久しい言葉
謁見までの四日間、ネルは鬼だった。
一日目は、朝から古着屋通りを端から端まで歩かされた。王都の西のはずれ、細い路地の両側に古着の店が軒を連ねている通りだ。吊るされた上着を一枚ずつ俺の肩に当てては、ネルは首を横に振った。
「肩が落ちる」
「色が浮く」
「生地が薄い。三回洗ったら透けるわよ、これ」
十何軒目かの店で、ネルはやっと足を止めた。
奥の棚から引っぱりだしたのは、深い紺の上着だった。飾りはひとつもない。襟が少しだけ立っていて、ボタンは黒い角でできていた。ネルは裏返して縫い目を指でなぞり、袖を引っぱって、生地を光にかざした。
「これ。丈は詰める。袖も詰める。でも、これ」
店のおじさんが、値段を言った。ネルは半分の値を言った。おじさんは天を仰いだ。最後には、おじさんのほうが笑って折れた。
二日目は、ネルの服だった。こっちはもっと時間がかかった。
ネルは自分の服になると、急に決められなくなった。若草色の服を手に取っては戻し、戻しては手に取る。結局、店じまいの鐘が鳴る直前に、その若草色を胸に抱えて店を出た。
「似合うと思う」
俺が言うと、ネルは前を向いたまま「知ってる」と言った。耳が赤かった。
三日目と四日目の夜は、宿の部屋で針の音が続いた。
ネルは床に座りこんで、紺の上着の袖を詰めていた。糸を歯で切って、布を引っぱって、また針を通す。その手の動きには、迷いがひとつもなかった。
「ばあちゃんの店にもね、こういう紺があったのよ」
ネルは、手もとから目を離さずに言った。
「いちばん上の棚の、右の端。誰も手に取らないのに、ばあちゃんはずっとそこに置いてた。いつか、これが似合う人が来るからって」
針が、布をくぐった。
「来たかどうかは、知らない。その前に、店がなくなっちゃったから」
ネルは糸を引いて、玉を留めた。最後の玉止めは、きつく、小さく。
「はい。着てみて」
紺の上着は、肩にぴたりと沿った。袖は、手首の骨のところでちょうど止まった。
ネルは少し離れて俺を眺め、それから満足そうに鼻を鳴らした。
「上出来」
◇◆◇
五日目の昼、城の正門の前には人だかりができていた。
正門は、西の門とはまるで違った。見上げるほど高い鉄の扉の両側に、白い石の塔が立っている。槍を持った衛兵がずらりと並んで、その向こうに広い石畳の道がまっすぐ城まで続いていた。
「すげえ。本当に表から入るのかよ」
人垣のいちばん前に、ルカがいた。妹を肩車して、チビたちを足もとに並べている。
「似合わねえな、その服」
「ネルが選んだんだぞ」
「……似合うな、その服」
ネルが、ふんと鼻を鳴らした。
俺の隣では、ギルドマスターが礼服の襟をしきりに引っぱっていた。黒い厚手の礼服は、岩のような体には少し窮屈そうだった。
「十年ぶりに袖を通した。首が絞まる」
「似合ってますよ」
「嘘をつくな」
正門の内側で、ハンナさんが待っていた。いつもの紺の服に、今日は銀の飾りを一つだけつけている。
「お待ちしておりました。どうぞ」
石畳の道を歩いていく途中で、門の内側に立つ近衛の列の中に、見知った顔があった。
カールさんだった。
槍を立てて、まっすぐ前を見ていた。俺たちが前を通りすぎるとき、目だけが一度、こっちへ動いた。
何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。
それだけだった。
◇
謁見の間は、天井が高かった。
窓から差しこむ光が、白い石の床に長い四角を並べている。両側の壁際に、立派な服を着た人たちが並んでいた。貴族なのだろう。その目が、いっせいに俺たちに向いた。
奥の、少し高くなったところに、椅子が四つ。
真ん中に、深い青のマントをかけた男の人が座っていた。大祭の日、舞台の上にいた人だ。陛下。髪には白いものがまじっていて、目もとに深い皺があった。その隣に、穏やかな顔の王妃さま。
右手の椅子には、背の高い若い男の人。王太子殿下だった。陛下によく似た顔立ちで、でも口もとがずっと固かった。
左手のいちばん端に、リーゼがいた。
水色のリボンをつけて、背筋を伸ばして座っていた。俺と目が合うと、ほんの少しだけ口のはしが動いた。
ギルドマスターが膝をついた。ハンナさんに教わったとおり、俺とネルも膝をついた。
「顔を上げなさい」
陛下の声は、思っていたよりずっと低くて、やわらかかった。
「大祭の日は、右の通りの入口から見ていた。白い柱も、最後まで」
陛下は、肘掛けに片肘をついた。
「一つ、聞きたい。なぜ、泡で囲った」
謁見の間が、しんとした。
「囲わずに撃てば、もっと楽だったろう。倒れることもなかったかもしれん。なぜ、そうしなかった」
俺は、少しだけ考えた。考えても、答えは一つしかなかった。
「誰も、巻きこみたくなかったので」
「それだけか」
「それだけです」
陛下は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、目もとの皺が少しだけ深くなった。
「力の大きさは、あの日、王都じゅうが見た。私が見たのは、使い方のほうだ」
陛下は、侍従から一枚の書付を受け取った。ギルドマスターの部屋で、俺が名前を書いたあの書付だった。
「S級冒険者、リト。承認する」
陛下が書付に印を押した。ことり、と小さな音がした。
それだけで、何かが決まってしまった。俺の胸の奥で、何かがすとんと落ちた。
「父上」
王太子殿下が、口を開いた。
「承認はけっこうです。ですが、その力、国のために使ってもらえるのでしょうね。あれほどの力を、一介の冒険者の気まぐれに任せておくのは」
壁際の貴族たちが、小さくざわめいた。
「エルンスト」
陛下の声は、静かなままだった。
「S級は、国の干渉を受けん。それが決まりだ。建国のときから、一度も変わっていない」
「ですが」
「決まりだ」
王太子殿下は、口を閉じた。固い口もとが、さらに固くなった。ほんの一瞬だけ、俺のほうを見た。冷たい目ではなかった。でも、何かを量るような目だった。
隣で、ギルドマスターが小さく息を吐いた。
S級になれば、国でもおいそれとお前に手は出せん。
その盾が、今、目の前で俺を守った。
◇
「さて」
陛下が、少しだけ声の調子を変えた。
「娘を守ってもらった礼をしなければならん」
侍従が、盆を二つ運んできた。盆の上に、それぞれ一つずつ、深い赤の布の袋がのっていた。
一つが、俺の前に置かれた。
もう一つが、ネルの前に置かれた。
ネルが、袋を見て、それから陛下を見上げた。
「……あたしにも、ですか」
声が、少しだけ裏返った。
「腰帯をほどいたのは誰だと」
陛下は、左の端の椅子にちらりと目をやった。
「娘が、十回は言った」
リーゼが、ぱっと顔を赤くした。王妃さまが、扇で口もとを隠した。壁際の貴族たちの中から、小さな笑いがこぼれた。
ネルは、両手で袋を持ちあげた。
ずしりと、重い音がした。
ネルは、何も言わなかった。袋を胸に抱えて、うつむいていた。耳も、尻尾も、ぴくりとも動かなかった。
でも、その指先が、袋の布をぎゅっと握りしめていた。
荷物持ちで、ハズレと呼ばれていたネル。誰の前でも、あたしが稼いだって言えるお金がほしいと言っていたネル。
今、王さまの前で、それを受け取っていた。
「……ありがとう、ございます」
ネルは、やっとそれだけ言った。
深く、深く、頭を下げた。
◇
謁見の間を出て、長い回廊を歩いていると、うしろから小走りの足音が近づいてきた。
「リト! ネル先生!」
リーゼだった。裾を少しだけ持ちあげて、走ってくる。うしろで、ハンナさんが小さくため息をついたのが聞こえた。
リーゼは、俺たちの前で止まった。息を整えてから、ネルの服をじっと見た。
「その若草色、すてき。ネル先生が選んだの?」
「……余りものよ」
「うそ。いちばんいいのを選んだ顔してる」
ネルの尻尾が、ばたばたと揺れた。
リーゼは、それから俺の紺の上着を見た。袖の長さ、肩の線。くすりと笑った。
「リトのも、ネル先生でしょう。ぴったりだもの」
「わかるのか」
「わかるわ。リトが自分で選んだら、もっと袖が長いもの」
ネルが、ぷっと吹きだした。
リーゼは、少しだけ真面目な顔になった。
「願い事の約束、覚えてる?」
「叶ったら教えるって」
「うん」
リーゼは、それ以上は言わなかった。ただ、両手をうしろに組んで、俺の顔を見上げた。
「もう少し。もう少しだから」
それだけ言って、くるりと背を向けた。水色のリボンが揺れて、回廊の角に消えていった。
ハンナさんが、俺たちに一礼して、そのあとを追っていった。
◇
城を出る前に、侍従が俺だけを呼びとめた。
「陛下が、もう一言だけと」
小さな部屋だった。窓が一つと、机が一つ。陛下は、マントを外して窓辺に立っていた。謁見の間で見たときより、少しだけ背中が丸く見えた。
「呼びつけてすまん。あの場では、聞けなかった」
陛下は、窓の外を見たまま言った。
「S級になって、何をする」
俺は、少しも迷わなかった。
「未開の地へ、行きたいです」
陛下が、ゆっくりとこっちを向いた。
何も言わなかった。長いこと、俺の顔を見ていた。窓の外で、雲がひとつ流れていった。
「……久しいな」
陛下は、小さく言った。
「その言葉を、この部屋で聞くのは」
「前にも、誰かが」
「ああ。ずいぶん前に」
陛下は、窓のほうに目を戻した。
「その者たちも、ちょうど今のお前のように、そこに立って、同じことを言った。迷いのない顔でな」
陛下の声が、少しだけ遠くなった。
「帰ってきたのは、一人だけだった」
俺は、何も言えなかった。
陛下は、それ以上は話さなかった。ただ、窓の外を見たまま、行きなさい、とだけ言った。
部屋を出ると、回廊の窓から南の空が見えた。
今朝の手紙は、もうどのあたりを運ばれているのだろう。
なぜか、そんなことを思った。




