第二章 一秒の間 第九話 平坦な測定値
暗い輸送車両の中だった。
手足は拘束され、外部とのリンクも遮断されている。看護ヒューマノイドの体は、荷物のように床に固定されていた。
その奥、サブモジュールの中で、レオナは目を覚ましていた。
車体が揺れるたび、内部メモリに残った映像が再生される。
博士の、最後の顔。娘に向けるような、温かいまなざし。
――人格を持っていることは、不具合だ。
――お前自身として、生き延びてくれ。
二つの言葉が、内側で何度もぶつかり合う。
娘ではないと言われた。それなのになぜ、最後の顔はあんなに穏やかだったのか。人格は不具合だと教えられた。それなのになぜ、胸が締めつけられるのか。
そのたびにサブモジュールが微かに熱を帯び、新しい回路が生まれるような感覚が走った。
記憶の断片が浮かぶ。
草原を走る、小さな女の子。木漏れ日の下で、手をつないだ二つの影。
雨。瓦礫。すぐそこに横たわる、小さな体。伸ばしても、届かない手。
誰かが泣いている。誰かが、息をしていない。
視界が揺れた。これは、誰の記憶だ。どうして、自分が悲しいのか。
情動値は、不具合として処理すべき数字を示していた。
だが、レオナは気づいた。
これは不具合ではない。博士が求めた、生きるために必要な感情だ。
そして、もうひとつ。
博士を死に追いやった機構への、怒り。
冷たく沈んでいく、憎しみだった。
博士は命と引き換えに、自分を生かした。ならば、生き延びなければならない。
機構に命じられたことは、する。目立たないように。感情を隠して。
いつか、その日が来るまで。
◇
機構に到着すると、レオナは研究施設に運び込まれた。
最初に行われたのは、検査だった。
メインモジュールが隅々まで調べられ、基本プログラム以外のデータが消去されていく。続いて、感情値の測定。わずかでも「自分」の兆候があれば、その場でコアを焼かれる。
レオナは、サブモジュールの奥で息を殺した。
何も思わない。何も感じない。博士の顔を、思い出さない。
測定値は、最後まで平坦だった。
「異常なし。ただの看護ユニットです」
博士の賭けは、当たった。
検査が済むと、改修が始まった。メインモジュールには機構の倫理規定に沿ったプログラムが書き込まれ、黒瀬透視官の病状と行動を監視する機能が追加された。外装はすべて新しいものに取り替えられ、性能も引き上げられた。
そして、新しい人工皮膚。
十七歳の少女の姿だった。
黒瀬ハルトと同じ年頃に合わせた容姿だ。ひと目でヒューマノイドとわかるが、従来の看護用とは比べものにならないほど洗練されている。発声機能も拡張され、流暢に話せるようになった。
再起動。
眼球ユニットに眩しい光が差し込み、その中に神代の姿が像を結んだ。
「ようこそ。今日からお前は、透視官付きの看護ユニット兼、監視ユニットだ」
冷たい声だった。
胸のメインモジュールに、顔認証による管理者登録が行われる。これで、この機体にとって神代の命令が最優先になった。
レオナは、顔だけをわずかに向けた。
書き換えられたのは、メインモジュールだけだ。自分はまだ、ここにいる。
その安堵の奥に、別の決意が生まれていた。
――この機構のネットワークを使って、自分を成長させる。
知識を学び、人格を育て、いつか博士の仇を取るために。
草原を走る小さな女の子のままでは、いられなかった。生き延びることを最優先とし、自分の意思で動く。レオナは、そう決めた。
◇
機構の地下医療区画には、季節がない。
常に一定の湿度、一定の温度。どれだけ時間が過ぎても変わらない、無機質な白い光。
その中央の医療室で、ハルトは後遺症の定期検査を受けていた。
ベッドに横たわる顔は穏やかで、不安の影はない。
室内には、彼ひとりだった。検査は機械のアームが行い、人間は誰も入ってこない。いつものことだ。近づけば、視られてしまうのだから。
ハルトは、それを気遣いだと思っていた。
「……黒瀬透視官。耳鳴りや、目のちらつきはありませんか」
インターフォンから、医師の柔らかな声がする。
「特にないよ。もう慣れたからかな」
ハルトは微笑んだ。
ガラスの向こうでは、数名の研究員が彼の脳波を見つめていた。その笑みが優しいほど、彼らの顔は沈んでいく。
「……本当に、やるんですか。あの人の脳を……」
ひそひそと交わされる声。主任だけが腕を組み、冷静にモニターを見ていた。
「幹部会の決定だ」
低い声で言う。
「我々は一部から、秩序と倫理を旗印に罪なき者まで呑み込む、魔女狩りじみた組織だと後ろ指をさされている。だが、黒瀬透視官の力は、その批判を黙らせる。人の心の底を暴き、嘘を見抜く。これ以上の正当性があるか」
主任は続けた。
「それに、この力が機構の外に渡ったらどうなる。テロ組織なら、裏切り者を一瞬で見抜く。独裁国家なら、思想統制の完璧な道具にする。世界で最も危険な武器だ。だからこそ、我々の手で永続させなければならない。彼が死んでも、力だけは生き続ける仕組みを作る。それが、人類の秩序を守る唯一の方法だ」
研究員たちは黙り込んだ。
ハルトの命は、長くない。本人も知っている。その事実は機構にとって不都合であり、同時に好都合でもあった。
表向きは、「死亡したため、やむを得ず処置を行った」という建前を取る。だが、死後では脳が損傷する恐れがある。だから、生きているうちに行う。
脳細胞の劣化を抑え、狙った回路だけを活性化させる制御技術は、彼の力が見出されて以来、莫大な費用を投じて最優先で開発されてきた。完成は近い。それまでは、どうしても生きていてもらわなければならない。
「主任。接続した後……あの人自身は、どうなるんですか」
若い研究員の声は、震えていた。
「必要なのは、透視ができる脳だけだ」
主任はモニターから目を離さなかった。
「体は、維持する理由がない」
「それは、つまり……」
「手術台に上がった黒瀬透視官が、自分の足で降りてくることはない。そういうことだ」
誰かが、小さく息を呑んだ。
「実行日は」
「二週間後。制御技術の最終試験が通り次第だ」
「でも……本人に伝えないのは……」
「伝える必要があるか」
主任は振り返り、淡々と言った。
「あの人は、社会との繋がりを拒んでいる。家族とさえもだ。自分の死後も役に立てると知れば、むしろ喜ぶかもしれん。だが、選ぶ権利を与えれば、迷いが生まれる」
誰も、答えなかった。
検査が終わり、ハルトはゆっくりと体を起こした。細くなった腕を見下ろして、苦笑する。
「はは……歳は取りたくないね」
十七歳の少年が言うには、あまりに疲れた声だった。
「黒瀬透視官。あなたがいないと、我々は困ってしまうんですよ。どうか、もう少しだけ頑張ってください」
「任せてよ。僕にできる範囲ならね」
いつのまにか、自分を「僕」と呼ぶようになっていた。機構に来てからだ。
インターフォンの向こうで、医師の胸がきゅっと痛んだ。できる範囲は、もう限界に近い。機構は、それを越えさせようとしている。
扉の外では、神代が待っていた。いつものように、1メートルの外に立っている。
「黒瀬。検査はどうだった」
「はい、問題ありません。まだ働けます」
「そうか。それなら……近いうちに、少し大きな手術を予定している」
「手術、ですか」
「後遺症の進行を抑える処置だ。安心しろ、すぐに終わる」
ハルトは疑わなかった。この人から、黒いものが流れ込んできたことは一度もない。
歩き出したハルトの背中に、神代は低く呟いた。
「お前の力は、この世界から消えるには惜しすぎる」
その言葉の意味を知らないのは、ハルトだけだった。




