いちばん大きいほう
誰も、動かなかった。
坂の上から吹いてくる夕方の風が、シェイラの銀色の髪を揺らした。宿の戸口では、おかみさんが箒を持ったまま固まっていた。
最初に動いたのは、母さんだった。
旅の埃のついた外套の裾を揺らして、石畳をまっすぐ歩いてきた。俺の前を通りすぎた。ネルの前も、通りすぎた。
シェイラの前で、止まった。
「……シェイラ」
母さんは、それだけ言った。
それから両腕を伸ばして、シェイラを抱きしめた。
シェイラは、腕を下ろしたままだった。背の高いシェイラの肩に、母さんの額が押しつけられていた。母さんの肩が少しだけ震えていた。
長い耳の先が、ゆっくりと下がっていった。
「……来た」
シェイラの声は小さかった。ひと月前、慰霊碑の前で俺に言ったのと同じ言葉だった。でも、まるで違う声だった。
父さんが、肩の背負い袋を下ろした。母さんの肩ごしに、シェイラを見下ろした。
「森で、こいつらの後ろを歩いてたのは、お前だな」
シェイラは、父さんを見上げた。
「うん」
「足跡が二つしかなかった。窪地まで行って、二つのまま帰ってこられるわけがねえと思った」
父さんは、短く息を吐いた。
「……世話になった」
俺は、黒樹の森の出口を思いだしていた。日が沈むころ、斧の柄を地面について待っていた父さん。足もとを見て、森の奥を見て、「……二つ、か」とつぶやいた。
あのとき父さんは、足跡に残らないもう一人を数えていたんだ。
父さんの目が、俺に向いた。
何か言わなきゃいけないと思った。手紙のこと。大祭のこと。あの石のこと。言いたいことが喉のところで全部ぶつかって、一つも出てこなかった。
父さんも、何も言わなかった。
「立ち話もなんだから」
おかみさんが、箒を壁に立てかけた。
「中へお入りよ。お茶くらい、出すからさ」
◇
食堂の隅の卓に、五人で座った。
おかみさんが茶を置いていった。湯気が五つ並んだ。誰も手をつけなかった。
「どうして、この宿が」
やっと出てきたのは、そんな言葉だった。
「ガンツのとこへ寄った」
父さんは、茶碗を見たまま答えた。
「お前の居場所なら、あいつが知ってると思ってな」
そのとき、宿の戸が開いた。
三つ編みの灰色の髭。ガンツ親方だった。工房の前掛けをつけたまま、肩で息をしていた。
親方は食堂を見まわした。父さんを見て、母さんを見て、シェイラを見て、最後に俺を見た。
「聞いたか」
「……これからです」
親方は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、ふんと鼻を鳴らした。
「なら、儂の出る幕はない」
王都に来たばかりのころ、親方の工房でこのナイフを見せたことがある。親父さんは元気か、と聞かれた。どうして父さんを知っているのか聞き返しても、親方は答えなかった。
本人に聞け。
それだけだった。
「やっと、本人が来たな」
親方は、父さんの肩を拳で一度だけ叩いた。父さんは、何も言わずにその拳を受けた。
親方は前掛けの紐を結びなおしながら、戸口へ戻っていった。戸を閉める前に、一度だけ振り返った。
「積もる話は、明日聞いてやる。酒は、お前が持ってこい」
戸が閉まった。
母さんが、外套の内側から折りたたんだ紙を取りだした。見覚えのある紙だった。俺が書いて、ルクス行きの商隊に託した手紙だった。
「読んだわ」
母さんは、手紙を卓の上に置いた。指先で、紙の端をそっとなでた。
「大祭のことも、泡のことも。陛下の前に出たことも。噂より、ちょっとだけ早かったわ」
「……ちょっとだけ?」
「ルクスの串焼き屋さんが、先に知ってたの」
ネルが小さく吹きだしかけて、あわてて口を押さえた。
母さんは、手紙をめくった。最後の一枚。俺の字の下に、小さく、一画ずつ力をこめた字が並んでいた。
「この人ね」
母さんが、父さんを横目で見た。
「手紙を読んでも、行かないって言ってたの。行けば、また掘り返すことになるって。でも、この一行を読んだ次の朝には、納屋から背負い袋を出してた」
母さんは、手紙をこっちへ向けた。
『リトは、一人じゃありません。 ネル』
俺は、その字を見た。
それから、隣のネルを見た。
ネルの耳が、根もとから真っ赤になっていた。
「見せないでって、言ったのに」
「あら。リトに見せないでとは、書いてなかったわよ」
「書いてなくても!」
ネルは両手で顔を覆った。尻尾が、椅子の脚にばたんばたんと当たった。
「一人ってのは、ほんとに一人だ」
父さんが、ぽつりと言った。
家に帰ったとき、薪割りの合間に、ナイフを持たせた理由を半分だけ話してくれた。そのときの言葉だった。
「そう思って、ナイフを持たせた。……一人じゃないって言うなら、見に行かなきゃならんと思った」
父さんは、ネルのほうを見た。
「その一人じゃない顔を、な」
ネルは指の隙間から父さんを見て、また顔を覆った。
俺は、腰のナイフを抜いた。
柄の茶色い布は、ほどいたままだった。卓の上に置くと、二本の線が斜めに交わった刻印が、ランプの明かりの中に浮かびあがった。
父さんの目が、そこで止まった。
「暁の星」
俺は言った。
「ギルドの裏で、石を見た。父さんと母さんの名前が、刻んであった」
食堂のざわめきが、少しだけ遠くなった気がした。
「……見たか」
父さんの声は低かった。
「見た。シェイラが、連れていってくれた」
父さんは、シェイラを見た。シェイラは目をそらさなかった。
「俺、未開の地へ行く」
俺は、ナイフから手を離さずに言った。
「手続きは、もう済んでる。三人で行く。夏の初めに出る」
「行かせん」
すぐだった。考えるより先に出た声みたいだった。
「S級になったのは知ってる。手紙に書いてあった。それでも、行かせん」
「なんで」
「あそこがどういう場所か、お前は知らん」
「知らないよ」
声が大きくなった。隣の卓の客が、こっちを振り向いた。
「知らないよ。だって、誰も教えてくれなかったじゃないか。ガンツ親方も、ギルドマスターも、シェイラも、みんな本人に聞けって。父さんは、ただの狩人だって言った。十五年、ずっと」
止まらなかった。
あの石の前で飲みこんだ冷たいものが、喉の奥からせりあがってきた。
「仲間を置いてきた人に、行くなって言われたくない」
言った瞬間、自分の声が耳に返ってきた。
父さんの右手が、卓の上で拳になった。
拳が、持ちあがりかけた。
そこで、止まった。
卓から指一本ぶん浮いたところで、ぴたりと。
ネルの手が、俺の袖をつかんでいた。
父さんの拳は、ゆっくりと卓の上に戻った。開かなかった。握ったまま、小さく震えていた。
「だから言ったでしょう」
母さんの声だった。静かな声だった。
俺にではなかった。父さんに言っていた。
「ナイフを渡すとき、私、言ったわよね。あれを持たせたら、あの子はいつか自分で見つける。見つけたら、こういう顔をするって」
父さんは、何も答えなかった。
母さんは手紙を折りたたんで、外套の内側に戻した。それから、立ちあがった。
「話すなら、ここじゃないわ」
「……どこで」
父さんが、顔を上げた。
母さんは、窓の外を見た。日はもう落ちて、通りに灯りがともりはじめていた。
「みんなの前で」
シェイラが、腰の小さな袋から古い鉄の鍵を取りだした。
◇
ギルドの裏は暗かった。
訓練場にはもう誰もいなかった。おかみさんに借りたランプの明かりだけが、五人の足もとを照らしていた。物置の角を曲がると、蔦に覆われた鉄の柵が見えた。
柵の手前に、大きな影が立っていた。
岩を削ったような体。顔の古い傷が、ランプの明かりで深く見えた。
ギルドマスターだった。
「……老けたな」
父さんが、先に言った。
「お前ほどじゃない」
ギルドマスターは、父さんを上から下まで見た。それから、母さんに小さく頭を下げた。
「村の名を見たときから、そのうち来ると思っていた」
推薦の書付に俺が「南の果ての、コルー村」と書いたとき、ギルドマスターの指は村の名前の上で止まった。あの長い沈黙の意味が、やっとわかった。
「名簿のことは、すまん。止められなかった」
「お前のせいじゃない」
父さんは首を振った。
「こいつが、自分で書いた名前だ」
ギルドマスターは、うなずいた。それ以上は何も言わずに、俺たちの横を通りすぎた。物置の角で一度だけ足を止めたけれど、振り返らなかった。
足音が、訓練場の向こうへ遠ざかっていった。
シェイラが、錠前に鍵を差しこんだ。門が、きしんだ音を立てて開いた。
父さんは門の前で一度だけ立ち止まって、それから中へ入った。
ランプを持ちあげると、黒い石が闇の中から浮かびあがった。上ほど古い、たくさんの名前。その中ほどに、二本の線が交わった紋。
暁の星。
ブラム。エルザ。ユーリ。オーウェル。サラ。
父さんは、長いあいだ石を見上げていた。
「生きてるうちに、自分の名前を見ることになるとはな」
母さんが、紋の下にしゃがんだ。指先で、一つ目の名前に触れた。それから二つ目、三つ目。自分の名前の前で、指が止まった。
「みんな、ここにいたのね」
誰に言ったのかは、わからなかった。
◇
「出発の、前の晩だった」
話しはじめたのは、母さんだった。
石の前に座ったまま、俺のほうは見ずに、名前を見上げていた。
「ギルドの近くの宿で、六人で最後の晩ご飯を食べてたの。焼き菓子を一つ、いつもみたいに分けて」
母さんは、自分のお腹のあたりにそっと手を当てた。
「その晩、みんなに話したの」
俺は、息を止めていた。
「あなたが、いたのよ。リト」
ランプの火が、小さく揺れた。
「私は、一人で残るって言った。オーウェルは行って、って。癒し手の代わりは、薬でなんとかなる。でも、前に立つ人の代わりは、いないから」
「俺は、どっちも選べなかった」
父さんが、石を見上げたまま言った。
「行くとも、残るとも言えなかった。卓の前で、ただ黙ってた」
父さんの口のはしが、少しだけ動いた。笑ったのかどうかは、わからなかった。
「そしたら、ブラムが笑ったんだ」
「二人とも残れ、って」
母さんが続けた。
「いつもの大きな声で。決めるのは俺だ、リーダーだからな、って。誰も言い返せなかった。エルザは呆れた顔をして、ユーリは泣きそうな顔をしてた」
「それで、ブラムは焼き菓子の残りを指さして言ったんだ」
父さんは、石の一つ目の名前を見ていた。
「帰ってきたら、その子に、いちばん大きいのをやる。……俺のぶんから、ってな」
中庭が、しんとした。
シェイラが、一歩前に出た。
「それ」
声が、かすれていた。
「知らない」
父さんが、シェイラを見た。
「お前は、先に宿へ戻ってただろう。剣の手入れをするって」
「……うん」
シェイラは、石を見上げた。紫の目が、ランプの明かりの中で揺れていた。
「いつも、大きいほう、取ってたのに」
「ああ」
「最後に、譲るつもりだったんだ」
シェイラの指が、腰の曲刀の柄をきつく握っていた。
私の知ってるみんなと、あの二人の知ってるみんなは、少し違うから。
ひと月前、シェイラがこの石の前で言った言葉が、今になって胸に落ちてきた。
「四人は、次の朝に出ていった。笑って、手を振ってな」
父さんは続けた。
「それきりだ」
「季節が二つ変わったころ、帰ってきたのは、シェイラ一人だった」
母さんが、そっと言った。
「シェイラはね、ギルドに報告するより先に、私たちのところへ来たの。泥だらけで、何も言わないで、戸口に立ってた」
シェイラは、何も言わなかった。
「なんで」
俺の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「なんで、名前を隠したの」
父さんは、しばらく黙っていた。
「帰らなかったS級パーティの、残りの二人」
やがて、そう言った。
「生きてると知れれば、国は必ず頼みに来る。一度断っても、二度目が来る。三度目が来る。仲間の名前を出して、な」
「でも、S級は国の干渉を受けないって。陛下が」
「決まりは、決まりだ。頼みに来るのは、干渉じゃない」
父さんは、拳を握った。食堂で浮きかけて止まった、あの拳だった。
「それに、俺は」
声が、少しだけ揺れた。
「三度目は、断れる気がしなかった」
母さんが、父さんの肩に手を置いた。
「この人は、行ってしまう人なの。仲間が呼んでるって思ったら、生まれたばかりの子どもがいても、きっと行ってしまう。だから、呼ばれない場所へ行ったの。名前を置いて」
俺は、ナイフの柄を握っていた。
「印の木から先へ、行かなかったのは」
父さんは、ああ、と短く答えた。
「あの先は、六人で歩いた道だ。出発の前に、みんなで黒樹の森の奥まで足を慣らしに行った。窪地の炉も、あのとき組んだ。木に紋を刻んだのは、ブラムだ」
父さんは、石の紋を見上げた。
「一人で歩くには、静かすぎる」
◇
俺は、石の前に立ったまま、何も言えなかった。
逃げたんじゃなかった。
置いていったんじゃなかった。
置いていかれたんだ。笑って、手を振られて。ブラムという人が、まだ生まれてもいない俺に、いちばん大きい焼き菓子を約束して。
それで、二人は残った。
俺が、いたから。
胸の奥の冷たいものが、溶けていくのがわかった。でも、溶けたあとに残ったのは、もっと重いものだった。
父さんと母さんが、仲間と追いかけていた場所。城の小さな部屋で、迷いのない顔で「行きたい」と言った場所。
未開の地。
俺がずっと夢に見てきた場所は、二人が俺のために手放した場所だった。
S級になって、未開の地へ行く。見たことないもの、全部見る。五歳の夜、母さんが読んでくれた本を前に、俺はそう言った。
あのとき、母さんはどんな顔をしていたんだろう。
父さんの手は、どうして一瞬止まったんだろう。
「リト」
母さんが、俺の名前を呼んだ。
俺は、首を振った。何を言われても、今は受けとめられない気がした。
「……ごめん」
それだけ言って、門の外へ出た。
背中で、ネルが立ちあがる気配がした。
「追いかけます」
ネルの声だった。父さんたちに言ったのか、自分に言い聞かせたのか、わからなかった。
物置の角で、一度だけ振り返った。
ランプの小さな明かりの中に、三つの影が並んでいた。黒い石の前で、父さんと母さんとシェイラが、五つの名前を見上げていた。
十六年ぶりに、あの三人が、そこにそろっていた。




