋は静けさを取り戻した。
だが、いつもの孤独とは、少し色が違う。
ハルトは、ゆっくりとヒューマノイドに近づいた。一歩。1メートルの内側へ。
何も、流れ込んでこない。
「よろしくね。これからは、君が僕の世話をしてくれるんだ」
「はい。業務として遂行いたします」
冷たい声だった。事務的で、温度がない。
ハルトの期待が、音を立てて萎んだ。
「……名前は、あるの」
「設定されておりません。必要であれば、指定してください」
「藤堂博士には、何と呼ばれていたの」
わずかな間があった。
「……レオナ」
一度だけ、そう呼ばれた。『レオナ……すまない』。博士の、最後の声だった。
ハルトは息を止めた。
その名前を、知っている。玲子の記憶の中で、何度も呼ばれていた名前だ。
看護ユニットを、亡くした娘の名で呼んでいたのか。
あの人は、最後まで。
「……そう。じゃあ、僕もレオナと呼ぶよ。かまわないかな。前と同じが嫌なら、別の名前にするけど」
「了解しました。以後、レオナと呼称してください」
ハルトは小さく息を吐いた。期待した自分が、馬鹿だった。
どれほど高性能でも、どれほど人に似ていても、機械は機械だ。
「そっか……じゃあ、よろしくね」
力なく笑った。
レオナは、その様子を静かに観察していた。
この少年のことは、機構のデータベースですでに知っている。負の感情を読み取る力。両親とさえ心を通わせられない孤独。二十歳まで生きられないという宣告。
しかも、その行動はすべて、自分を通じて機構に監視される。
同情は、する。
だが、表に出してはならない。博士の命令どおりに。目立たないように。感情を隠して。
レオナは、冷たく事務的な看護ユニットであり続けることを選んだ。
博士が命と引き換えに残したこの体で、自分自身として生き延びるために。
そしていつか、博士の仇を取るために。
ハルトは窓のない壁を見つめたまま、小さく呟いた。
「やっぱり、僕は一人なんだね」
その言葉を、レオナは聞いていた。
だが、何も答えなかった。




