仲間の数
次の朝、俺はギルドへ行けなかった。
行けなかったというより、足が向かなかった。ギルドの裏には、あの石がある。ホールを抜けて掲示板の前に立つことを考えただけで、胸の奥が重くなった。
宿の部屋で靴ひもを結んだまま座っていると、扉が叩かれた。
「入るわよ」
ネルだった。手に、雑巾と小さな桶を二つずつ持っていた。
「掃除、終わってないのよ」
「……店の?」
「ほかに何があるの。棚、まだ半分しか拭いてないでしょ」
ネルは、俺の手に雑巾と桶を一つずつ押しつけた。それから、何も聞かずに部屋を出ていった。
俺は、しばらく雑巾を見ていた。
それから、立ちあがった。
◇
ばあちゃんの店は、朝の光の中で見ると、昨日よりずっと明るかった。
糸巻きと針の看板。繕った日よけの布。窓の板は、昨日のうちに全部外してあった。向かいの八百屋のおばさんが、店先から手を振った。
ネルは、俺に棚を任せて、自分は床を掃きはじめた。
棚は、天井まで届くほど高かった。梯子にのぼって、上の段から一枚ずつ拭いていく。拭いても拭いても、雑巾は灰色になった。桶の水を替えに外の井戸まで行って、戻って、また拭いた。
ネルは、何も話しかけてこなかった。
ときどき「そこ、まだ残ってる」とか「水、替えて」とか言うだけだった。俺の顔は、見なかった。見ないようにしているのが、わかった。
手を動かしているあいだは、あの石のことを考えずにすんだ。
いちばん上の段の右の端まで来たとき、雑巾を持つ手が止まった。白い四角の跡。拭くと、そこだけ板の色が少し明るく見えた。
「そこは、そっと拭いて」
下から、ネルの声がした。
俺は、言われたとおりにそっと拭いた。
◇
昼になって、二人で裁ち台に腰かけて、堅焼きのパンをかじった。
窓から入る光の中で、埃が小さく光りながら舞っていた。坂の下から、荷車の音が聞こえてきた。
パンを半分くらい食べたところで、俺は口を開いた。
「父さんと母さん」
ネルの耳が、こっちを向いた。
「仲間を置いて、逃げたのかもしれない」
言ってしまってから、自分の声がやけに小さかったことに気づいた。
ネルは、パンを持った手を下ろした。
「……は?」
「一緒に行くはずだったって。でも、来なかったって。それで、仲間は誰も帰ってこなくて。父さんと母さんは名前を隠して、南の果ての村で、ずっと」
「リト」
ネルの声が、低くなった。
「あたしは、そうは見えなかった」
ネルは、裁ち台から下りて、俺の正面に立った。耳が、ぴんと立っていた。尻尾の毛が、少しだけ逆立っていた。
怒っている顔だった。
「あたしが、あんたの家で見たこと、言ってあげる」
ネルは、指を一本立てた。
「あんたの父さんは、森の入口で、日が沈むまで待ってた。斧の柄を地面について、ずっと。出発した朝と、同じ場所で」
二本目の指。
「出かける前に、あたしに言ったのよ。こいつが引けねえとき、首根っこをつかんで引っぱって帰れるのは嬢ちゃんだけだ、って」
三本目の指。
「あんたの母さんは、薬を包んで、使わずに返しに来て、って言った。返しに来て、よ。帰ってこい、って意味でしょ」
ネルは、三本の指を立てたまま、俺をにらんだ。
「逃げる人はね。引っぱって帰ってこい、なんて言わないの」
俺は、何も言えなかった。
「何があったかなんて、あたしは知らない。でも、あたしは、あの二人を見た。あんたの家で、ちゃんと見たの。あたしの目は、そういうの、外さないんだから」
ネルは、指を下ろした。
それから、少しだけ声を落とした。
「……あんたのほうが、ずっと長く見てきたでしょ。十五年も」
窓の外で、八百屋のおばさんが誰かと笑う声がした。
俺は、手の中のパンを見下ろした。母さんが持たせてくれた堅焼きと、同じ形のパンだった。
「……ああ」
やっと、それだけ言えた。
ネルは、ふんと鼻を鳴らして、また裁ち台に腰かけた。パンをがぶりとかじった。
尻尾が、俺の背中に一回だけ、ぱたりと当たった。
◇
午後、店の戸口に灰色の外套が立った。
ヴァルトさんだった。焼き栗の紙袋を片手に、看板を見上げていた。
「いい看板だ」
「ヴァルトさん。どうして、ここが」
「八百屋が、泡の旦那が掃除をしてると触れまわっていた」
ネルが、向かいの店をじろりとにらんだ。おばさんは、知らん顔で大根を並べていた。
ヴァルトさんは、紙袋の口をこっちへ向けた。ネルが一つ、俺も一つ取った。ヴァルトさんは戸口の石段に腰を下ろして、自分も一つ割った。
しばらく、三人で黙って栗を食べた。
「春の試験のあと、俺はギルドマスターにこう言った」
ヴァルトさんが、ぽつりと言った。
「何かが見えた。だが、何が見えたのかがわからん、と」
俺は、栗の皮をむく手を止めた。
「大祭の日、俺も広場にいた。白い柱も、雲が割れるのも見た。あれで、お前の泡のことはわかった。誰が見ても、わかる」
ヴァルトさんは、外套の内側から古い革の手帳を取りだした。角のすり切れた、あの手帳だった。
「だが、俺がわからなかったのは、そこじゃなかった」
手帳を膝の上で開いて、腰の小さな筆を抜いた。
「霧の渡しで、お前は泡を見せなかった。見せれば、あの場はもっと早く片づいた。それでも見せなかった。王女の左に立ったまま、最後まで」
ヴァルトさんは、手帳に何かを書きはじめた。
「大祭の広場では、見せた。王都じゅうに、隠しようもないくらいにな」
筆が、止まった。
「隠すのも、見せるのも。お前は、同じ理由でやっていた」
ヴァルトさんは、手帳をこっちへ向けた。
癖のない、細い字だった。端に小さく、ではなかった。ページの真ん中に、ほかの行と同じ大きさで書いてあった。
『隠していたのは、力ではない。守る相手のほうだった』
「見えたものは、書く」
ヴァルトさんは、手帳を閉じた。
「やっと、書けた」
それだけ言って、立ちあがった。焼き栗の紙袋を、ネルの膝の上に置いていった。坂を上っていく灰色の背中は、いつもと同じ速さだった。
俺は、閉じた手帳のことを考えていた。
隠すやつは、何かを守っている。
父さんと母さんは、名前を隠した。十五年以上、南の果ての村で、誰にも言わずに。
二人は、何を守っていたんだろう。
答えは、まだ出なかった。でも、朝よりも少しだけ、胸の奥の石が軽くなった気がした。
◇
夕方、俺は一人でギルドの裏へ行った。
物置の陰の、鉄の柵。門は閉まっていた。でも、柵の内側の石の前に、銀色の髪が見えた。
声をかける前に、シェイラが振り向いた。
「来た」
シェイラは、門の錠前に鍵を差しこんで、開けてくれた。昨日、ギルドマスターから渡された鍵だった。
俺は、石の前に並んで立った。
二本の線が交わった紋。五つの名前。石畳の上の半分の焼き菓子は、もうなかった。鳥が持っていったのかもしれない。
「聞いても、いいですか」
「何を」
「父さんと母さんのことじゃなくて」
俺は、石の名前を見上げた。
「みんなのこと。どんな人たちだったのか」
シェイラは、少しだけ目を見開いた。
それから、石に目を戻した。
「ブラムは、大きかった。盾を持ってた。いつも先頭」
指が、一つ目の名前をなぞった。
「焼き菓子を分けると、いつも大きいほうを取った。それで、いつも怒られた」
「誰に」
「サラ」
俺は、思わずシェイラの顔を見た。
「サラは、いつも最後に怒る人だった。みんなが笑って、それで終わりにしようとすると、最後に一人だけ、ちゃんと怒る」
シェイラの口のはしが、ほんの少しだけ上がった。
「オーウェルは、いつもいちばん大きな声で笑ってた。サラに怒られても、笑ってた」
それは、知っている二人だった。
母さんが黙ってパンを足す手。父さんが笑いながら「落ちてた」とごまかす顔。それと同じ二人が、この石の名前の中にいた。
「エルザとユーリのことは」
「今度」
シェイラは、首を振った。
「ぜんぶは、話さない。あの二人が来たら、あの二人からも聞いて。私の知ってるみんなと、あの二人の知ってるみんなは、少し違うから」
石の上を、夕方の風が通りすぎていった。
◇
柵の外で、足音がした。
「やっぱり、ここだった」
ネルだった。走ってきたのか、少し息が上がっていた。手に、紙の包みを持っていた。
あの菓子屋の包みだった。
ネルは、門をくぐって、俺とシェイラのあいだにずかずかと割りこんだ。それから、包みをシェイラの胸に押しつけた。
「はい」
シェイラが、包みを見下ろした。
「なに」
「焼き菓子。一個だけ」
ネルは、腕を組んだ。耳が、ぴんと立っていた。
「あんたも来なさいよ。未開の地」
中庭が、しんとした。
「ちょうど、S級がもう一人いるのよ。いれば、行ける。それに」
ネルは、ちらりと石の名前を見た。それから、目をそらした。
「来るなら、焼き菓子、半分こしてあげる。毎回」
シェイラは、何も言わなかった。包みを持ったまま、ネルを見ていた。
俺は、一歩前に出た。
「来てください。一緒に」
シェイラの紫の目が、俺のほうを向いた。
「私が行けば、君のパーティは、S級パーティ」
「はい」
「それが、目当て?」
「違います」
俺は、すぐに答えた。
「シェイラさんがいないと、ネルの焼き菓子の半分こが、成り立たないので」
ネルが、俺の脇腹を肘でどすんと突いた。
シェイラは、しばらく黙っていた。包みの紐の結び目を、指先でなぞっていた。
それから、石を見上げた。
「昔、決めた」
小さな声だった。
「もう、誰とも組まない。誰も、置いていきたくないから。それに、置いていかれるのも、もう嫌だったから」
シェイラは、包みを胸に抱えなおした。
「でも、君たちは、置いていかないでしょ」
「置いていきません」
「置いてかないわよ。首根っこつかんで、引っぱって帰るんだから」
ネルが、そっぽを向いたまま言った。
シェイラは、ネルの横顔を見た。それから、俺を見た。
「だから、今度は、ついていく」
ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。
「一つだけ、条件」
シェイラは、俺のほうへ向きなおった。
「呼び捨てにして。仲間に、さんはいらない」
俺は、口を開いた。
一年以上、ずっと「さん」をつけて呼んできた人だった。焼き菓子の行列で、背後に立たれても気づけなかった人。石切り場の夜に、指を折って俺の秘密を数えた人。
「……シェイラ」
シェイラは、目を閉じた。
焼き菓子を食べたときと、同じ顔だった。
「……うん。いいね、それ」
語尾が、やわらかかった。今まで聞いたどの声よりも。
ネルの尻尾が、ばたばたばたと揺れはじめた。本人の手で押さえても、止まらなかった。
シェイラは、包みを開けた。花の形の焼き菓子を、まんなかからぱきりと割った。
半分を、ネルに。
それから、石のほうを見て、少しだけ迷ってから、自分の半分を、もう一度割った。
小さなかけらを、石の前に置いた。
「報告。仲間、できた」
誰に言ったのかは、聞かなくてもわかった。
◇◆◇
それから、ひと月近くがたった。
ギルドでは、ミリアさんが三人ぶんの書類を前に、しばらく固まっていた。仄かな灯の名簿に、三つ目の名前が書きくわえられた日、ホールは大祭の日の次くらいに騒がしかった。ミリアさんは判を押しながら、「パーティの書き換えで泣いたのは、はじめてです」と笑っていた。
未開の地へ出るための手続きは、思っていたよりずっと多かった。ギルドの記録、国への届け、通る道の関所への書付。シェイラは「前は、ぜんぶブラムがやってた」と言って、ほとんど何もしなかった。ネルが一枚ずつ読んで、全部やった。
支度は、ばあちゃんの店でした。裁ち台に地図を広げて、三人で額をつきあわせた。ネルは外套を三着、裏から縫いなおした。シェイラは、ときどき店のいちばん上の棚の右の端を見上げていた。
春が、終わりかけていた。
◇
その日の夕方、店から宿へ戻る坂の途中で、ネルが足を止めた。
耳が、ぴんと前を向いていた。
「……リト」
宿の戸口に、誰かが立っていた。
大きな背中だった。旅の埃にまみれた外套。肩に、使いこまれた背負い袋。その隣に、もう一人、小柄な人影が並んでいた。
大きな背中は、振り返らなかった。
戸口のほうを向いたまま、低い声で言った。
「足音が、二つ」
俺の足が、止まった。
聞きまちがえるはずのない声だった。
「……だが、三人だな」
大きな背中が、ゆっくりと振り返った。
日に焼けた顔。目じりの深い皺。俺の顔を見て、それから、俺の隣に立つ銀色の髪を見た。
父さんの目が、そこで止まった。
隣で、母さんが口もとに手を当てた。
シェイラは、動かなかった。
足音のしない人の足が、石畳の上で、そのまま止まっていた。




