選んだもの
訓練場を抜けて、ギルドの表の通りに出た。
どこへ行くつもりなのか、自分でもわからなかった。足だけが、勝手に宿のほうへ向かっていた。下層区へ下りる坂の途中で、うしろから足音が追いついてきた。
「待ちなさいよ」
ネルだった。
息を切らしたまま、俺の前に回りこんだ。耳がぴんと立っていた。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃないの」
ネルは、俺の顔をのぞきこんだ。坂の上の灯りが、ネルの目に小さく映っていた。
「何、考えてたか言って」
俺は、しばらく黙っていた。
坂の下から、酒場の笑い声がのぼってきた。誰かが鍋を叩いて歌っていた。
「俺がいなかったら」
声が、勝手にこぼれた。
「俺がいなかったら、父さんと母さんは、みんなと一緒に行けてた。行けてたら、帰ってこられたかもしれない。みんなも。帰ってこられなくても、二人は、自分で選んで行けた」
ネルは、黙って聞いていた。
「二人が十六年も名前を隠してたのは、俺のせいで」
「バカじゃないの」
ネルの声が、坂に響いた。
酒場の歌が、一瞬だけ途切れた。
「あんたが生まれてなかったら、あたし、今も荷物持ちよ」
ネルは、俺の胸ぐらをつかんだ。背伸びをしても、目の高さはそろわなかった。
「重い荷物しょって、ほつれた袖のまま、銅貨投げつけられて、それ拾って。ばあちゃんの店は、知らない人の物置のまま。あたしは、店の前を走って通りすぎるだけ。ずっと、ずっとよ」
胸ぐらをつかむ手が、震えていた。
「東の丘で、あんたが声をかけてきたの。綻びって布だけのものかって、聞いてきたの。あんたが、生まれてきたからでしょ」
「ネル」
「あの二人が何を手放したかなんて、あたしは知らない。でも、何をもらったかは知ってる」
ネルは、俺の胸を拳でどんと叩いた。
「これよ」
もう一回、どんと叩いた。
「あんたが、申し訳ないって顔して生きてたら、あの二人が選んだものを、あんたが自分で踏んづけることになるの。わかる?」
俺は、何も言えなかった。
ネルは、胸ぐらから手を離した。それから、袖の端でごしごしと自分の目をこすった。
「……わかったら、帰るわよ。明日も、支度があるんだから」
ネルは、くるりと背を向けて坂を下りはじめた。
尻尾が、ぶんぶんと揺れていた。怒っているときの揺れ方だった。
俺は、その背中を追いかけた。
◇
その夜は、眠れなかった。
寝台に横になって、天井の木目を見ていた。隣の部屋から物音はしなかった。でも、ネルが起きているのはわかった。
窓の外で、こつん、と小さな音がした。
軒の上に、銀色の髪が見えた。
窓を開けると、シェイラは軒の端に腰かけていた。膝の上に、菓子屋の包みを一つ乗せていた。
「父さんと母さんは」
「宿の、下の部屋。おかみさんが、一つ空けてくれた」
シェイラは、夜の空を見ていた。
「サラが、ずっと私の手を握ってた。昔と、同じ。治すときの手」
俺は、窓枠に腕をかけた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「君は、自分のせいだと思ってる」
シェイラが言った。
問いかけではなかった。
「あの子に、怒られた?」
「……坂の途中で」
「そう」
シェイラの口のはしが、ほんの少しだけ上がった。
「私は、置いていかれた側。みんなに。それから、あの二人にも」
紫の目が、俺を見た。
「だから、私が言う」
風が、銀色の髪を揺らした。
「あの二人が残ったから、君がいる」
シェイラは、少しだけ言葉を止めた。
「……それで、よかった」
胸の奥で、何かがほどけた気がした。
慰霊碑の前で、十六年ひとりで石を見上げてきた人だった。その人が、よかったと言った。
「ブラムの約束。私、知らなかった」
シェイラは、膝の上の包みを見下ろした。
「だから、ブラムのぶん、私が預かる」
「預かる?」
「いちばん大きいの。いつか、君に渡す」
それだけ言って、シェイラは包みを懐にしまった。
「まだ、食べない。今は」
そう言って、音もなく軒の向こうへ消えた。
◇◆◇
夜明け前に、扉が叩かれた。
開けると、父さんが立っていた。手に、木剣を二本持っていた。
「顔を貸せ」
まだ暗い通りを、父さんの背中について歩いた。ギルドの裏の訓練場に着くと、東の空がうっすらと白みはじめていた。
訓練場の端で、白銀の鎧が剣を振っていた。
レオンだった。誰より早く、ここで剣を振る。それは、登録した日から変わらなかった。
レオンは俺たちに気づいて、剣を止めた。何も言わずに、訓練場の柵のほうへ下がった。
父さんは、木剣を一本、俺に放った。
「家の庭でやったときは、泡も小細工もなしだった」
父さんは、自分の木剣を軽く振った。
「今日は、ありだ」
「……いいの」
「未開の地で、泡を使わずに死ぬ気か」
父さんは、構えた。
ゆっくりとした構えだった。でも、庭で見たのとは違った。肩の力が抜けて、足の運びに迷いがなかった。
これが、S級の構えだった。
俺は、木剣を握りなおした。
父さんが、踏みこんできた。
速かった。一撃目を受けた手が、骨までしびれた。二撃目を流して、三撃目で下がった。
足もとに、米粒ほどの泡を三つ。
父さんの右足が、泡を踏む寸前で止まった。踏まずに、かかとで横へずらした。
見えている。
十六年、剣を握っていなかった人の動きじゃなかった。
「それが、滑り泡か」
「手紙に、書いたから」
「書いてあった。見るのは、初めてだ」
父さんは、楽しそうだった。
次の踏みこみは、もっと速かった。俺は下がりながら、父さんの足の運びを見た。右に踏むとき、必ず小さく左に重心が寄る。庭で四回死んだとき、ずっと見ていた癖だった。
父さんが右に踏んだ。
その一歩先に、泡を一つ。
今度は、踏んだ。
父さんの膝が、がくりと落ちた。
父さんは、片手を地面について、すぐに立てなおした。木剣が、俺の脇腹の手前を払った。
俺は、もう父さんの懐に入っていた。
父さんの喉もとで、木剣を止めた。
東の空から、最初の光が訓練場に差しこんできた。
父さんは、しばらく動かなかった。
それから、木剣を下ろした。
「今、俺は何回死んだ」
俺は、息を整えてから答えた。
「……二回」
父さんの眉が、上がった。
「泡を踏んで、膝をついたとき。それと、今」
父さんは、目を細めた。
「合ってる」
そう言ってから、急に、腹の底から笑いだした。
「わははっ」
訓練場じゅうに響く声だった。
柵の外で、母さんが口もとを押さえていた。いつのまに来ていたのか、わからなかった。
いつもいちばん大きな声で笑ってた。
シェイラの言葉を思いだした。慰霊碑の石の中にいた人の笑い声が、今、ここにあった。
父さんは、地面にどかりと座りこんだ。俺も、その隣に座った。
しばらく、二人で朝の光を見ていた。
「お前は、俺たちが夢を捨てたと思ってるだろう」
父さんが言った。
「お前のために」
俺は、答えなかった。
「違う」
父さんは、木剣を膝の上に置いた。
「捨てたんじゃない。選んだんだ。お前を」
訓練場の土の上に、二人分の影が長く伸びていた。
「あの晩、黙ってたのは、選べなかったからじゃない。もう選んでたのを、口に出せなかっただけだ。行きたい気持ちも、まだあったからな。ブラムは、それを見抜いてた」
父さんは、空を見上げた。
「十六年、一度も後悔したことがないとは言わん。だが、選びなおせと言われても、俺は同じほうを選ぶ。何回でもだ」
柵の向こうから、母さんが歩いてきた。
母さんは、俺の前にしゃがんだ。俺の木剣を握った手を、両手で包んだ。
「それにね、リト」
母さんの手は、あたたかかった。
「未開の地は、あなたの夢よ。私たちの夢の続きじゃない。五歳の夜、あなたは本を指さして、見たことないもの全部見るって言ったわ。あれは、あなたが自分で見つけた夢」
母さんは、少しだけ笑った。
「あのとき、ちょっとだけ泣きそうになったけど」
「……なんで」
「うれしかったのよ。この子も、同じものを見たがるんだって」
俺の手を包む指に、力がこもった。
「だから、あなたが見てきて。それで、帰ってきて、話を聞かせて」
手紙の最後に、俺が書いた一行だった。
いつか、話を聞かせてください。
それが、今、俺に返ってきていた。
「行かせん、は取り消す」
父さんが、立ちあがった。土を払って、俺に手を差しだした。
「その代わり、一つだけだ」
俺は、その手をつかんで立ちあがった。
「帰ってこい」
父さんの手は、分厚くて、硬かった。
「今度は、名前を隠さずに、門の前で待っててやる」
「……うん」
それしか言えなかった。でも、それで足りた気がした。
◇
父さんと母さんが宿へ戻っていったあと、柵のそばから白銀の鎧が歩いてきた。
レオンだった。
「あれが、お前の親父か」
「……見てたのか」
「俺が先にいたんだ。見るなと言われた覚えもない」
レオンは、俺が持っている木剣を見た。それから、自分の腰の長剣を外して、柵に立てかけた。訓練場の隅の木剣を一本取った。
「貸しを返せ。一つ目だ」
「今?」
「もうすぐ出るんだろう。出たら、しばらく返せん」
レオンは、木剣を構えた。
「泡も、ありだ。隠すものは、もうないはずだな」
俺は、構えた。
レオンの木剣に、風がまといついた。木剣なのに、切っ先の向こうの空気が揺れて見えた。
踏みこみは、父さんより速かった。でも、父さんより読みやすかった。まっすぐで、迷いがない。登録した日から、ずっとそういう剣だった。
足もとに泡を敷いた。レオンの風が、泡をまとめて吹き飛ばした。
「同じ手は食わん。石切り場の坂で、覚えた」
二撃、三撃。受けるたびに、腕がしびれた。
吹き飛ばされた泡の一つが、レオンの背中のほうへ流れていった。
俺は、その泡をレオンの足のうしろで止めた。
レオンが下がろうとして、かかとが泡に触れた。
ほんの一瞬、レオンの体が傾いた。
その一瞬で、俺は踏みこんだ。
レオンも、傾いたまま踏みこんできた。
二本の木剣が、同時に止まった。
俺の木剣は、レオンの喉もとに。レオンの木剣は、俺の首の横に。
朝の光の中で、二人とも動かなかった。
「……相打ちか」
レオンが、低く言った。
「みたいだ」
レオンは、木剣を下ろした。しばらく、俺の顔を見ていた。
「今のは、隠してないな」
「隠してない」
「なら、いい」
レオンは、柵に立てかけた長剣を腰に戻した。
「お前の隠し事を暴くのは、俺だと言った。暴く前に、お前が自分で全部出した。癪だが、それで一つ目は帳消しだ」
「二つ目は」
レオンは、背を向けた。
数歩歩いてから、振り返らずに言った。
「帰ってきてから返せ」
白銀の背中が、訓練場の出口へ向かった。
「待ってるぞ。……リト」
俺は、木剣を握ったまま立っていた。
チビ種火、ではなかった。
登録した日から、一度も呼ばれたことのない呼び方だった。
◇◆◇
それから三日、支度の続きをした。
父さんは、昼のあいだずっとガンツ親方の工房に入りびたっていた。母さんは、ネルと一緒にばあちゃんの店で外套の裾を直していた。シェイラは、ときどき店の戸口に座って、二人の手もとを見ていた。
出発の前の日の昼、ネルが店にルカを呼んだ。
ルカは、妹の手を引いて坂をのぼってきた。うしろに、チビたちが四人ぞろぞろとついてきた。
「なんだよ。別れの挨拶なら、手短にしろよ」
ルカは、欠けた前歯を見せて言った。つま先の開いた靴で、店の敷居をまたいだ。
ネルは、裁ち台の引き出しから鉄の鍵を取りだした。
それを、ルカの手にのせた。
「留守番、頼みたいの」
ルカは、手の中の鍵を見下ろした。
「……は?」
「あたしたちが帰ってくるまで、この店に住んでいいわ。チビたちも一緒に。二階は狭いけど、雨はもらないから」
ルカの顔から、表情が消えた。
「妹ちゃんの裁縫も、ここでなら続けられるでしょ。糸と布は、棚の下の段のを使って。いちばん上の棚は、触らないで」
「ネルせんせい」
ルカの妹が、ネルの袖をつかんだ。
「ここに、いていいの」
「いていいの。そのかわり、綻びは、見つけたらすぐに繕うこと」
妹は、何度もうなずいた。チビたちが、店の中をきょろきょろと見まわしていた。いちばん小さい子が、裁ち台の下にもぐりこんだ。
ネルが小さいころ、寝ていた場所だった。
ルカは、まだ鍵を見ていた。
「金は」
「いらない」
「金で動かねえやつは、信用できねえって」
「留守番代は、タダにしといてあげる」
ネルは、腕を組んだ。
「その代わり、店を他人の物置にしたら、承知しないから」
ルカは、しばらく黙っていた。
それから、鍵を継ぎはぎの外套の内側にしまった。
「……帰ってこなかったら、もらうからな」
「帰ってくるわよ」
「知ってる」
ルカは、そっぽを向いた。
「だから、言ったんだ」
裁ち台の下から、くすくすと笑う声がした。
◇
その夜、父さんは火酒の瓶を提げて出かけていった。
「ガンツのとこだ。酒は持ってこいと言われたからな」
戸口で、父さんは振り返った。
「ギルドの大男も来るらしい。朝までには帰る」
母さんが、ため息をついた。
「十六年ぶんだもの。朝で済むかしら」
母さんは、ネルと並んで、店から持ち帰った三着の外套を宿の卓に広げた。裏から縫いなおした縫い目を、指でなぞった。
「上手ね」
「ばあちゃん仕込みですから」
ネルは、少しだけ胸を張った。
「私より、ずっと上手」
「知ってます」
母さんが、声を立てて笑った。ネルも、つられて笑った。
俺は、窓のそばに立って、二人の笑い声を聞いていた。
外套が三着。背負い袋が三つ。ネルが一枚ずつ読んで揃えた書付の束。ガンツ親方が研ぎなおした紅糸と白糸。布をほどいたままの、父さんのナイフ。
窓の外の軒に、銀色の髪が見えた。シェイラは、今夜も部屋には入ってこなかった。軒の端に座って、南の空を見ていた。
南の空に、ほかより少し明るい星が一つ、光っていた。
明日の朝、出る。
もう、何も隠さずに。




