灯のあとで
薬草の匂いがした。
目を開けると、古い木の梁が見えた。窓から斜めに差しこむ光の中で、細かい埃がゆっくりと回っている。体を起こそうとしたけれど、腕に力が入らなかった。指の先まで、濡れた砂を詰めこまれたみたいに重かった。
首だけ動かすと、寝台の横の椅子でネルが眠っていた。膝の上に俺の上着が広げてあって、焦げた袖口に針が刺さったままになっている。耳が、ときどきぴくりと動いた。
「……ネル」
声がかすれた。それでもネルの耳はぴんと立って、琥珀色の目がぱちりと開いた。
ネルは、しばらく黙って俺の顔を見ていた。
「遅い」
「……おはよう」
「おはようじゃないわよ。二日よ、二日」
二日も眠っていたらしい。俺は、天井の梁を見上げた。
「ここ、どこ」
「ギルドの二階の救護室。宿だと人が押しかけるからって、ギルドマスターが」
ネルは上着を持ちあげて、焦げた袖を俺の目の前に突きだした。袖口から肘のあたりまで、黒く焼けて縮れていた。
「見て、これ。半分なくなってたのよ。繕うの、大変なんだから」
「ごめん」
「謝るなら、最初から燃やさないで」
ネルは、ふんと鼻を鳴らした。それから針を取って、また縫いはじめた。手もとから目を離さないまま、小さな声で言った。
「起きなかったら、どうしようかと思った」
針の先が、一度だけ止まった。
俺は、何も言えなかった。代わりに重たい手をどうにか持ちあげて、ネルの袖の端をつまんだ。ネルは振りはらわなかった。尻尾が、椅子のうしろで一度だけ揺れた。
「みんなは」
「生きてる。誰も、死んでない」
ネルは針を動かしながら、指を折って数えた。怪我人はたくさん出たけれど、みんな自分の足で歩けるらしい。『鋼の誓い』の斧のリーダーは、腕を吊ったまま酒場で武勇伝を語っているという。
「レオンは、お屋敷で寝てるって。剣が握れないって、お医者さまに怒鳴ってるらしいわ」
「元気だな」
「元気よ。腹が立つくらい」
ネルの口のはしが、少しだけ上がった。
◇
窓の外で、がたんと音がした。
窓枠に、汚れた指が四本かかった。続いて、ぼさぼさの頭と欠けた前歯がのぞいた。
「起きてんじゃねえか!」
ルカだった。
「ちょっと、ここ二階よ」
「雨どいがあるからな」
ルカは窓枠に肘をのせて、俺の顔をじろじろと眺めた。
「なんだよ。もっとこう、ぼろぼろになってるかと思った」
「ぼろぼろだよ。腕が上がらない」
「顔はふつうじゃねえか。つまんねえ」
ルカは窓の下に向かって、起きてたぞ、と叫んだ。下から、チビたちの歓声が返ってきた。
「お前、知らねえだろ。今、下町じゅうどこ行ってもお前の話ばっかりだぞ」
ルカは、人差し指で空にまっすぐな線を一本引いた。
「真昼の白い柱。雲が割れたってな。チビどもなんか、石けりの代わりに毎日柱ごっこだ。棒を立てて、どーんって」
「……やめさせてくれ」
「無理だな。いちばん小せえのが、お前の役をやりたがって泣くんだぞ」
ネルが、ぷっと吹きだした。
ルカは、そこで少しだけ声を落とした。
「あの嬢ちゃんもな。あの日、ハンナって人の腕を振りほどいて、お前のほうへ走ってきてたぞ。あんな顔、初めて見た」
ルカは、鼻の下を指でこすった。
「顔は、ぜんぶ覚えてるからな」
それだけ言って、窓から消えた。雨どいを滑りおりていく音がした。
入れちがいに、戸が叩かれた。返事を待たずに入ってきたのは、灰色の外套の男だった。
ヴァルトさんは紙袋から焼き栗を一つ取りだして、寝台の横の机に置いた。
「見舞いだ」
「ありがとうございます」
ヴァルトさんは壁に背中をあずけて、外套の内側から古い革の手帳を出した。
「書記を、押さえた」
ネルの針が止まった。
「大蛇が出たとき、広場じゅうが逃げた。あいつ一人だけが、逆に舞台のほうへ走った。オズワルドを探してな」
ヴァルトさんは、手帳をめくった。
「舞台の裏で、腕をつかんだ。インクの指が震えていた。その晩のうちに、ぜんぶ話した」
霧の渡しの男たちに金を払った夜、馬を連れて酒場の外で待っていたこと。下町の男に銅貨を渡して、俺たちのことを調べさせていたこと。城の地下の水路へ、香を運ばせていたこと。
「誰の指図か、もだ」
ヴァルトさんは、手帳を閉じた。
「典礼官長、オズワルド」
俺は、長く息を吐いた。
「でも」
ネルが、眉を寄せた。
「書記がそう言っただけなら、オズワルドは知らないって言いはるんじゃないの」
「言いはった」
ヴァルトさんは、焼き栗を一つ剥いた。
「だから、それは俺の手帳では端に小さく書いてある」
「じゃあ、真ん中には」
「あちらが見たものだ」
ヴァルトさんは、戸のほうを顎で示した。
◇
戸のところに、紺の服の女の人が立っていた。
ハンナさんだった。その後ろに、灰色の外套のフードを深くかぶった小柄な人影がいる。フードの端から、蜂蜜色の髪がひと房こぼれていた。
ヴァルトさんは焼き栗の袋を外套にしまって、黙って部屋を出ていった。すれちがいざまに、ハンナさんと一度だけ目を合わせた。
戸が閉まると、小柄な人影がフードを下ろした。
「リト」
リーゼは寝台のそばまで来て、そこで足を止めた。若葉色の目が、俺の顔から上がらない腕へ、それからまた顔へと動いた。
「ちゃんと、起きてる」
「起きてるよ」
「よかった」
それだけ言った声が、少しだけ揺れていた。
ネルが黙って椅子から立って、リーゼに譲ろうとした。リーゼは座らずに、ネルの手を取ってぎゅっと握った。
「ネル先生も、ありがとう。腰帯、ほどいてくれたでしょう」
ネルの耳が、ぱたりと寝た。
ハンナさんは、戸の前に立ったまま話しはじめた。いつもと同じ、静かな声だった。
「オズワルドさまは、あの日、広場から姿を消しておりました。私はお嬢さまを王妃さまにお預けしてから、西の門へまいりました。城から人目につかずに出るなら、あそこしかございませんので」
台所に品物を納める商人の、小さな門。俺たちが割り符を見せて通った門だ。
「荷車の陰に、頭巾をかぶった方がおられました。手袋をしておいででした。いつもの、白い手袋を」
頭巾で顔を隠しても、手袋だけは外せなかったのだ。三十年、人前で外さなかった手袋を。
「門番を呼んで、お引きとめしました。オズワルドさまは、大蛇から逃げてきたのだとおっしゃいました。典礼官長が逃げだしたと知れては恥ずかしいので、人目につかない門を選んだのだと」
「……筋は、通ってるわね」
ネルが、悔しそうにつぶやいた。
「はい。ですので、手袋を外していただきました」
ハンナさんは、そこで一度言葉を切った。
「左手の手袋の、内側の縫い目に。小さな鍵が縫いこんでございました。真鍮の、新しい鍵でございます」
部屋が、しんとした。
俺は、城の三つ目の倉を思いだしていた。いちばん深い倉の奥の、古い水路へ続く錆びた鉄の扉。そこにだけついていた、真新しい真鍮の錠前。ハンナさんも知らなかった錠前だ。
「その夜、近衛の者と三つ目の倉へ下りました。鍵を差しますと」
ハンナさんは、右手で小さく何かをひねる仕草をした。
「開きました」
ネルの尻尾が、ゆっくりとふくらんだ。
扉の奥の水路は、大広場の真下まで続いていたという。いちばん奥の、封じの石が崩れた場所に、香炉がいくつも転がっていた。中に残っていた灰の匂いは、リーゼの衣装に残っていた香と同じだった。
若葉色の上衣は大蛇と一緒に消えてしまったけれど、その下に着ていた薄い衣にも甘い匂いが移っていた。ハンナさんは、あの日のうちにそれを預かっていたのだ。
「衣装を用意したのは、典礼の役所。香を運ばせたのは、書記。錠前の鍵は、オズワルドさまの手袋の中」
ハンナさんは、静かに言った。
「心当たりは、もう、心当たりではございません」
「三十年外さなかった手袋が、いちばん安全な隠し場所だったんですね」
「はい。誰も、中をあらためようとは思いませんので」
「オズワルドは、今」
ハンナさんは、少しだけ黙った。
「牢におります。何を聞かれても、お答えになりませんでした。上に誰かいるのかとお尋ねしても、ただ笑っておられるだけで」
それから、と、ハンナさんは続けた。
「翌朝、牢番が見に行きますと。目は開いておられるのに、何もお話しにならなくなっていたそうです。名を呼んでもこちらを見ない。食事を出しても、手をつけない」
ネルの耳が、うしろに寝た。
「右の手のひらに、黒い痕がございました。細い糸が何本も、手のひらの真ん中から指の先へ這っているような。お医者さまにも、何の痕かはわからないと」
俺は、ネルの顔を見た。ネルも、俺を見ていた。
黒い光の、線。胴の奥の一点から体じゅうに張りめぐらされていた、黒い糸。
鍵を持っていたのは、オズワルドだ。でも、あの大蛇に黒い光を仕込んだのが、オズワルド一人だったのかどうか。オズワルドの口を閉ざしたのが、誰なのか。
窓の外で、鳥が鳴いた。
「お父さまがね」
リーゼが、口を開いた。
「あなたに、会いたいって」
俺は、まばたきをした。
「お父さまって」
「陛下でしょ」
ネルが、小声で言った。
「すぐじゃないわ。あなたが歩けるようになってから。お父さま、あの日、右の通りの入口からずっと見てたの。白い柱も、最後まで」
リーゼは、そこで少しだけ笑った。
「わたしもね。左にいてくれて、ありがとう」
「左が、空いてたから」
「うん」
リーゼは、それ以上何も言わなかった。
帰りぎわ、フードをかぶりなおしてから、リーゼは戸の前で振り返った。
「カールのこと、聞きたいでしょう」
俺は、うなずいた。
「何も言わないの。あの日のことも、どうして左の端の役目に名乗りでたのかも。次の日からは、元の持ち場に戻ってる。わたしの右側の、ハンナのもう一つ外に」
ハンナさんは、何も言わなかった。右手は、空いたままだった。
「それと、願い事」
リーゼは、春告げの樹の前で言ったのと同じ顔をした。
「まだ叶ってないの。でも、少しだけ近づいたわ」
フードの下で、水色のリボンが揺れた。
◇
夕方、ネルの肩を借りて三階へ上がった。
ギルドマスターの部屋の机には、書状が山のように積まれていた。その前の椅子に、白銀の鎧ではなく、ふだんの上着を着た男が座っていた。右腕を、布で首から吊っている。
「生きてたか、チビ種火」
レオンだった。
「お屋敷で寝てるんじゃ」
「抜けてきた。寝てると、父上の説教が長い」
ギルドマスターが、机の向こうから俺を見た。岩を削ったような顔の古い傷が、窓の夕日で赤く見えた。
「逃げろ、と言ったはずだがな」
「……すみません」
「謝るな。褒めにくくなる」
ギルドマスターは、しばらく黙っていた。
「よくやった」
それだけ言って、書状を一枚取りあげた。
「広場で戦った者の功績を、上に上げる。レオンハルト、お前はAランクだ」
「当然だ」
「ネル。お前もAだ」
ネルの耳が、ぴんと立った。
「……A」
「それから、リト」
ギルドマスターは、書状を机に置いた。
「お前を、S級に推す」
部屋の中の音が、ぜんぶ消えた気がした。
ネルの尻尾が、ぴたりと止まっていた。レオンだけが、少しも驚かずに窓の外を見ていた。
「でも、俺、まだDランクで」
「Cから上は、試験じゃ上がらん。推薦と実績だ。実績なら、王都じゅうが見た」
ギルドマスターは、太い指で机を叩いた。
「雲を割ったDランクを、Cに置いておく理由がない」
俺が何か言うより先に、レオンが口を開いた。
「俺の剣は、通らなかった」
窓の外を見たまま、平らな声で言った。
「首を一度落としたのは、俺とあの銀髪の女だ。だが、戻った。最後に通したのは、こいつらだ」
レオンは、吊った腕を少しだけ動かした。
「推薦状に、俺も名を書く。ヴァイスベルク伯爵家の名でな。文句を言う奴がいたら、俺の前で言わせろ」
「レオン」
「勘違いするな。お前を追いかける理由が、一つ減るのが癪なだけだ」
ネルが、ちょっとだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「で、あたしは。Sは」
「お前は、Aで止めた」
「……なんでよ」
ギルドマスターは、ネルの顔をまっすぐに見た。
「広場の大勢が見たのは、白い柱だ。お前が何を斬ったかは、誰も見ていない。見ていたのは、俺と、あの銀髪と、そこの坊主くらいだ」
「何をしたのかは、わからなかったがな」
レオンが、ぼそりと言った。
「お前の目のことは、俺の口からは誰にも言わん。だから、Aで止めた」
ネルは、少しのあいだ黙っていた。それから、ふいっと横を向いた。
「別にいいわよ。Sなんて、肩が凝りそうだもの」
尻尾が、ゆっくりと揺れていた。
「正式に決まるには、ほかのS級一人の名と、陛下の承認が要る」
ギルドマスターは、書状の山に目を落とした。
「陛下のほうは、どうやらあちらからお会いになりたいらしいがな。それまで、お前はDランクだ」
「はい」
「それとな」
ギルドマスターは、少しだけ声を低くした。
「S級になれば、国でもおいそれとお前に手は出せん。囲いこもうとする連中から、お前と仲間を守るいちばん分厚い盾になる」
ギルドマスターは、俺の目を見た。
「もう、隠せんからな」
「……はい」
部屋を出るとき、レオンがうしろから声をかけた。
「貸しは、二つだ。忘れるなよ」
「いつか、返します」
「当たり前だ」
レオンは、それきりこちらを見なかった。
◇
その夜、宿の部屋の窓を開けた。
春の夜の風が、まだ少し冷たかった。隣の部屋からは、物音一つしない。ネルは宿に戻るなり、繕い終えた上着を俺に押しつけて、自分の寝台に倒れこんでいた。
窓の外の軒に、いつのまにか人影が座っていた。
銀の髪が、月の光を細く弾いていた。
「起きた」
シェイラさんだった。部屋には入らずに、軒の上で膝を抱えている。
「二日、寝てました」
「知ってる。見に行った。二回」
シェイラさんは、王都の屋根の連なりを見ていた。
「ギルドマスターの紙に、名前、書いてきた」
「え」
「S級の推薦。ほかのS級の名前が、要るんでしょ」
「いつの間に」
「今朝。君が、まだ寝てるあいだ」
俺は、何と言っていいかわからなかった。シェイラさんは、気にしたふうもなかった。
「あの黒い光」
シェイラさんの声が、少しだけ低くなった。
「香じゃない。香は、起こすだけ。あの光は、別の誰か」
「オズワルドじゃなくて、ですか」
「たぶん。あの人の手は、鍵を持つ手」
シェイラさんは、それ以上は言わなかった。確かめてから話す人だ。
しばらく、二人で黙って夜を見ていた。どこかの家で、子どもが「どーん」と叫んで、母親に叱られる声がした。
「君は、もうすぐ同じところに来る」
シェイラさんが、ぽつりと言った。
「そうしたら、連れて行きたい場所がある」
「どこですか」
「S級になったら、教える」
それだけ言って、シェイラさんは立ちあがった。足音一つ立てずに、屋根の向こうへ消えていった。
俺は、窓辺に座ったまま上着の内側を探った。
銀の割り符の隣に、父さんのナイフがある。鞘から少しだけ抜くと、月の光の中に、二本の線が交わる紋が浮かんだ。
十歳のあの日から、ずっと隠してきた。父さんにも、母さんにも言わずに。
それを、王都じゅうの前でぜんぶ見せてしまった。
父さんは、笑うだろうか。母さんは、静かになるだろうか。
手紙を書こう、と思った。
Dランクになりました、と書いたのは、ほんの少し前のことだ。次に書くことは、たぶん、ずっと長くなる。
窓の外に、王都の灯がまばらに揺れていた。
その中の一つくらいは、俺たちの灯なのかもしれなかった。




