真昼の灯
首が、生えそろった。
黒く濡れた鱗が、ぬらりと日の光を弾いた。濁った金色の目が、ゆっくりと開いた。さっき落ちたはずの首と、まったく同じ目だった。
大蛇が、首をもたげた。
傷は、一つもなかった。レオンが割った鱗も、斧の跡も、シェイラさんの三本の線も。何もかもが、最初からなかったことになっていた。
広場のはしの歓声は、もうどこにもなかった。
シェイラさんが、また走った。
曲刀が閃いた。黒い鱗に、細い線が入る。
入ったそばから、消えた。
ふさがるまでに三つ数えるほどかかっていた傷が、今は一つ数えるより早く消えていく。シェイラさんは二本、三本と重ねた。重ねるたびに、消えた。
シェイラさんが、足を止めた。曲刀を下げて、大蛇を見上げた。
「斬っても、意味がない」
いつもと同じ、平らな声だった。でも、刃の先がほんの少しだけ下を向いていた。
一点を、音もなく斬る。それがシェイラさんの強さだ。その一点が、斬ったそばから消えていく相手には、届かない。
大蛇の尾が、石畳を薙いだ。
冒険者たちが、跳んで避ける。『鋼の誓い』の斧のリーダーが、肩で息をしていた。弓使いの矢は、もう尽きかけていた。
レオンは、膝をついたままだった。落ちた剣に手をのばして、指が柄の上を滑っていた。
広場の真ん中へ、大きな影が歩いていった。
ギルドマスターだった。
岩を削ったような大きな体に、柄の長い戦鎚を担いでいた。どこから持ってきたのか、俺は知らなかった。鉄の頭は、俺の胴ほどもあった。
「下がってろ、とは言わん」
ギルドマスターは、シェイラさんの横に並んだ。
「俺も昔は、少しは名の知れた冒険者だった。机に座ってるだけの男だと思われるのも、癪でな」
戦鎚が、振りおろされた。
黒い鱗の胴が、地面ごと沈んだ。石畳が、輪になってひび割れた。大蛇の体が、大きくのたうった。
でも、それだけだった。
潰れた鱗が、黒い光に撫でられて、元の形に盛りあがっていった。
◇
左の通りの入口で、俺は考えていた。
斬っても消える。潰しても戻る。
だったら、一度にぜんぶ消すしかない。首だけじゃない。胴も、尾も、あの黒い光ごと。何も残らないくらいに。
窪地の大熊のときの泡では、足りない。もっと大きな泡が要る。今までで一番大きな泡が。
それを撃ったら、どうなるか。
窪地の底が、真昼のように白く光った。地面が跳ねて、斜面が崩れた。俺もネルも、吹き飛ばされた。
あのときより、ずっと大きな泡だ。
この広場は、空っぽになった。でも、広場の外は空っぽじゃない。
広場をぐるりと囲む家々。その窓の奥に、隠れている人がいる。三本の通りの入口には、まだ見物の人たちが鈴なりになっている。
右の通りの入口に、ルカがいた。妹を背負って、チビたちを後ろにかばって、広場を睨んでいた。そのそばに、泥だらけのミリアさんがいた。
俺の後ろには、リーゼとハンナさんがいる。
爆風は、あそこまで届く。
撃てない。
さっきと同じだった。でも、さっきよりずっと重かった。
握った拳が、震えていた。
そのとき、なぜか、あの夜のことを思いだした。
ギルドの裏の倉庫が燃えた夜。広がっていく炎を、大きな泡で包んだ。泡の中で、炎は行き場をなくして、静かに消えていった。
泡は、内と外を分ける。
中のものを、外に出さない。
巻きこむなら、閉じこめればいい。
大蛇をまるごと、泡で包む。上だけ開けて、爆発の力を空へ逃がす。泡の外には、何も届かせない。
その中で、今までで一番大きな泡を、弾けさせる。
やったことは、なかった。
大蛇を包むほどの泡と、大蛇を消し飛ばすほどの泡。二つを同時に。そんなことをしたら、俺の魔力は、きっと一滴も残らない。
倒れる。
それに、見られる。
広場を囲む窓から。三本の通りの入口から。王都じゅうの屋根の上から。真昼の空の下で、隠しようもなく。
十歳のとき、庭で初めて泡を弾けさせた日に決めた。この力は隠す。目立てば、狙われる。だから、目立たないように。小さく、小さく。父さんと母さんにさえ言わずに、俺はそうやって泡を磨いてきた。
ぜんぶ、ここで捨てることになる。
囲わずに撃てば、少しは楽だ。
でも、それだと誰かを巻きこむ。
俺は、拳をほどいた。
決まっていた。
倒れてもいい。見られてもいい。
ぜんぶ、ここで出しきる。
誰も、巻きこませない。
◇
「ネル」
隣を見た。ネルは、もう俺を見ていた。
「時間が、要る。今までで、一番長く」
ネルの耳が、ぴんと立った。
「稼げばいいのね」
あの夜と、同じ言葉だった。
ネルは、紅糸と白糸を抜いた。赤い刃と、白い刃。二本で、一揃い。
「リーゼ。ハンナさんの後ろから、出ないで」
俺が言うより先に、ハンナさんがリーゼを背にかばっていた。リーゼは何も言わなかった。ただ、俺の顔をまっすぐに見て、一度だけ頷いた。
カールさんが、剣を構えたまま通りの入口に残った。俺のほうは見なかった。
俺とネルは、広場へ駆けだした。
「シェイラさん! ギルドマスター!」
二人が、振り向いた。
「時間をください! 大蛇を、まるごと消します!」
ギルドマスターの太い眉が、ぴくりと動いた。何も聞かなかった。
シェイラさんは、俺の顔を見た。少しだけ、目を細めた。
「稼ぐ」
それだけ言って、また走りだした。
俺は、広場の真ん中から少し離れた石畳の上に立った。大蛇の全身が見える場所。
両手を、前に出した。
魔力を、集めはじめた。
◇
ネルの目が、大蛇を走っていた。
琥珀色の目が、細くなっていく。黒い鱗の上を、何度も何度も行き来する。
「見える」
ネルが、つぶやいた。
「黒い光の、線。鱗じゃない。光のほうに、線がある」
糸みたいだ、とネルは言った。黒い糸が、胴の奥の一点から、体じゅうに張りめぐらされている。その糸が、傷をふさいでいく。
ネルが、跳んだ。
大蛇の胴に駆けあがって、紅糸と白糸を同時に振るった。
二本の刃が、何もない宙を撫でた。
そう見えた。
大蛇の動きが、止まった。
黒い光が、ちらついた。風に吹かれた灯みたいに、一瞬だけ。
その一瞬、シェイラさんの曲刀が入った。ギルドマスターの戦鎚が落ちた。
傷が、ふさがらなかった。
息を一つ吸うあいだだけ。それから、黒い光がまた満ちて、傷は消えた。
でも、止まった。たしかに、止まった。
ネルが、大蛇の胴から飛びおりた。肩で息をしていた。顔が、真っ白だった。
鱗の線とは違う。物の綻びじゃない。魔法の綻び。ネルの目は、今、そこまで届いた。
「何度でも、やる」
ネルは、また双剣を構えた。
◇
両手のあいだで、泡がふくらんでいく。
一つ目は、外側の泡。大蛇をまるごと包むための泡。薄く、薄く、広く、広く。広場の真ん中を覆うほどに。
二つ目は、内側の泡。凝縮したプチアクアの水を、一滴ずつ。何滴も、何滴も。
足りない。
もっと。
まだ、足りない。
頭の奥が、きんと冷えていく。指先から、熱が抜けていく。膝が、笑いはじめた。
大蛇の首が、ぐるりとこちらを向いた。
濁った金色の目が、俺を見ていた。
戦っている三人を、見ていなかった。俺の両手のあいだに集まっていく魔力だけを、見ていた。
吸い寄せられるように。
大蛇が、動いた。
シェイラさんの曲刀の下をくぐり、ギルドマスターの戦鎚を跳ねのけ、ネルの頭の上を越えて。黒い首が、まっすぐ俺に落ちてきた。
動けなかった。
今、手を離したら、泡がぜんぶ消える。
白銀の鎧が、俺の前に立った。
レオンだった。
剣を、握っていた。指が震えていた。腕も、膝も、全身が震えていた。
それでも、剣を振りあげた。
型も、何もなかった。ただの一振り。
振りおろした。
世界が、ほんの一瞬だけ止まった。
大蛇の首が、横に弾かれた。俺の頭のすぐ横の石畳に、黒い鼻先が突き刺さった。
レオンの手から、剣が落ちた。
レオンは、振り返らなかった。
「貸し、二つ目だ」
それだけ言って、前に倒れた。
俺は、両手を離さなかった。
◇
最後の一滴を、落とした。
内側の泡の真ん中に、種火を一つ。
薄い膜で、包む。
膜の厚みは、ほんの少し。
外側の泡を、大蛇にかぶせた。
広場の真ん中に、透きとおった大きな泡の壁が立ちあがった。大蛇の胴も、尾も、黒い光も、ぜんぶその中にあった。てっぺんだけが、空に向かって開いていた。
内側の泡を、大蛇の胸の奥へ。
ネルの見た、黒い糸の集まる一点へ。
沈めた。
「離れて!」
叫んだ。シェイラさんがネルの腕をつかんで跳んだ。ギルドマスターが、倒れたレオンを担いで下がった。
(……一)
大蛇が、泡の壁に頭を打ちつけた。泡が、たわんだ。
(……二)
両手に、残った魔力をぜんぶ流しこんだ。外側の泡を、支えるために。
(……三)
光った。
白。
真昼の日の光を、塗りつぶすほどの白。
泡の壁の中が、真っ白になった。
音が、来なかった。
一拍遅れて、地面の底から、何かが突きあげてきた。
泡の壁が、ふくらんだ。ふくらんで、ふくらんで、破れそうになって、破れなかった。
てっぺんの穴から、光が噴きだした。
白い柱が、空へ立った。
まっすぐに。どこまでも。
空に浮かんでいた雲が、柱に貫かれて、真ん中から二つに割れた。
それから、音が来た。
王都じゅうの窓が、いっせいに鳴った。
泡の外には、何も来なかった。
石のかけら一つ、熱一つ、風一つ。広場の外の家々は、一枚の瓦も落ちなかった。通りの入口で見ていた人たちの髪が、ほんの少しなびいただけだった。
白い柱が、ゆっくりと細くなっていった。
消えた。
泡の壁が、ぱちん、と弾けた。
広場の真ん中には、何もなかった。
大蛇も。黒い光も。割れた石畳の穴の上に、白い湯気がうっすらと漂っているだけだった。
◇
膝から、力が抜けた。
体が、前に傾いていく。止められなかった。止める力が、どこにも残っていなかった。
地面にぶつかる前に、誰かに抱きとめられた。
狐の匂いがした。
「重い」
ネルの声だった。
「あんた、こんなに重かったっけ」
返事をしようとして、声が出なかった。
ネルの顔が、すぐ上にあった。琥珀色の目が、濡れていた。でも、ネルは笑っていた。
「見返してやったわよ」
ネルは、広場のまわりを顎で示した。
窓という窓に、人の顔があった。三本の通りの入口に、人があふれていた。屋根の上にまで、人が立っていた。
誰も、声を出していなかった。
みんな、こっちを見ていた。
「王都じゅうに」
暗いところでしか見えない、小さな灯。俺たちは、そういう名前のパーティだった。
真昼の空の下で、今は、誰の目にも見えていた。
右の通りの入口で、ルカが何か叫んでいた。左の通りから、蜂蜜色の髪が走ってくるのが見えた。ハンナさんの止める声がした。
その声が、遠くなっていった。
空が、青かった。
二つに割れた雲のあいだから、日が差していた。
まぶしいな、と思った。
そこで、何もわからなくなった。




