↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/100

いちばん大きいほう


誰も、動かなかった。


坂の上から吹いてくる夕方の風が、シェイラの銀色の髪を揺らした。宿の戸口では、おかみさんが箒を持ったまま固まっていた。


最初に動いたのは、母さんだった。


旅の埃のついた外套の裾を揺らして、石畳をまっすぐ歩いてきた。俺の前を通りすぎた。ネルの前も、通りすぎた。


シェイラの前で、止まった。


「……シェイラ」


母さんは、それだけ言った。


それから両腕を伸ばして、シェイラを抱きしめた。


シェイラは、腕を下ろしたままだった。背の高いシェイラの肩に、母さんの額が押しつけられていた。母さんの肩が少しだけ震えていた。


長い耳の先が、ゆっくりと下がっていった。


「……来た」


シェイラの声は小さかった。ひと月前、慰霊碑の前で俺に言ったのと同じ言葉だった。でも、まるで違う声だった。


父さんが、肩の背負い袋を下ろした。母さんの肩ごしに、シェイラを見下ろした。


「森で、こいつらの後ろを歩いてたのは、お前だな」


シェイラは、父さんを見上げた。


「うん」


「足跡が二つしかなかった。窪地まで行って、二つのまま帰ってこられるわけがねえと思った」


父さんは、短く息を吐いた。


「……世話になった」


俺は、黒樹の森の出口を思いだしていた。日が沈むころ、斧の柄を地面について待っていた父さん。足もとを見て、森の奥を見て、「……二つ、か」とつぶやいた。


あのとき父さんは、足跡に残らないもう一人を数えていたんだ。


父さんの目が、俺に向いた。


何か言わなきゃいけないと思った。手紙のこと。大祭のこと。あの石のこと。言いたいことが喉のところで全部ぶつかって、一つも出てこなかった。


父さんも、何も言わなかった。


「立ち話もなんだから」


おかみさんが、箒を壁に立てかけた。


「中へお入りよ。お茶くらい、出すからさ」



◇


食堂の隅の卓に、五人で座った。


おかみさんが茶を置いていった。湯気が五つ並んだ。誰も手をつけなかった。


「どうして、この宿が」


やっと出てきたのは、そんな言葉だった。


「ガンツのとこへ寄った」


父さんは、茶碗を見たまま答えた。


「お前の居場所なら、あいつが知ってると思ってな」


そのとき、宿の戸が開いた。


三つ編みの灰色の髭。ガンツ親方だった。工房の前掛けをつけたまま、肩で息をしていた。


親方は食堂を見まわした。父さんを見て、母さんを見て、シェイラを見て、最後に俺を見た。


「聞いたか」


「……これからです」


親方は、しばらく俺の顔を見ていた。


それから、ふんと鼻を鳴らした。


「なら、儂の出る幕はない」


王都に来たばかりのころ、親方の工房でこのナイフを見せたことがある。親父さんは元気か、と聞かれた。どうして父さんを知っているのか聞き返しても、親方は答えなかった。


本人に聞け。


それだけだった。


「やっと、本人が来たな」


親方は、父さんの肩を拳で一度だけ叩いた。父さんは、何も言わずにその拳を受けた。


親方は前掛けの紐を結びなおしながら、戸口へ戻っていった。戸を閉める前に、一度だけ振り返った。


「積もる話は、明日聞いてやる。酒は、お前が持ってこい」


戸が閉まった。


母さんが、外套の内側から折りたたんだ紙を取りだした。見覚えのある紙だった。俺が書いて、ルクス行きの商隊に託した手紙だった。


「読んだわ」


母さんは、手紙を卓の上に置いた。指先で、紙の端をそっとなでた。


「大祭のことも、泡のことも。陛下の前に出たことも。噂より、ちょっとだけ早かったわ」


「……ちょっとだけ?」


「ルクスの串焼き屋さんが、先に知ってたの」


ネルが小さく吹きだしかけて、あわてて口を押さえた。


母さんは、手紙をめくった。最後の一枚。俺の字の下に、小さく、一画ずつ力をこめた字が並んでいた。


「この人ね」


母さんが、父さんを横目で見た。


「手紙を読んでも、行かないって言ってたの。行けば、また掘り返すことになるって。でも、この一行を読んだ次の朝には、納屋から背負い袋を出してた」


母さんは、手紙をこっちへ向けた。


『リトは、一人じゃありません。 ネル』


俺は、その字を見た。


それから、隣のネルを見た。


ネルの耳が、根もとから真っ赤になっていた。


「見せないでって、言ったのに」


「あら。リトに見せないでとは、書いてなかったわよ」


「書いてなくても!」


ネルは両手で顔を覆った。尻尾が、椅子の脚にばたんばたんと当たった。


「一人ってのは、ほんとに一人だ」


父さんが、ぽつりと言った。


家に帰ったとき、薪割りの合間に、ナイフを持たせた理由を半分だけ話してくれた。そのときの言葉だった。


「そう思って、ナイフを持たせた。……一人じゃないって言うなら、見に行かなきゃならんと思った」


父さんは、ネルのほうを見た。


「その一人じゃない顔を、な」


ネルは指の隙間から父さんを見て、また顔を覆った。


俺は、腰のナイフを抜いた。


柄の茶色い布は、ほどいたままだった。卓の上に置くと、二本の線が斜めに交わった刻印が、ランプの明かりの中に浮かびあがった。


父さんの目が、そこで止まった。


「暁(あかつき)の星」


俺は言った。


「ギルドの裏で、石を見た。父さんと母さんの名前が、刻んであった」


食堂のざわめきが、少しだけ遠くなった気がした。


「……見たか」


父さんの声は低かった。


「見た。シェイラが、連れていってくれた」


父さんは、シェイラを見た。シェイラは目をそらさなかった。


「俺、未開の地へ行く」


俺は、ナイフから手を離さずに言った。


「手続きは、もう済んでる。三人で行く。夏の初めに出る」


「行かせん」


すぐだった。考えるより先に出た声みたいだった。


「S級になったのは知ってる。手紙に書いてあった。それでも、行かせん」


「なんで」


「あそこがどういう場所か、お前は知らん」


「知らないよ」


声が大きくなった。隣の卓の客が、こっちを振り向いた。


「知らないよ。だって、誰も教えてくれなかったじゃないか。ガンツ親方も、ギルドマスターも、シェイラも、みんな本人に聞けって。父さんは、ただの狩人だって言った。十五年、ずっと」


止まらなかった。


あの石の前で飲みこんだ冷たいものが、喉の奥からせりあがってきた。


「仲間を置いてきた人に、行くなって言われたくない」


言った瞬間、自分の声が耳に返ってきた。


父さんの右手が、卓の上で拳になった。


拳が、持ちあがりかけた。


そこで、止まった。


卓から指一本ぶん浮いたところで、ぴたりと。


ネルの手が、俺の袖をつかんでいた。


父さんの拳は、ゆっくりと卓の上に戻った。開かなかった。握ったまま、小さく震えていた。


「だから言ったでしょう」


母さんの声だった。静かな声だった。


俺にではなかった。父さんに言っていた。


「ナイフを渡すとき、私、言ったわよね。あれを持たせたら、あの子はいつか自分で見つける。見つけたら、こういう顔をするって」


父さんは、何も答えなかった。


母さんは手紙を折りたたんで、外套の内側に戻した。それから、立ちあがった。


「話すなら、ここじゃないわ」


「……どこで」


父さんが、顔を上げた。


母さんは、窓の外を見た。日はもう落ちて、通りに灯りがともりはじめていた。


「みんなの前で」


シェイラが、腰の小さな袋から古い鉄の鍵を取りだした。



◇


ギルドの裏は暗かった。


訓練場にはもう誰もいなかった。おかみさんに借りたランプの明かりだけが、五人の足もとを照らしていた。物置の角を曲がると、蔦に覆われた鉄の柵が見えた。


柵の手前に、大きな影が立っていた。


岩を削ったような体。顔の古い傷が、ランプの明かりで深く見えた。


ギルドマスターだった。


「……老けたな」


父さんが、先に言った。


「お前ほどじゃない」


ギルドマスターは、父さんを上から下まで見た。それから、母さんに小さく頭を下げた。


「村の名を見たときから、そのうち来ると思っていた」


推薦の書付に俺が「南の果ての、コルー村」と書いたとき、ギルドマスターの指は村の名前の上で止まった。あの長い沈黙の意味が、やっとわかった。


「名簿のことは、すまん。止められなかった」


「お前のせいじゃない」


父さんは首を振った。


「こいつが、自分で書いた名前だ」


ギルドマスターは、うなずいた。それ以上は何も言わずに、俺たちの横を通りすぎた。物置の角で一度だけ足を止めたけれど、振り返らなかった。


足音が、訓練場の向こうへ遠ざかっていった。


シェイラが、錠前に鍵を差しこんだ。門が、きしんだ音を立てて開いた。


父さんは門の前で一度だけ立ち止まって、それから中へ入った。


ランプを持ちあげると、黒い石が闇の中から浮かびあがった。上ほど古い、たくさんの名前。その中ほどに、二本の線が交わった紋。


暁(あかつき)の星。


ブラム。エルザ。ユーリ。オーウェル。サラ。


父さんは、長いあいだ石を見上げていた。


「生きてるうちに、自分の名前を見ることになるとはな」


母さんが、紋の下にしゃがんだ。指先で、一つ目の名前に触れた。それから二つ目、三つ目。自分の名前の前で、指が止まった。


「みんな、ここにいたのね」


誰に言ったのかは、わからなかった。



◇


「出発の、前の晩だった」


話しはじめたのは、母さんだった。


石の前に座ったまま、俺のほうは見ずに、名前を見上げていた。


「ギルドの近くの宿で、六人で最後の晩ご飯を食べてたの。焼き菓子を一つ、いつもみたいに分けて」


母さんは、自分のお腹のあたりにそっと手を当てた。


「その晩、みんなに話したの」


俺は、息を止めていた。


「あなたが、いたのよ。リト」


ランプの火が、小さく揺れた。


「私は、一人で残るって言った。オーウェルは行って、って。癒し手の代わりは、薬でなんとかなる。でも、前に立つ人の代わりは、いないから」


「俺は、どっちも選べなかった」


父さんが、石を見上げたまま言った。


「行くとも、残るとも言えなかった。卓の前で、ただ黙ってた」


父さんの口のはしが、少しだけ動いた。笑ったのかどうかは、わからなかった。


「そしたら、ブラムが笑ったんだ」


「二人とも残れ、って」


母さんが続けた。


「いつもの大きな声で。決めるのは俺だ、リーダーだからな、って。誰も言い返せなかった。エルザは呆れた顔をして、ユーリは泣きそうな顔をしてた」


「それで、ブラムは焼き菓子の残りを指さして言ったんだ」


父さんは、石の一つ目の名前を見ていた。


「帰ってきたら、その子に、いちばん大きいのをやる。……俺のぶんから、ってな」


中庭が、しんとした。


シェイラが、一歩前に出た。


「それ」


声が、かすれていた。


「知らない」


父さんが、シェイラを見た。


「お前は、先に宿へ戻ってただろう。剣の手入れをするって」


「……うん」


シェイラは、石を見上げた。紫の目が、ランプの明かりの中で揺れていた。


「いつも、大きいほう、取ってたのに」


「ああ」


「最後に、譲るつもりだったんだ」


シェイラの指が、腰の曲刀の柄をきつく握っていた。


私の知ってるみんなと、あの二人の知ってるみんなは、少し違うから。


ひと月前、シェイラがこの石の前で言った言葉が、今になって胸に落ちてきた。


「四人は、次の朝に出ていった。笑って、手を振ってな」


父さんは続けた。


「それきりだ」


「季節が二つ変わったころ、帰ってきたのは、シェイラ一人だった」


母さんが、そっと言った。


「シェイラはね、ギルドに報告するより先に、私たちのところへ来たの。泥だらけで、何も言わないで、戸口に立ってた」


シェイラは、何も言わなかった。


「なんで」


俺の声は、自分でも驚くほど小さかった。


「なんで、名前を隠したの」


父さんは、しばらく黙っていた。


「帰らなかったS級パーティの、残りの二人」


やがて、そう言った。


「生きてると知れれば、国は必ず頼みに来る。一度断っても、二度目が来る。三度目が来る。仲間の名前を出して、な」


「でも、S級は国の干渉を受けないって。陛下が」


「決まりは、決まりだ。頼みに来るのは、干渉じゃない」


父さんは、拳を握った。食堂で浮きかけて止まった、あの拳だった。


「それに、俺は」


声が、少しだけ揺れた。


「三度目は、断れる気がしなかった」


母さんが、父さんの肩に手を置いた。


「この人は、行ってしまう人なの。仲間が呼んでるって思ったら、生まれたばかりの子どもがいても、きっと行ってしまう。だから、呼ばれない場所へ行ったの。名前を置いて」


俺は、ナイフの柄を握っていた。


「印の木から先へ、行かなかったのは」


父さんは、ああ、と短く答えた。


「あの先は、六人で歩いた道だ。出発の前に、みんなで黒樹の森の奥まで足を慣らしに行った。窪地の炉も、あのとき組んだ。木に紋を刻んだのは、ブラムだ」


父さんは、石の紋を見上げた。


「一人で歩くには、静かすぎる」



◇


俺は、石の前に立ったまま、何も言えなかった。


逃げたんじゃなかった。


置いていったんじゃなかった。


置いていかれたんだ。笑って、手を振られて。ブラムという人が、まだ生まれてもいない俺に、いちばん大きい焼き菓子を約束して。


それで、二人は残った。


俺が、いたから。


胸の奥の冷たいものが、溶けていくのがわかった。でも、溶けたあとに残ったのは、もっと重いものだった。


父さんと母さんが、仲間と追いかけていた場所。城の小さな部屋で、迷いのない顔で「行きたい」と言った場所。


未開の地。


俺がずっと夢に見てきた場所は、二人が俺のために手放した場所だった。


S級になって、未開の地へ行く。見たことないもの、全部見る。五歳の夜、母さんが読んでくれた本を前に、俺はそう言った。


あのとき、母さんはどんな顔をしていたんだろう。


父さんの手は、どうして一瞬止まったんだろう。


「リト」


母さんが、俺の名前を呼んだ。


俺は、首を振った。何を言われても、今は受けとめられない気がした。


「……ごめん」


それだけ言って、門の外へ出た。


背中で、ネルが立ちあがる気配がした。


「追いかけます」


ネルの声だった。父さんたちに言ったのか、自分に言い聞かせたのか、わからなかった。


物置の角で、一度だけ振り返った。


ランプの小さな明かりの中に、三つの影が並んでいた。黒い石の前で、父さんと母さんとシェイラが、五つの名前を見上げていた。


十六年ぶりに、あの三人が、そこにそろっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。