夜明けの泡
父さんが帰ってきたのは、空がまだ暗いうちだった。
宿の戸がそっと開く音で、目が覚めた。というより、ほとんど眠っていなかった。階段の下から、火酒の匂いがのぼってきた。
食堂へ下りると、父さんは卓に突っ伏していた。母さんが、その背中に毛布をかけているところだった。
「朝で済まなかったわね」
母さんが、小さく笑った。
「ガンツが、樽を出してきやがった」
父さんは、突っ伏したまま言った。
「ギルドの大男は、途中から泣いてた。……俺は泣いてないぞ」
「はいはい」
母さんは、父さんの肩を二回叩いた。
厨房から、おかみさんが出てきた。手に、布の包みを三つ抱えていた。
「ほら、持っていきな。昼のぶん。三つとも同じ大きさにしといたからね。もめないように」
ネルが二階から下りてきて、包みを受け取った。重さを手で量って、ちょっとだけ眉を上げた。
「……ほんとに、同じ」
「当たり前だろ。あたしを誰だと思ってんだい」
おかみさんは、腰に手を当てた。
「一年以上、あんたたちの朝ご飯を見てきたんだよ」
俺は、腰のナイフに手をやった。
柄の茶色い布は、ほどいたままだった。机の引き出しには、まだその布がたたんで入っている。でも、もう巻くつもりはなかった。
二本の線が交わった紋が、ランプの明かりの中で見えていた。
父さんが、突っ伏したまま片目だけ開けて、それを見た。
何も言わなかった。でも、口のはしが少しだけ上がった。
◇
外套をはおって、背負い袋をしょった。
宿を出ると、通りはまだ青い暗がりの中だった。軒の上から、銀色の髪が音もなく降りてきた。
「おはよう」
シェイラだった。手に、菓子屋の包みを一つ持っていた。
「それ、こないだの?」
ネルが聞くと、シェイラは首を振った。
「今朝の。いちばん最初に並んだ」
「店、開いてないでしょ。こんな時間」
「開けてもらった」
ネルが何か言いかけて、やめた。たぶん、店の人が戸を開けたとき、目の前に音もなく立っていたんだろう。
三人で、坂を下りた。
南の門までは、下層区を抜けて大通りを行く。歩いているうちに、通りの窓がひとつ、またひとつと開いていった。
「あれ、泡の」
「ほら、白い柱の」
ささやく声が、上から降ってきた。パン屋の主人が、焼きあがったばかりの丸パンを一つ、窓から放ってくれた。ネルが片手で受け取って、「どうも」と頭を下げた。
昔は、この通りを歩くとき、誰も俺たちを見なかった。チビ種火と、荷物持ちの狐。見られても、笑われるだけだった。
ネルが、丸パンを三つに割った。
「はい」
ちゃんと、同じ大きさだった。
◇
南の門の前は、思っていたより人が多かった。
まだ門は開いていなかった。門番が、大きな閂の前であくびをしていた。その手前に、見知った顔がいくつも並んでいた。
最初に駆けよってきたのは、ミリアさんだった。栗色の髪が、走ったせいで少し乱れていた。
「間に合いました」
ミリアさんは、胸に抱えた帳面を開いた。ギルドの判を、最後の一枚にぽんと押した。
「出立の記帳です。これで、全部です」
「わざわざ、ここまで」
「受付が、受付の外に出てはいけないという決まりはありませんので」
ミリアさんは、帳面を閉じた。それから、三人の顔を順番に見た。
「帰ってきたら、いちばんに受付に来てください。記帳しますから」
ミリアさんの目のふちが、赤かった。
「……皆さんの帰りの記帳は、わたしがします。ほかの人には、させません」
「はい」
俺がうなずくと、ミリアさんは急いで帳面で顔を隠した。
その横に、ガンツ親方が腕を組んで立っていた。三つ編みの髭が、ゆうべの酒でまだ少し乱れていた。
「紅糸と白糸は」
「ここに」
ネルが、腰の双剣に手を置いた。
「刃こぼれしたら、帰ってこい。儂が研ぐ」
親方は、それだけ言った。
その隣で、ギルドマスターが大きな体を門の柱にもたせかけていた。目が、少し腫れていた。父さんの言ったことは、本当だったらしい。
「S級二人のパーティだ。ギルドの名前で出す以上、恥はかかせるなよ」
「はい」
「それと」
ギルドマスターは、少しだけ声を落とした。
「帰ってきたら、慰霊碑の鍵は返さなくていい。お前たちが持っていろ」
シェイラが、小さくうなずいた。
灰色の外套の人は、少し離れた石段に座っていた。ヴァルトさんだった。焼き栗の紙袋を、黙ってネルに差しだした。
手帳は、出さなかった。
「書かないんですか」
俺が聞くと、ヴァルトさんは石段から立ちあがった。
「見えたものは、書く」
それから、門の向こうの、まだ暗い南の空を見た。
「これから見えるものは、お前たちが書け」
そう言って、背を向けた。灰色の背中は、いつもと同じ速さで人混みの中に消えていった。
◇
「リト!」
人混みのうしろから、小さな声が上がった。
フードを目深にかぶった、小柄な人影だった。その隣に、紺の簡素な服の女の人が、右手を空けたまま立っていた。
フードの下から、蜂蜜色の髪と、水色のリボンがのぞいていた。
「リーゼ」
「しっ」
リーゼは、唇に指を当てた。それから、フードを少しだけ持ちあげて笑った。若葉色の大きな目が、いたずらっぽく光っていた。
「西の門から、こっそり来たの。ハンナが、ついてきてくれたから」
ハンナさんは、黙って一礼した。
「お城の人には、内緒です」
それだけ言った。
リーゼは、俺とネルの前に立った。それから、両手をうしろに組んで、少しだけ背伸びをした。
「願い事の約束、覚えてる?」
「叶ったら、教えてくれるって」
「うん」
リーゼは、うなずいた。
「叶ったから、教えに来たの」
門の上の空が、少しずつ白みはじめていた。
「霧の渡しの夜に、リトは言ったでしょう。目立ちたくないんです、まだ、って」
覚えていた。揺れる舟の上で、ハズレのはずの泡を見られたあとだった。
「あのとき、思ったの。この人たちは、ずっと何かを隠して歩いてるんだって。隠さないと、困る人がいるんだって。わたしと、同じだって」
リーゼは、ネルの手と俺の手を、片方ずつ取った。
「だから、お願いしたの。この二人が、いつか、もう何も隠さずに、門から出ていけますように、って」
ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。
俺は、腰のナイフを見下ろした。布をほどいたままの、二本の線の紋。
それから、肩にかけた背負い袋と、隣に立つネルと、少し離れて立つ銀色の髪を見た。
「叶ったわ」
リーゼは、両手に力をこめた。
「今日、叶ったの」
ネルが、うつむいた。耳の先まで、赤くなっていた。
「……ずるいわよ。こんな朝に」
「ネル先生も、ずるいもの。いつも先に泣かせるくせに」
リーゼは、ネルの手をぎゅっと握った。
「帰ってきたら、また値切り方を教えてね。今度は、銀貨の値切り方」
「……銀貨は、高いわよ。授業料」
「払うわ。お城のお金じゃなくて、自分で稼いだお金で」
ネルが、顔を上げた。
それから、くしゃっと笑った。
◇
門のすぐ横に、チビたちが四人並んでいた。いちばん前で、ルカが鉄の鍵を首から紐でさげていた。
「なくさねえように、こうした」
ルカは、胸の鍵を指で弾いた。
「妹が、ゆうべ棚の下の段の布で、雑巾を縫った。初めて、まっすぐ縫えたってさ」
「ネルせんせい、見て」
ルカの妹が、小さな布切れを差しだした。縫い目が、端から端までまっすぐだった。
ネルは、その布切れを両手で受け取って、しばらく見ていた。
「合格」
妹が、跳びあがった。
ふと、門の上の城壁に目が行った。
白銀の鎧が、一つだけ立っていた。
遠くて、顔は見えなかった。手も振らなかった。ただ、腕を組んで、こっちを見下ろしていた。
俺は、小さく頭を下げた。
白銀の鎧は、何も返さなかった。でも、背を向けて去っていくまで、ずっとそこに立っていた。
◇
最後に、父さんと母さんが人混みの中から出てきた。
父さんの顔は、まだ少し赤かった。でも、背筋はまっすぐだった。母さんは、父さんの外套の襟を、歩きながら直していた。
門番が、閂に手をかけた。重い音がして、南の門がゆっくりと開いていった。
門の向こうに、まだ青い街道がまっすぐ伸びていた。
父さんは、俺の前に立った。
しばらく、何も言わなかった。俺の顔を見て、背負い袋を見て、腰のナイフを見た。
それから、一言だけ言った。
「行ってこい」
この春、村の家の前で聞いた言葉と、同じだった。
「行ってきます」
あのときと同じように答えた。でも、あのときよりずっと、腹の底から声が出た。
父さんは、シェイラのほうを向いた。
「頼む」
シェイラは、父さんを見上げた。
「置いていかない」
それから、少しだけ間を置いた。
「今度は、置いていかれもしない」
父さんは、短く息を吐いた。何か言おうとして、やめた。代わりに、シェイラの頭に、大きな手をぽんと一度だけ置いた。
シェイラの長い耳が、ゆっくりと下がった。
母さんは、ネルの前にしゃがんだ。ネルの外套の、裏から縫いなおした縫い目を、指でそっとなぞった。
「ネルちゃん」
「はい」
「帰ってくる場所、坂の途中のお店だけじゃないわよ。南の果てにも、一つあるからね」
ネルは、何か言おうとして、口を閉じた。
それから、ぎゅっと唇をかんで、深く頭を下げた。
「……また、帰ってきます。両方に」
母さんは、ネルを抱きしめた。
それから、立ちあがって、俺の手を取った。剣だこを、指でなぞった。黒樹の森へ送りだしてくれた朝と、同じ手つきだった。
「リト」
「うん」
「見てきてね。ぜんぶ」
それだけだった。それで、十分だった。
俺は、二人に背を向けた。
門をくぐった。
振り返らなかった。振り返ったら、たぶん歩けなくなる気がした。
でも、背中に、父さんの声が聞こえた。
「門の前で、待ってるからな」
名前を隠さずに。
俺は、片手を高く上げた。
◇
街道を、三人で歩いた。
王都の城壁が、少しずつ小さくなっていった。最初の丘の上に着いたとき、シェイラが足を止めた。
「ここで、休む」
まだ、歩きはじめてそれほどたっていなかった。でも、シェイラは道ばたの平たい石に腰を下ろして、菓子屋の包みを膝にのせた。
紐をほどいた。
花の形の、蜂蜜の焼き菓子が一つ、入っていた。
シェイラは、それをしばらく見ていた。それから、指に少しだけ力をこめて、割った。
ぱきり、と音がした。
三つに、割れていた。
一つは、ほかの二つよりはっきりと大きかった。
シェイラは、その大きいかけらを、俺の手にのせた。
「ブラムのぶん」
俺は、手の中の焼き菓子を見下ろした。
まだ生まれてもいない俺に、会ったこともない人が約束した、いちばん大きいの。
十六年たって、今、俺の手の上にあった。
「……いただきます」
かじった。
蜂蜜の味がした。甘くて、少しだけ、しょっぱかった。
ネルは、自分のかけらをしげしげと見ていた。それから、シェイラのかけらと見比べた。
「三等分、できるじゃない」
「できる」
シェイラは、自分のかけらをかじった。目を閉じた。
「……うん。美味しい」
ネルが、ふんと鼻を鳴らした。それから、自分のかけらを口に放りこんだ。尻尾が、ばたばたと揺れていた。
◇
焼き菓子を食べ終えて、立ちあがった。
振り返ると、王都が見えた。
白い二重の城壁。坂と階段の街並み。まだ消えていない灯が、いくつか小さくまたたいていた。ばあちゃんの店も、宿も、ギルドの裏の石も、あの灯のどこかにあった。
空は、東から白くなりはじめていた。
その白い空に、星が一つだけ、まだ残っていた。
ほかの星は、もうみんな消えていた。それでも、その一つだけは、夜が明けきるまで光っていようとしているみたいだった。
暁の星。
シェイラが、その星を見上げていた。何も言わなかった。でも、その横顔は、慰霊碑の前で見たどの顔とも違っていた。
俺は、右手を上げた。
指先から、泡を一つ、生みだした。
大きくも、小さくもない泡だった。中には何も入れなかった。水滴も、種火も、何も。ただの、泡だった。
泡は、朝の風に乗って、ふわりと浮かびあがった。
東から差しこんできた最初の光が、泡の膜に当たった。
七色に、光った。
一歳の夜、生まれて初めて出した泡と、同じ色だった。
【泡生成】。
ただ泡を出すだけの、ハズレスキル。
その泡が、夜明けの空に、いちばん高く浮かんでいた。暁の星の、すぐ下に。
「行こう」
俺が言うと、ネルが隣に並んだ。
「言われなくても」
シェイラが、音もなく、その反対側に並んだ。
南へ続く街道は、まだ誰も歩いていなかった。
その先に、見たことのないものが、全部あった。
俺たちは、歩きだした。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
リトとネルとシェイラの物語は、ここでいったん完結です。
至らないところもたくさんあったと思いますが、一話ずつ読んでいただけたことが、何よりの励みでした。
次の連載も、未熟ながら精いっぱい頑張ります。また別の物語でお会いできたら、とてもうれしいです。
本当に、ありがとうございました。




