名簿に載る名
ギルドの扉を押すと、ホールがしんとした。
朝の掲示板の前にも酒場の長机にも、いつもどおり冒険者たちがひしめいていた。その全員が、いっせいにこっちを見た。木の床をこする椅子の音まで、ぴたりと止まった。
ネルの尻尾が、俺の足にぴったりと巻きついた。
「……なに、この空気」
ネルが小声で言った、その次の瞬間だった。
「来たぞ!」
誰かが叫んで、ホールが割れた。わっと人が押しよせてきて、あっというまに囲まれた。肩を叩かれ、背中を叩かれ、知らない手が次から次へと伸びてくる。
「本当にこいつか? もっとでかい奴かと思ってた」
「白い柱、見たぞ! 屋根の上からな!」
「雲を割ったってのは本当か!」
「俺は泡が光るのを見た。いや、見た気がする」
何を聞かれているのか、半分もわからなかった。ネルは人の波に押されて、俺の背中にぺたりと張りついていた。
人垣のうしろで、赤い靴が見えた。
ダグさんだった。壁にもたれて腕を組み、こっちを見ていた。何度か口を開きかけては閉じて、それから、ぼそりと言った。
「……ハズレじゃ、なかったな」
それだけ言って、酒場のほうへ歩いていった。耳のうしろが、少し赤かった。
「はい、通してください! 通してくださーい!」
人垣をかきわけて、ミリアさんが現れた。両腕に、紙の束を山のように抱えている。
「リトさん、ネルさん。おはようございます」
ミリアさんは、いつもの笑顔で山を受付の台にどさりと置いた。
「今回も、ちゃんと足がありますね」
「……二日、寝てましたけど」
「寝ていた人は、足があるうちに入ります」
ミリアさんは、紙の束のいちばん上を一枚めくった。
「お二人宛てのお手紙です。昨日と、おとといの二日ぶん」
封筒だった。一枚一枚、厚手の紙に封蠟が押してある。赤い蠟、青い蠟、金粉を混ぜた蠟。宛名にはどれも、『仄かな灯』の二人へ、と書いてあった。
「貴族のお家が十一。商会が七。騎士団から二通。それと、どこかの劇団から一通」
「劇団?」
「真昼の白い柱を、舞台でやりたいそうです」
ネルが、ぷっと吹きだした。
俺は、笑えなかった。積みあげられた封蠟の色が、急に重たく見えた。
ミリアさんは、そんな俺の顔を見て、少しだけ声を落とした。
「中身は、だいたい同じだと思います。うちに来ないか、うちの名前で動かないか。読むのは、ゆっくりでいいですよ」
それから、いつもの笑顔に戻って、紙の山の端をぽんと叩いた。
「お返事を書くのは、もっとゆっくりでいいです」
◇
ギルドの石段を下りたところで、男の人が待っていた。
濃い緑の上着に、銀のボタンが二列に並んでいる。白い手袋をはめて、背筋をまっすぐに伸ばしていた。冒険者には見えなかった。
「リトさま、でいらっしゃいますね」
男の人は、深く頭を下げた。
「ローデン子爵家の家令でございます。主人より、ぜひ一度お屋敷にお招きしたいと」
「あ、ええと」
「もちろん、お連れの方もご一緒に」
家令さんは、ネルにもきちんと頭を下げた。所作に、ひとつも無駄がなかった。
「主人は、あなたのお力に深く感じ入っております。王都に住まいをご用意して、何不自由なく過ごしていただきたいと。宿屋暮らしでは、何かとご不便もおありでしょう」
「宿で、困ってないので」
「さようでございますか。では、せめて冒険の支度金だけでも。家の名を、ほんの少しお貸しいただくだけでよいのです」
家令さんは、懐から小さな革袋を取りだした。重たそうな音がした。
俺は、首を横に振った。
「ごめんなさい。誰かの家の名前で動くつもりは、ないです」
家令さんの笑顔は、そのままだった。でも、目だけが少し冷えた。
「さようでございますか。お気持ちが変わりましたら、いつでも」
革袋を懐に戻しかけた家令さんに、ネルが一歩前へ出た。
「ねえ。知り合いの子がね、言ってたの」
ネルは、腰に手を当てて家令さんを見上げた。
「お金で動くやつは、もっとお金を出されたら、また動くんだって。そういうのを抱えこんで、あなたのご主人、うれしい?」
家令さんは、ネルの顔を見た。しばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ、口のはしを上げた。
「……ご主人に、そのままお伝えいたします」
深く一礼して、通りの向こうへ去っていった。
ネルは、その背中が見えなくなるまで腰に手を当てていた。それから、ふうっと息を吐いて、尻尾をだらりと下げた。
「疲れた。お腹すいた」
「ありがとう、ネル」
「ルカに言いなさいよ。あたしは借りただけ」
通りを歩くと、あちこちから目が追いかけてきた。露店のおばさんが、焼き菓子を一つおまけにくれた。子どもが三人、棒を立てて「どーん」と叫びながら走っていった。
大通りの角に、さっきとは別の上着の男が立っていた。こっちを見て、軽く会釈をした。声はかけてこなかった。
もう、隠せんからな。
ギルドマスターの声が、耳の奥で聞こえた。
◇
ガンツ親方の工房は、いつもと同じ匂いがした。
炭と、油と、熱い鉄。ふいごの音が止まって、奥から親方が出てきた。煤だらけの前掛けで手をぬぐいながら、俺の顔を見た。
親方は、長いこと黙っていた。
「……足りん、どころじゃないな」
それだけ言って、作業台の前にどかりと座った。
「出せ」
ネルが、腰から紅糸と白糸を抜いて渡した。親方は二本を並べて窓の光にかざし、刃の上に親指を滑らせていった。
「広場で、何を斬った」
「黒い光の、線」
ネルは、少しだけ迷ってから答えた。
親方の親指が、止まった。何も聞かなかった。白糸の刃のほんの一点を、指の腹でとんとんと二度叩いた。
「ここだけ、刃がわずかに鈍ってる。斬ったものの重さだ。研いでおく。明日取りに来い」
「ありがとう、親方」
親方は二本を作業台に置くと、今度は俺のほうを向いた。
「親父さんに、手紙は書いたか」
「……まだ、です」
「書け」
親方の声が、いつもより低かった。
「王都の噂は、商隊に乗って南へ流れる。泡の小僧が雲を割った、白い柱が立った。お前の名前と一緒にな。噂で先に知ったら、あいつは怒るぞ」
それから親方は、少しだけ目をそらした。
「怒るだけで、済めばいいがな」
俺は、親方の横顔を見た。親方は、もう炉のほうを向いていた。ふいごが、また鳴りはじめた。
◇
宿に戻ると、帳場の前に紺の服の女の人が立っていた。
「ハンナさん」
ハンナさんは、いつものように左手だけで一通の封筒を差しだした。白い厚手の紙に、翼を広げた鳥と一本の剣の封蠟。
「陛下からの、お呼び出しでございます」
ネルの耳が、ぴんと立った。おかみさんが、帳場の奥で鍋を落とした。
「五日後の昼。お二人で、城の正門から」
「正門から、ですか」
西の門じゃなく。俺がそう言うと、ハンナさんは小さくうなずいた。
「もう、裏からお通しする理由がございませんので」
それから、ハンナさんはほんの少しだけ表情をゆるめた。
「お嬢さまより、ご伝言をお預かりしております。服は、ネル先生に選んでもらって、と」
ネルの尻尾が、ぶわっとふくらんだ。
「あ、あたし? 王さまの前に出る服なんて、どうやって」
「仕立て屋のお孫さんだと、お嬢さまはおっしゃっておりました」
ハンナさんは一礼して、静かに帰っていった。右手は、最後まで空けたままだった。
ネルは、封筒を持ったまま固まっていた。それから、急に俺の上着の袖をつまんで、焦げて繕った跡をじっと見た。
「……これは、だめ」
「だめか」
「だめに決まってるでしょ。五日しかないのよ」
ネルの目が、いつもとは違う光り方をしていた。
◇
夜、宿の机に紙を広げた。
父さんと母さんに手紙を書くのは、二通目だった。一通目は、Dランクになりましたとだけ書いた。今度は、何から書けばいいのかわからなかった。
ペン先にインクをつけては、乾かしてしまう。三度目にやっと、一行目を書いた。
父さん、母さんへ。
大祭の日のこと。広場の下から大きな蛇が出てきたこと。みんなで戦って、首を落としても戻ってきたこと。それから、泡のこと。
十歳の日から、ずっと隠してきたこと。
父さんにも母さんにも、言っていなかったこと。
書きながら、手が止まった。父さんの顔が浮かんだ。薪を割る手を止めて、黙ってこっちを見る顔。母さんの顔が浮かんだ。お茶を注ぎたして、父さんの肩に一度だけ触れる手。
隠すのは、やめました。
そう書いた。
広場のまわりの人たちを、誰も巻きこまずに済みました。ネルも、みんなも、無事です。ギルドマスターが、S級に推してくれるそうです。五日後に、陛下に会います。
最後に、少し迷ってから、一行書き足した。
いつか、話を聞かせてください。
封をする前に、ネルが隣から手を出した。
「貸して。一行だけ」
「何書くんだ」
「見ないで」
ネルは、俺に背中を向けて、ペンを走らせた。ほんの短いあいだだった。それから、紙をくるりと折って、俺の手に押しつけた。
「はい。見たら、怒るから」
耳が、少しだけ赤かった。
◇◆◇
翌朝、南の門で、ルクスへ向かう商隊に手紙を託した。
荷馬車の御者は、封筒の宛名を見て首をかしげた。コルー村。南の果ての、地図の端の村。
「ずいぶん遠くまで行くもんだな。急ぎかい」
「急がなくて、いいです」
言ってから、少しだけ考えた。
「でも、噂よりは先に着いてほしいです」
御者は笑って、封筒を胸の内側にしまった。荷馬車が、ごとごとと門を出ていった。
ギルドに戻ると、受付でミリアさんが待っていた。
「リトさん。ギルドマスターが、三階へと」
三階の部屋の机の上には、一枚の書付が置いてあった。上のほうに、細かい字で何行も文言が並んでいる。いちばん下に、名を書く欄が二つあった。
一つには、もう名前が書いてあった。細くて、まっすぐな字。
シェイラ。
その上に、ギルドマスターの大きな字。その横に、レオンの角ばった字。ヴァイスベルクの家の名が、ぎゅっと押しこむように書き添えてあった。
「推薦の書付だ。陛下にお見せする前に、本人の名と、生まれを書く」
ギルドマスターは、ペンを俺のほうへ押しやった。
俺は、自分の名前を書いた。
リト。
生まれの欄に、少しだけ手が止まった。それから、書いた。
南の果ての、コルー村。
ギルドマスターは書付を取りあげて、俺の字を見下ろした。太い指が、村の名の上で止まった。
長い、沈黙だった。
「……S級の名は、国の名簿に載る」
ギルドマスターは、低い声で言った。
「一度載ったら、消えん。お前の名も、生まれた村もな。この先ずっと、国の誰でも、それを読める」
「はい」
俺はうなずいた。それが、何か困ることなのか、よくわからなかった。
ギルドマスターは、書付を机の引き出しにしまった。鍵をかけた。それから、窓の外の南の空を見た。
「手紙は、出したか」
「今朝、商隊に」
「そうか」
ギルドマスターは、それきり何も言わなかった。
窓の外の南の空は、どこまでも晴れていた。その下を、俺の手紙がごとごとと運ばれていく。
噂よりは、先に着いてほしかった。




