暁の星
次の朝、宿の戸を開けると、シェイラが向かいの壁にもたれて立っていた。
いつからそこにいたのかは、わからない。おかみさんが、帳場の奥で「朝からずっとだよ」と小声で言った。
シェイラは、胸の前に紙の包みを一つ抱えていた。あの菓子屋の包みだった。紐の結び目が、きれいに揃っている。
「おはよう」
「おはようございます」
「あの子も」
ネルが、俺のうしろから顔を出した。シェイラの手の包みを見て、耳がぴくりと動いた。
「それ、食べないの?」
「食べない。今は」
シェイラは、それだけ言って歩きだした。どこへ行くのか、言わなかった。俺とネルは顔を見合わせて、そのうしろについていった。
朝の大通りは、もう人でいっぱいだった。すれ違う人の何人かが、俺の顔を見て振り返った。シェイラの顔を見て、もう一度振り返った。シェイラは、そのどれにも目を向けなかった。
着いたのは、ギルドだった。
でも、シェイラは正面の扉の前を素通りした。建物の横の細い路地へ入って、裏手へ回っていく。
「裏?」
ネルが首をかしげた。
ギルドの裏には、何度か来たことがある。夜明け前にレオンが素振りをしていた訓練場と、薪や古い樽を積んだ物置。それくらいしかないはずだった。
訓練場の奥の、物置のさらに向こうで、シェイラは足を止めた。
鉄の柵が立っていた。
◇
柵は、俺の背丈より少し高かった。黒い鉄の棒が、蔦に半分覆われて並んでいる。真ん中に小さな門があって、錆びた錠前が下がっていた。
物置の陰になっていて、訓練場からは見えない。一年以上ギルドに通っていて、俺はこの柵に一度も気づかなかった。
「ここ、なに?」
ネルが聞いたとき、うしろで重い足音がした。
ギルドマスターだった。
岩を削ったような大きな体で、物置の角を曲がってきた。手に、古い鉄の鍵を一本持っている。俺とネルを見て、それからシェイラを見た。
何も言わなかった。
ギルドマスターは門の前に立つと、錠前に鍵を差しこんだ。かちりと、重い音がした。門を押すと、錆びた蝶番が低く鳴った。
それから、鍵をシェイラの手にのせた。
「閉めるのは、お前がやれ」
それだけ言って、背を向けた。物置の角を曲がるとき、一度だけ足を止めた。でも、振り返らなかった。
足音が遠くなっていった。
シェイラは、手の中の鍵をしばらく見ていた。それから、門をくぐった。
◇
柵の内側は、小さな中庭だった。
石畳のすきまから、背の低い草が伸びている。誰かがときどき手入れをしているらしく、荒れてはいなかった。表の大通りの声が、ここまではほとんど届かない。
中庭の奥に、黒い石が一つ立っていた。
俺の背丈の倍はある、平たい大きな石だった。表面は磨かれていて、朝の光をにぶく返していた。近づくと、そこにびっしりと文字が刻まれているのがわかった。
名前だった。
いくつも、いくつも。小さな字で、上から下まで。ところどころに、名前のまとまりの頭に、紋のようなものが彫ってある。
「未開の地から、帰らなかった人たち」
シェイラが言った。
「ギルドができてから、ずっと。上のほうが、古い」
ネルが、石を見上げて息を止めた。耳が、ゆっくりと伏せていった。
いちばん上の名前は、雨と風にけずられて、もうほとんど読めなかった。下へいくほど、字がはっきりしてくる。剣の紋、盾の紋、鳥の紋。紋の下に、三つ、四つ、五つと名前が並んで、それが石の下のほうまで続いていた。
シェイラは、石の下のほう、俺の胸の高さのあたりで足を止めた。
そこにも、紋が一つ彫ってあった。
二本の線が、斜めに交わった印。
俺の手が、勝手に上着の内側へ伸びていた。
父さんのナイフを抜く。柄に巻いた茶色い布を、一巻きずつほどいた。王都に来たばかりのころ、ガンツさんに「見る奴が見りゃ、一発でわかる代物だ」と言われて、ネルが巻いてくれた布だ。
刃の根もとの刻印が、出てきた。
二本の線が、斜めに交わった印。
俺は、ナイフを石の紋の横に並べた。
線の長さも、交わる角度も、線の端が少しだけ太くなっているところまで。
同じだった。
紋の横に、文字が刻まれていた。
暁の星。
その下に、名前が五つ並んでいた。
「ブラム」
ネルが、小さな声で読んだ。
「エルザ。ユーリ」
ネルの声が、そこで止まった。
続きを、ネルは読まなかった。俺の顔を見て、それから石に目を戻して、唇をかんだ。
だから、俺が読んだ。
「オーウェル」
声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。
「サラ」
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
中庭の隅で、小さな鳥が一羽、草の実をついばんでいた。
「……よくある、名前です」
俺は、やっとそれだけ言った。
「オーウェルも、サラも。村にも、ルクスにも、同じ名前の人はいる。王都なら、もっといる」
言いながら、自分でもわかっていた。
石の紋と、手の中のナイフの刻印。同じ人が、同じ鑿で彫ったみたいに、同じだった。
「父さんと母さんは、生きてます」
声が、少し大きくなった。
「村で、薪を割ってる。母さんは、裏の畑で薬草を育ててる。ついこのあいだ、俺は、その家に帰ってたんです」
「知ってる」
シェイラは、石を見たまま答えた。
「世間では、あの二人は未開の地で消えたことになってる。ここに名前を刻んだのは、ギルド。帰らなかった者の名は、ここに刻む。それが、決まり」
「でも、帰らなかったわけじゃ」
「うん」
シェイラは、うなずいた。
「元S級。私と、同じパーティ」
その言葉は、静かだった。いつもの、思ったことをそのまま言う声だった。
S級。
父さんが、構えもせずに片手で俺の木剣をいなしたこと。母さんの手の下で、すり傷が翌朝にはいつも小さくなっていたこと。印の木。窪地の古い炉。ガンツさんの「本人に聞け」。
それから、城の小さな部屋で、窓の外を見ていた陛下の声。
その者たちも、そこに立って、同じことを言った。
帰ってきたのは、一人だけだった。
「……シェイラさんの名前は」
俺は、石を見上げた。
「ない」
シェイラは、短く言った。
「生きて帰った者の名は、刻まない」
一人だけ帰ってきた。それが、この人だった。
◇
シェイラは、石の前にしゃがんだ。
抱えていた包みを、紋の真下の石畳に置いた。紐をほどくと、蜂蜜の焼き菓子が一つだけ入っていた。花の形の、あの菓子屋のいちばん人気のものだった。
「一つだけ、なんですね」
ネルが、そっと言った。
「一つで、いいの」
シェイラは、焼き菓子をまんなかからぱきりと割った。
「いつも、一つを分けてた。五人で、一つ。誰が大きいほうを取るかで、毎回もめた」
割った片方を、石の前に置いた。もう片方を、自分の手に残した。
「半分は、みんなの。半分は、私の」
シェイラは、手の中の半分を小さくかじった。噛んで、目を閉じた。
いつもの「美味しい」は、言わなかった。
ネルの尻尾が、ぴくりと動いた。焼き菓子の最後の一つを、二人で同時につかんだ朝。ネルが割って差しだした半分を、シェイラはあっさり受け取った。
あのときこの人は、何を思いだしていたんだろう。
ネルは、何も言わなかった。でも、目のふちが少し赤かった。
「なんで」
俺の声が、かすれた。
「なんで、父さんと母さんの名前が、ここにあるんですか」
シェイラは、焼き菓子のかけらを飲みこんでから、答えた。
「一緒に、行くはずだった」
それから、言葉を一つ置いた。
「でも、二人は、来なかった」
中庭が、しんとした。
来なかった。
その言葉が、胸の奥に落ちていった。冷たい石を一つ、飲みこんだみたいだった。
「どうして」
「それは、私の口から言うことじゃない」
シェイラは、首を振った。
「あの二人が、自分の口で話すこと」
俺は、何か言い返そうとした。でも、何も出てこなかった。
頭の中で、考えたくないことが勝手に形になっていった。
S級のパーティ。未開の地へ。五人で行くはずだった。父さんと母さんは来なかった。仲間は帰らなかった。
二人は、仲間を置いて。
逃げたのか。
袖が、ぎゅっと引かれた。
ネルだった。何も言わずに、俺の袖をつかんでいた。指先が、白くなるくらい強く。
シェイラが、ゆっくりと立ちあがった。
紫の目が、まっすぐに俺を見た。
「一つだけ、言っておく」
シェイラの声は、静かで、少しも揺れなかった。
「私は、あの二人を恨んだことは、一度もない」
俺は、シェイラの顔を見た。
嘘をつくときの顔じゃなかった。そもそもこの人は、嘘をつかない。
「一度も」
シェイラは、もう一度だけ言った。
それから、石の前の半分の焼き菓子に目を落とした。
◇
中庭を出たのは、昼に近くなってからだった。
シェイラは、門の内側に残った。「閉めるのは、私だから」とだけ言った。柵のすきまから振り返ると、シェイラは石の前の石畳に腰を下ろして、紋を見上げていた。
銀色の髪が、背中で動かなかった。
ネルは、帰り道のあいだずっと、俺の半歩うしろを歩いた。何も話しかけてこなかった。ときどき、袖の端がちょんと引かれた。俺がちゃんとついてきているか、確かめるみたいに。
宿に戻ると、おかみさんが何か言いかけて、俺の顔を見てやめた。黙って、温かい茶を二つ出してくれた。
俺は、その茶を半分も飲まなかった。
◇◆◇
その夜、俺は眠れなかった。
窓を開けると、春の夜の風が入ってきた。王都の屋根の向こうに、南の空が見えた。雲はなくて、星がたくさん出ていた。
机の上に、父さんのナイフを置いた。
ほどいた布は、まだ巻き直していなかった。ろうそくの火に、刃の根もとの刻印が浮かんで見える。二本の線が、斜めに交わった印。
暁の星。
ブラム。エルザ。ユーリ。
知らない名前だった。父さんからも母さんからも、一度も聞いたことのない名前だった。
あの家で、十五年。薪を割る音と、畑の土の匂いと、母さんが黙ってパンを足してくれる手。父さんの大きな笑い声。
その中に、この三つの名前は、一度も出てこなかった。
いつか、話を聞かせてください。
王都を発つ商隊に託した手紙の、最後の一行を思いだした。あのときは、軽い気持ちで書いたわけじゃなかった。でも、こんなに重いものだとも、思っていなかった。
壁の向こうで、小さな音がした。
隣はネルの部屋だ。壁に、こつん、と何かが当たった。たぶん、指の背で叩いたのだ。
「……起きてる?」
壁ごしの、小さな声だった。
「ああ」
「そ」
それきり、声はしなかった。
でも、壁の向こうで、ネルがまだ起きている気配がした。ずっと、した。
俺は、ナイフの刻印を指でなぞった。
南の空で、星が一つ、ほかよりも少しだけ明るく光っていた。
◇
同じ夜。
王都から遠く離れた南の街道の、小さな宿場町。
ルクスへ向かう商隊の荷馬車が、宿の裏に並んでいた。荷台には、布をかけた木箱や麻袋が積まれている。その中の一つ、手紙や小包を入れた革の鞄の底に、一通の封筒が眠っていた。
宛先は、南の果ての、コルー村。
封筒の中の手紙は、ていねいな字で書かれていた。最後の行に、「いつか、話を聞かせてください」とあった。
そして、その下に。
ずっと小さく、でも一画ずつ力をこめた字で、もう一行が書き足されていた。
それが何と書かれているのかは、まだ誰も知らない。
書いた本人と、夜空の星のほかには。




