↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

92/100

灯のあとで


薬草の匂いがした。


目を開けると、古い木の梁が見えた。窓から斜めに差しこむ光の中で、細かい埃がゆっくりと回っている。体を起こそうとしたけれど、腕に力が入らなかった。指の先まで、濡れた砂を詰めこまれたみたいに重かった。


首だけ動かすと、寝台の横の椅子でネルが眠っていた。膝の上に俺の上着が広げてあって、焦げた袖口に針が刺さったままになっている。耳が、ときどきぴくりと動いた。


「……ネル」


声がかすれた。それでもネルの耳はぴんと立って、琥珀色の目がぱちりと開いた。


ネルは、しばらく黙って俺の顔を見ていた。


「遅い」


「……おはよう」


「おはようじゃないわよ。二日よ、二日」


二日も眠っていたらしい。俺は、天井の梁を見上げた。


「ここ、どこ」


「ギルドの二階の救護室。宿だと人が押しかけるからって、ギルドマスターが」


ネルは上着を持ちあげて、焦げた袖を俺の目の前に突きだした。袖口から肘のあたりまで、黒く焼けて縮れていた。


「見て、これ。半分なくなってたのよ。繕うの、大変なんだから」


「ごめん」


「謝るなら、最初から燃やさないで」


ネルは、ふんと鼻を鳴らした。それから針を取って、また縫いはじめた。手もとから目を離さないまま、小さな声で言った。


「起きなかったら、どうしようかと思った」


針の先が、一度だけ止まった。


俺は、何も言えなかった。代わりに重たい手をどうにか持ちあげて、ネルの袖の端をつまんだ。ネルは振りはらわなかった。尻尾が、椅子のうしろで一度だけ揺れた。


「みんなは」


「生きてる。誰も、死んでない」


ネルは針を動かしながら、指を折って数えた。怪我人はたくさん出たけれど、みんな自分の足で歩けるらしい。『鋼の誓い』の斧のリーダーは、腕を吊ったまま酒場で武勇伝を語っているという。


「レオンは、お屋敷で寝てるって。剣が握れないって、お医者さまに怒鳴ってるらしいわ」


「元気だな」


「元気よ。腹が立つくらい」


ネルの口のはしが、少しだけ上がった。



◇


窓の外で、がたんと音がした。


窓枠に、汚れた指が四本かかった。続いて、ぼさぼさの頭と欠けた前歯がのぞいた。


「起きてんじゃねえか!」


ルカだった。


「ちょっと、ここ二階よ」


「雨どいがあるからな」


ルカは窓枠に肘をのせて、俺の顔をじろじろと眺めた。


「なんだよ。もっとこう、ぼろぼろになってるかと思った」


「ぼろぼろだよ。腕が上がらない」


「顔はふつうじゃねえか。つまんねえ」


ルカは窓の下に向かって、起きてたぞ、と叫んだ。下から、チビたちの歓声が返ってきた。


「お前、知らねえだろ。今、下町じゅうどこ行ってもお前の話ばっかりだぞ」


ルカは、人差し指で空にまっすぐな線を一本引いた。


「真昼の白い柱。雲が割れたってな。チビどもなんか、石けりの代わりに毎日柱ごっこだ。棒を立てて、どーんって」


「……やめさせてくれ」


「無理だな。いちばん小せえのが、お前の役をやりたがって泣くんだぞ」


ネルが、ぷっと吹きだした。


ルカは、そこで少しだけ声を落とした。


「あの嬢ちゃんもな。あの日、ハンナって人の腕を振りほどいて、お前のほうへ走ってきてたぞ。あんな顔、初めて見た」


ルカは、鼻の下を指でこすった。


「顔は、ぜんぶ覚えてるからな」


それだけ言って、窓から消えた。雨どいを滑りおりていく音がした。


入れちがいに、戸が叩かれた。返事を待たずに入ってきたのは、灰色の外套の男だった。


ヴァルトさんは紙袋から焼き栗を一つ取りだして、寝台の横の机に置いた。


「見舞いだ」


「ありがとうございます」


ヴァルトさんは壁に背中をあずけて、外套の内側から古い革の手帳を出した。


「書記を、押さえた」


ネルの針が止まった。


「大蛇が出たとき、広場じゅうが逃げた。あいつ一人だけが、逆に舞台のほうへ走った。オズワルドを探してな」


ヴァルトさんは、手帳をめくった。


「舞台の裏で、腕をつかんだ。インクの指が震えていた。その晩のうちに、ぜんぶ話した」


霧の渡しの男たちに金を払った夜、馬を連れて酒場の外で待っていたこと。下町の男に銅貨を渡して、俺たちのことを調べさせていたこと。城の地下の水路へ、香を運ばせていたこと。


「誰の指図か、もだ」


ヴァルトさんは、手帳を閉じた。


「典礼官長、オズワルド」


俺は、長く息を吐いた。


「でも」


ネルが、眉を寄せた。


「書記がそう言っただけなら、オズワルドは知らないって言いはるんじゃないの」


「言いはった」


ヴァルトさんは、焼き栗を一つ剥いた。


「だから、それは俺の手帳では端に小さく書いてある」


「じゃあ、真ん中には」


「あちらが見たものだ」


ヴァルトさんは、戸のほうを顎で示した。



◇


戸のところに、紺の服の女の人が立っていた。


ハンナさんだった。その後ろに、灰色の外套のフードを深くかぶった小柄な人影がいる。フードの端から、蜂蜜色の髪がひと房こぼれていた。


ヴァルトさんは焼き栗の袋を外套にしまって、黙って部屋を出ていった。すれちがいざまに、ハンナさんと一度だけ目を合わせた。


戸が閉まると、小柄な人影がフードを下ろした。


「リト」


リーゼは寝台のそばまで来て、そこで足を止めた。若葉色の目が、俺の顔から上がらない腕へ、それからまた顔へと動いた。


「ちゃんと、起きてる」


「起きてるよ」


「よかった」


それだけ言った声が、少しだけ揺れていた。


ネルが黙って椅子から立って、リーゼに譲ろうとした。リーゼは座らずに、ネルの手を取ってぎゅっと握った。


「ネル先生も、ありがとう。腰帯、ほどいてくれたでしょう」


ネルの耳が、ぱたりと寝た。


ハンナさんは、戸の前に立ったまま話しはじめた。いつもと同じ、静かな声だった。


「オズワルドさまは、あの日、広場から姿を消しておりました。私はお嬢さまを王妃さまにお預けしてから、西の門へまいりました。城から人目につかずに出るなら、あそこしかございませんので」


台所に品物を納める商人の、小さな門。俺たちが割り符を見せて通った門だ。


「荷車の陰に、頭巾をかぶった方がおられました。手袋をしておいででした。いつもの、白い手袋を」


頭巾で顔を隠しても、手袋だけは外せなかったのだ。三十年、人前で外さなかった手袋を。


「門番を呼んで、お引きとめしました。オズワルドさまは、大蛇から逃げてきたのだとおっしゃいました。典礼官長が逃げだしたと知れては恥ずかしいので、人目につかない門を選んだのだと」


「……筋は、通ってるわね」


ネルが、悔しそうにつぶやいた。


「はい。ですので、手袋を外していただきました」


ハンナさんは、そこで一度言葉を切った。


「左手の手袋の、内側の縫い目に。小さな鍵が縫いこんでございました。真鍮の、新しい鍵でございます」


部屋が、しんとした。


俺は、城の三つ目の倉を思いだしていた。いちばん深い倉の奥の、古い水路へ続く錆びた鉄の扉。そこにだけついていた、真新しい真鍮の錠前。ハンナさんも知らなかった錠前だ。


「その夜、近衛の者と三つ目の倉へ下りました。鍵を差しますと」


ハンナさんは、右手で小さく何かをひねる仕草をした。


「開きました」


ネルの尻尾が、ゆっくりとふくらんだ。


扉の奥の水路は、大広場の真下まで続いていたという。いちばん奥の、封じの石が崩れた場所に、香炉がいくつも転がっていた。中に残っていた灰の匂いは、リーゼの衣装に残っていた香と同じだった。


若葉色の上衣は大蛇と一緒に消えてしまったけれど、その下に着ていた薄い衣にも甘い匂いが移っていた。ハンナさんは、あの日のうちにそれを預かっていたのだ。


「衣装を用意したのは、典礼の役所。香を運ばせたのは、書記。錠前の鍵は、オズワルドさまの手袋の中」


ハンナさんは、静かに言った。


「心当たりは、もう、心当たりではございません」


「三十年外さなかった手袋が、いちばん安全な隠し場所だったんですね」


「はい。誰も、中をあらためようとは思いませんので」


「オズワルドは、今」


ハンナさんは、少しだけ黙った。


「牢におります。何を聞かれても、お答えになりませんでした。上に誰かいるのかとお尋ねしても、ただ笑っておられるだけで」


それから、と、ハンナさんは続けた。


「翌朝、牢番が見に行きますと。目は開いておられるのに、何もお話しにならなくなっていたそうです。名を呼んでもこちらを見ない。食事を出しても、手をつけない」


ネルの耳が、うしろに寝た。


「右の手のひらに、黒い痕がございました。細い糸が何本も、手のひらの真ん中から指の先へ這っているような。お医者さまにも、何の痕かはわからないと」


俺は、ネルの顔を見た。ネルも、俺を見ていた。


黒い光の、線。胴の奥の一点から体じゅうに張りめぐらされていた、黒い糸。


鍵を持っていたのは、オズワルドだ。でも、あの大蛇に黒い光を仕込んだのが、オズワルド一人だったのかどうか。オズワルドの口を閉ざしたのが、誰なのか。


窓の外で、鳥が鳴いた。


「お父さまがね」


リーゼが、口を開いた。


「あなたに、会いたいって」


俺は、まばたきをした。


「お父さまって」


「陛下でしょ」


ネルが、小声で言った。


「すぐじゃないわ。あなたが歩けるようになってから。お父さま、あの日、右の通りの入口からずっと見てたの。白い柱も、最後まで」


リーゼは、そこで少しだけ笑った。


「わたしもね。左にいてくれて、ありがとう」


「左が、空いてたから」


「うん」


リーゼは、それ以上何も言わなかった。


帰りぎわ、フードをかぶりなおしてから、リーゼは戸の前で振り返った。


「カールのこと、聞きたいでしょう」


俺は、うなずいた。


「何も言わないの。あの日のことも、どうして左の端の役目に名乗りでたのかも。次の日からは、元の持ち場に戻ってる。わたしの右側の、ハンナのもう一つ外に」


ハンナさんは、何も言わなかった。右手は、空いたままだった。


「それと、願い事」


リーゼは、春告げの樹の前で言ったのと同じ顔をした。


「まだ叶ってないの。でも、少しだけ近づいたわ」


フードの下で、水色のリボンが揺れた。



◇


夕方、ネルの肩を借りて三階へ上がった。


ギルドマスターの部屋の机には、書状が山のように積まれていた。その前の椅子に、白銀の鎧ではなく、ふだんの上着を着た男が座っていた。右腕を、布で首から吊っている。


「生きてたか、チビ種火」


レオンだった。


「お屋敷で寝てるんじゃ」


「抜けてきた。寝てると、父上の説教が長い」


ギルドマスターが、机の向こうから俺を見た。岩を削ったような顔の古い傷が、窓の夕日で赤く見えた。


「逃げろ、と言ったはずだがな」


「……すみません」


「謝るな。褒めにくくなる」


ギルドマスターは、しばらく黙っていた。


「よくやった」


それだけ言って、書状を一枚取りあげた。


「広場で戦った者の功績を、上に上げる。レオンハルト、お前はAランクだ」


「当然だ」


「ネル。お前もAだ」


ネルの耳が、ぴんと立った。


「……A」


「それから、リト」


ギルドマスターは、書状を机に置いた。


「お前を、S級に推す」


部屋の中の音が、ぜんぶ消えた気がした。


ネルの尻尾が、ぴたりと止まっていた。レオンだけが、少しも驚かずに窓の外を見ていた。


「でも、俺、まだDランクで」


「Cから上は、試験じゃ上がらん。推薦と実績だ。実績なら、王都じゅうが見た」


ギルドマスターは、太い指で机を叩いた。


「雲を割ったDランクを、Cに置いておく理由がない」


俺が何か言うより先に、レオンが口を開いた。


「俺の剣は、通らなかった」


窓の外を見たまま、平らな声で言った。


「首を一度落としたのは、俺とあの銀髪の女だ。だが、戻った。最後に通したのは、こいつらだ」


レオンは、吊った腕を少しだけ動かした。


「推薦状に、俺も名を書く。ヴァイスベルク伯爵家の名でな。文句を言う奴がいたら、俺の前で言わせろ」


「レオン」


「勘違いするな。お前を追いかける理由が、一つ減るのが癪なだけだ」


ネルが、ちょっとだけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「で、あたしは。Sは」


「お前は、Aで止めた」


「……なんでよ」


ギルドマスターは、ネルの顔をまっすぐに見た。


「広場の大勢が見たのは、白い柱だ。お前が何を斬ったかは、誰も見ていない。見ていたのは、俺と、あの銀髪と、そこの坊主くらいだ」


「何をしたのかは、わからなかったがな」


レオンが、ぼそりと言った。


「お前の目のことは、俺の口からは誰にも言わん。だから、Aで止めた」


ネルは、少しのあいだ黙っていた。それから、ふいっと横を向いた。


「別にいいわよ。Sなんて、肩が凝りそうだもの」


尻尾が、ゆっくりと揺れていた。


「正式に決まるには、ほかのS級一人の名と、陛下の承認が要る」


ギルドマスターは、書状の山に目を落とした。


「陛下のほうは、どうやらあちらからお会いになりたいらしいがな。それまで、お前はDランクだ」


「はい」


「それとな」


ギルドマスターは、少しだけ声を低くした。


「S級になれば、国でもおいそれとお前に手は出せん。囲いこもうとする連中から、お前と仲間を守るいちばん分厚い盾になる」


ギルドマスターは、俺の目を見た。


「もう、隠せんからな」


「……はい」


部屋を出るとき、レオンがうしろから声をかけた。


「貸しは、二つだ。忘れるなよ」


「いつか、返します」


「当たり前だ」


レオンは、それきりこちらを見なかった。



◇


その夜、宿の部屋の窓を開けた。


春の夜の風が、まだ少し冷たかった。隣の部屋からは、物音一つしない。ネルは宿に戻るなり、繕い終えた上着を俺に押しつけて、自分の寝台に倒れこんでいた。


窓の外の軒に、いつのまにか人影が座っていた。


銀の髪が、月の光を細く弾いていた。


「起きた」


シェイラさんだった。部屋には入らずに、軒の上で膝を抱えている。


「二日、寝てました」


「知ってる。見に行った。二回」


シェイラさんは、王都の屋根の連なりを見ていた。


「ギルドマスターの紙に、名前、書いてきた」


「え」


「S級の推薦。ほかのS級の名前が、要るんでしょ」


「いつの間に」


「今朝。君が、まだ寝てるあいだ」


俺は、何と言っていいかわからなかった。シェイラさんは、気にしたふうもなかった。


「あの黒い光」


シェイラさんの声が、少しだけ低くなった。


「香じゃない。香は、起こすだけ。あの光は、別の誰か」


「オズワルドじゃなくて、ですか」


「たぶん。あの人の手は、鍵を持つ手」


シェイラさんは、それ以上は言わなかった。確かめてから話す人だ。


しばらく、二人で黙って夜を見ていた。どこかの家で、子どもが「どーん」と叫んで、母親に叱られる声がした。


「君は、もうすぐ同じところに来る」


シェイラさんが、ぽつりと言った。


「そうしたら、連れて行きたい場所がある」


「どこですか」


「S級になったら、教える」


それだけ言って、シェイラさんは立ちあがった。足音一つ立てずに、屋根の向こうへ消えていった。


俺は、窓辺に座ったまま上着の内側を探った。


銀の割り符の隣に、父さんのナイフがある。鞘から少しだけ抜くと、月の光の中に、二本の線が交わる紋が浮かんだ。


十歳のあの日から、ずっと隠してきた。父さんにも、母さんにも言わずに。


それを、王都じゅうの前でぜんぶ見せてしまった。


父さんは、笑うだろうか。母さんは、静かになるだろうか。


手紙を書こう、と思った。


Dランクになりました、と書いたのは、ほんの少し前のことだ。次に書くことは、たぶん、ずっと長くなる。


窓の外に、王都の灯がまばらに揺れていた。


その中の一つくらいは、俺たちの灯なのかもしれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。