いちばん上の棚
謁見の次の朝、ネルは朝の粥を半分残した。
ネルが食べ物を残すのは、熱を出したときくらいだ。おかみさんが帳場から心配そうに顔を出したけれど、ネルは「平気」とだけ言って、さっさと二階へ上がっていった。
少しして、俺の部屋の扉が叩かれた。
「入るわよ」
返事を待たずに入ってきたネルは、寝台の端に腰を下ろした。膝の上に、深い赤の布の袋をのせている。昨日、陛下からもらった袋だ。
「開けてないのか」
「開けたわよ。夜中に、三回」
ネルは、袋の口の紐を指でなぞった。
「三回とも数えた。三回とも、同じだった」
それから、俺の顔を見ないまま言った。
「これで買う。ばあちゃんの店」
足りたのか、と聞きかけて、やめた。ネルの横顔を見れば、それはわかった。
「シェイラさんに預けてるぶんは」
「使わない」
ネルは、きっぱりと首を振った。
「あれは、まだ誰の前にも出せないお金だもの。討伐祭の夜に、言ったでしょ。あたしが稼いだお金だって、誰の前でも堂々と言える日が来たら、って」
ネルは、赤い袋を両手で持ちあげた。
「これは、王さまの前でもらったお金よ。これより堂々としたお金、ないでしょ」
俺は、自分の袋のことを考えた。机の上に、同じ赤い袋が一つ、置いたままになっている。
「俺のぶんも、足そうか」
「いらない」
ネルは、少しも迷わなかった。
「これは、半分こじゃないの。あんたのは、あんたが使いなさい」
それを言われると、何も返せなかった。
ネルは立ちあがって、袋を外套の内側にしまった。それから、外套の上から一度だけ、ぽんと叩いた。
「でもさ」
俺は、ずっと気になっていたことを口にした。
「俺たち、未開の地へ行くんだろ。店を買って、どうするんだ」
ネルは、扉の取っ手に手をかけたまま、少しだけ振り返った。
「行けば、わかるわよ」
◇
宿を出て、下層区の坂を下った。
朝の下層区は、洗濯物と煮炊きの匂いでいっぱいだった。ガンツ親方の工房の前を過ぎて、路地を二本入る。石畳がところどころ欠けて、坂の途中に古い二階建ての家が肩を寄せあって並んでいた。
その中の一軒の前で、ネルが足を止めた。
間口の狭い、細長い店だった。窓には板が打ちつけてある。戸口の上の壁に、釘の穴が四つ、四角く並んで残っていた。看板が掛かっていたところだ。戸口の上には色の抜けた日よけの布が垂れていて、その端が大きく裂けていた。
「ここ」
ネルは、それだけ言った。
店の前で立ったまま、ネルは動かなかった。耳も、尻尾も、ぴくりともしなかった。
「前を通るとき、あたし、いつも走ってたの」
ネルが、小さな声で言った。
「止まったら、見ちゃうでしょ。見たら、悔しくなるから」
向かいの八百屋の店先で、大根を並べていたおばさんが顔を上げた。ネルを見て、目を丸くした。
「ネルちゃんかい」
「おばさん。久しぶり」
「まあまあ。こんなに大きくなって」
おばさんは前掛けで手をふきながら出てきて、それから俺を見た。俺の紺の上着を見て、顔を見て、もう一度、上着を見た。
「ちょいと、あんた。もしかして、あの泡の」
「付き添いです」
俺がそう言うと、おばさんはきょとんとした。
ネルが、店の板戸を見たまま聞いた。
「おばさん。今、この店の持ち主って」
「バルツだよ。あの金貸しの」
おばさんは、鼻にしわを寄せた。
「物置にしてるのさ。今朝も荷を入れに来てたよ。ほら、中にいる」
板戸の向こうで、木箱を引きずる音がした。
◇
板戸を叩くと、太った男が顔を出した。
上等の上着を着ていたけれど、袖口だけがてかてかと光っていた。太い指に、金の指輪が三つ。うしろで、手下らしい若い男が二人、木箱を積みあげていた。
男は、ネルを見て眉を上げた。
「おや。ばあさんとこの」
それから、俺を見た。
目が、紺の上着の上で止まった。顔を見て、もう一度、上着を見た。さっきの八百屋のおばさんと、同じ順番だった。
男の顔が、ゆっくりと笑顔になった。
「これはこれは。王都じゅうの噂の、泡のお方ではございませんか。こんなむさくるしいところへ、なんのご用で」
「あたしの用よ」
ネルが、一歩前に出た。
「この店、買いに来たの。金貨十枚で」
男の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。それから、もっと大きな笑顔になった。
「ああ、ああ。あの話ですか。覚えておりますとも」
男は、指輪の手をもみあわせた。
「ですがね、お嬢さん。あれから、ずいぶん時がたちました。物の値段というのは、上がるものでして」
男の目が、また俺のほうへ流れた。
「それに、S級様のお仲間とあっては。金貨十枚とは、とても申せませんな。せめて、三十は」
ネルの尻尾の毛が、ぶわっと逆立った。
八百屋のおばさんが、うしろで「まあ」と声を上げた。いつの間にか、通りの人たちが何人か、遠巻きにこっちを見ていた。
俺は、口を開きかけた。
それから、閉じた。これは、ネルの店だ。
男は、俺の顔をうかがうように見た。
「S級様は、いかがお考えで」
「俺は、付き添いです」
男が、少しだけ困った顔をした。
ネルは、黙って外套の内側に手を入れた。
出てきたのは、赤い袋ではなかった。
小さな紙だった。何度も何度もたたんで、角がすり切れて、毛羽立っている。ネルはそれを、男の目の前で、ていねいに開いた。
太い字が書いてあった。わざと大きく、わざと崩した字だった。
『金貨十枚。耳をそろえて持ってきたら、売ってやる。バルツ』
最後の名前のところだけ、ぐるりと飾りの線が回してあった。
男の顔から、笑顔が消えた。
「あんたが書いたのよ」
ネルの声は、静かだった。
「ばあちゃんが死んで、この店を取られて、ひと月たったころ。あたしが、買い戻したいって言いに来たら、あんたが笑いながら書いて、あたしに投げたの。どうせ払えっこない、って」
ネルは、紙を持った手を下ろさなかった。
「拾って、持って帰ったわ。紙はね、何にでも使えるの」
通りが、しんとした。
八百屋のおばさんが、腕を組んで言った。
「あたしも見てたよ、あのとき。この店の前でさ。あんた、大笑いしてたじゃないか」
うしろの人だかりから、ひそひそと声がもれた。男は、紙を見た。自分の字と、自分の飾り線を見た。それから、通りの人たちを見て、最後に、黙って立っている俺を見た。
俺は、何もしなかった。ただ、そこに立っていた。
男は、長いため息をついた。
「……商売は、信用ですからな」
ネルは、はじめて赤い袋を取りだした。
積みあげられた木箱の上に、金貨を一枚ずつ置いていく。急がなかった。一枚置くたびに、指先で軽く押さえた。朝の光が板戸の隙間から差しこんで、金貨の縁を光らせた。
十枚目を置いたとき、ネルの指が、少しだけ震えた。
男は金貨を数えなおして、懐の革袋にしまった。それから、上着の内側から鉄の鍵を一本と、折りたたんだ証文を出した。
「荷は、今日じゅうに出しますよ」
そう言って、手下たちに顎をしゃくった。
ネルは、鍵を両手で受け取った。
古い鍵だった。持ち手のところが、すり減ってつるつるになっていた。
ネルは、その持ち手を親指でなぞった。何度も、何度も。
◇
木箱を運びだすのを、俺も手伝った。
手下の二人は最初こそ遠慮していたけれど、昼を過ぎるころには「旦那、そっちの端を」と普通に声をかけてくるようになった。泡は使わなかった。木箱を担いで、坂の下の荷車まで運ぶ。それだけのことだった。
最後の箱が出ていくと、店の中はがらんとした。
埃の匂いがした。床にも棚にも、白っぽい埃が積もっていた。壁ぎわには、天井まで届く棚が並んでいる。どの段も、空っぽだった。
奥の窓の板を一枚外すと、細い光が店の中を斜めに横切った。
真ん中に、大きな木の台があった。
ネルが、その台の縁に手を置いた。縁に沿って、細い刻み目が等間隔に並んでいる。
「ばあちゃんの、裁ち台」
ネルは、刻み目を一つずつ指でたどった。
「布を測るのよ。ここに当てて、ひと目、ふた目って。あたし、小さいころ、この下にもぐって寝てた」
台の脚の一本に、子どもの背丈くらいの高さで、小さな傷がいくつも刻んであった。
ネルは、それには何も言わなかった。
俺も、聞かなかった。
ネルは、ゆっくりと顔を上げた。壁ぎわの棚の、いちばん上の段。その右の端。
そこだけ、色が違っていた。
棚の板は、どこも窓からの日に焼けて、くすんだ色をしていた。でも、右の端の一か所だけ、四角く、白っぽい色のまま残っていた。長いあいだ、何かがそこに置かれていた跡だった。
「ここ」
ネルの声が、少しだけかすれた。
「ここに、あったの」
俺は、自分の上着の袖を見下ろした。
深い紺。飾りのない、襟が少し立った上着。古着屋通りで、ネルが半値に値切ってくれたものだ。
ネルは、白い四角を見上げたまま、ぽつりと言った。
「……来たわね」
何が、とは言わなかった。
俺は、聞こえなかったふりをした。顔が、少しだけ熱かった。
◇
午後は、掃除をした。
俺が棚の埃を払って、ネルが床を掃いた。水を汲んで、裁ち台を拭いた。拭いても拭いても、雑巾はすぐに黒くなった。
戸口のところで、ネルの手が止まった。
色の抜けた日よけの布を、見上げていた。端が大きく裂けて、風が吹くたびにぱたぱたとはためいている。
ネルの目が、ほんの少しだけ細くなった。ほつれを見る目だった。
「リト。そこの椅子」
俺が椅子を持っていくと、ネルはその上に立って、腰の袋から針と糸を取りだした。
「綻びは、見つけたらすぐに繕いな」
ネルは、針に糸を通しながら言った。
「ばあちゃんの口ぐせ。この布、ばあちゃんが張ったの。店が取られてから、誰も繕わなかったのよ」
ネルの指が動きはじめた。
速かった。裂け目の端から端まで、針が布を出たり入ったりするたびに、裂け目が少しずつ閉じていく。日の光を透かすと、縫い目がほとんど見えなかった。
八百屋のおばさんが、向かいから見上げていた。
「ばあさんと、おんなじ手つきだねえ」
ネルは、返事をしなかった。でも、尻尾の先が、一回だけ揺れた。
◇
夕方、坂の上から、がらがらと重い音が近づいてきた。
ガンツ親方だった。
背中に、大きな板を一枚背負っている。俺の肩幅より広い、分厚い木の板だった。親方は店の前で止まると、それを壁に立てかけて、腰をとんとんと叩いた。
「重いもんを、運ばせるな」
ネルが、戸口から飛びだしてきた。
それから、板を見て、動かなくなった。
木の看板だった。
真ん中に、糸巻きと一本の針が彫りこんである。その下に文字が彫ってあったらしいけれど、雨と日に削られて、「仕立て」の三文字しか読めなかった。
「……親方。これ」
「店が取られた日にな、あの金貸しの手下が、看板を薪にすると言っとった」
親方は、看板の縁を拳でこんと叩いた。
「銀貨一枚で引き取った。工房の奥で、埃をかぶっとったわ」
「なんで、言ってくれなかったの」
ネルの声が、震えていた。
親方は、ふんと鼻を鳴らした。
「買い戻す前に渡して、どこに置く気だった。宿の部屋に、これを置くのか」
ネルは、何か言おうとして口を開けた。でも、何も出てこなかった。
俺が梯子を借りてきて、看板を掛けた。古い釘の穴は、四つとも、看板の金具の穴にぴったりと合った。親方が下から釘を渡してくれて、俺はそれを一本ずつ打ちこんだ。
梯子から降りて、三人で見上げた。
繕ったばかりの日よけの布の上に、糸巻きと針の看板が掛かっていた。夕日が当たって、彫りこみの影がくっきりと浮かんでいた。
親方は、しばらく黙って看板を見ていた。
「……ばあさんの、店だな」
それだけ言って、背を向けた。坂を上っていく背中が、少しだけ丸かった。
ネルは、その背中に向かって、深く頭を下げた。
◇
日が沈みかけていた。
ネルは、店の戸口の石段に腰を下ろした。俺も、隣に座った。坂の下のほうで、どこかの家が夕飯の鍋を叩く音がしていた。
「朝の、答え」
ネルが、膝を抱えたまま言った。
「帰ってくる場所よ」
俺は、ネルの横顔を見た。
「あんたの家に行ったとき、あたし、言ったでしょ。また、帰ってきますって」
「ああ」
「あんたには、帰る村がある。父さんと母さんがいて、薪を割る音がして」
ネルは、看板を見上げた。
「あたしにも、ほしかったの。帰ってくる場所。誰かのじゃなくて、あたしの」
夕日が、ネルの耳の先を赤く染めていた。
「未開の地から帰ってきたら、ここで、あんたの上着を繕ってあげる」
「破る前提なのか」
「破るでしょ、どうせ」
ネルは、くすっと笑った。
それから、外套の内側から、あのすり切れた紙を取りだした。バルツの字が書かれた、小さな紙。ネルは、それを指先でしばらくもてあそんでいた。
「それ、もういらないだろ」
「いるわよ」
ネルは、紙をていねいにたたみなおした。
「裁ち台の引き出しに入れとくの。ばあちゃんに、見せてあげなきゃ」
俺は、何も言わなかった。
言わなくても、いいと思った。
ふいに、ネルの耳がぴんと立った。
俺も、顔を上げた。
いつの間にか、坂の途中に誰かが立っていた。足音は、一つもしなかった。
褐色の肌に、夕日を受けた銀の髪。
シェイラは、看板を見上げていた。長いあいだ、見ていた。
「いい店」
それだけ言って、それから、俺を見た。
紫の目が、俺の顔の上で止まった。いつもの、何を考えているのかわからない目とは、少しだけ違っていた。
「明日」
シェイラは、静かに言った。
「一緒に、来てほしいところがある」
「どこへ、ですか」
シェイラは、すぐには答えなかった。
坂の下から、夕飯の鍋の音が聞こえていた。どこかで子どもが母親を呼んでいた。
「君に、見せたいもの」
シェイラは、言葉を一つ置いた。
「……見せなきゃ、いけないもの」
上着の内側で、父さんのナイフの鞘が、少しだけ重くなった気がした。




