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剣聖と、無音の剣


舞台が、また傾いた。


花の山が崩れて、左の端から雪崩みたいにこぼれおちてくる。その中に、若葉色の裾が見えた。


リーゼが、滑りおちてくる。


俺は走った。崩れてくる花をかきわけて、張りだしの下へ。父さんに五年、打たれつづけた体は、考えるより先に動いた。


両腕に、重さがかかった。


膝が折れかけた。踏みとどまる。腕の中で、リーゼが目を見開いていた。蜂蜜色の髪に、白い花びらが何枚も絡まっていた。


「怪我は」


「ない、です」


リーゼの声は、震えていなかった。震えていたのは、俺の腕をつかむ指のほうだった。


すぐ横に、紺の服が降ってきた。ハンナさんが、舞台から飛びおりたのだ。着地と同時に、リーゼの肩を抱きよせる。俺のほうを一度だけ見て、小さく頷いた。


そのとき、気づいた。


リーゼの袖から、あの匂いがしていた。熟れすぎた果物の、甘ったるい匂い。広場の石畳から噴きだしているのと、同じ匂い。


頭の上で、鎧の鳴る音がした。


張りだしから、カールさんが飛びおりてきた。銀の胸当てに、青いマント。着地しながら剣を抜いて、俺たちの前に立った。背中を、こっちに向けて。


その向こうに、大蛇の首があった。


割れた石畳の穴から、灰色の首がのびあがっていた。人の背丈の三倍、四倍。まだ、胴の終わりは見えない。濁った金色の目が、こちらを見下ろしていた。


「行け」


カールさんが、振り向かずに言った。


「左の通りだ」


守ってくれているのか。それとも、王女の行く先を見ておきたいのか。顔が見えないから、わからなかった。


でも、今はそれでよかった。



◇


「三本の通りへ! 押すな! 前の奴の背中を見て歩け!」


広場の真ん中で、ギルドマスターの声が響いた。


大きな声だった。悲鳴も、泣き声も、石の崩れる音も、ぜんぶ押しのけて届いた。腕に布を巻いた冒険者たちが、一斉に動きだした。縄を切って、人の波を通りの入口へ流していく。


ネルが、俺の隣に来た。目が、足もとの石畳を走っている。


「そっちはだめ! 崩れる!」


ネルが叫んだ。左の通りへ向かいかけた人の流れが、止まった。


「その石の列から右を歩いて! 右よ!」


一瞬あとに、人がいなくなった石畳が、ばきりと音を立てて沈んだ。


「こっちだ、チビども! 声出せ!」


縄の外で、ルカが怒鳴っていた。チビたちが、甲高い声で「こっち! こっち!」と叫びながら、迷子になりかけた子どもの手を引いて路地へ消えていく。ルカは妹を背負ったまま、最後の一人が路地に入るまで、入口に立っていた。


ミリアさんが、転んだお年寄りを抱え起こしているのが見えた。若草色の服が、泥で汚れていた。


大蛇の首が、動いた。


逃げていく人の群れには、目もくれなかった。首はまっすぐに、こちらへのびてきた。


リーゼのほうへ。


「匂いだ」


俺は、口に出していた。


「その衣装です。上のを、脱いでください」


ハンナさんの目が、一瞬で冷えた。それから、何も聞かずにリーゼの衣装の留め具に手をかけた。


重ね着の、上の一枚。若葉色の長い上衣。留め具は凝った飾り結びで、簡単には外れない。


「貸して」


ネルが、紅糸を抜いた。


赤い刃が、腰帯の結び目をすっと撫でた。それだけで、帯がほどけて落ちた。仕立て屋の孫の専門。誰が見ていても、言いわけの立つ使い方だ。


上衣が、リーゼの肩からすべりおちた。


俺はそれをつかんで、広場の真ん中へ投げた。


若葉色の布が、宙を舞った。


大蛇の首が、ぐるりと向きを変えた。布の落ちたほうへ。


「左の通りへ」


ハンナさんが、リーゼの手を引いて走りだした。俺とネルも、そのあとにつづいた。カールさんが、しんがりについた。


左の通りの入口まで来て、振り返った。


広場から、人がどんどん消えていく。舞台の上にはもう誰もいなかった。王さまたちは、衛兵に囲まれて右の通りへ下がっていた。


オズワルドの姿は、もうどこにもなかった。



◇


貴族の見物席から、白銀の鎧が一つ、飛びおりた。


レオンだった。


見物席の段の上で、ヴァイスベルク伯爵が立ちあがっていた。息子の背中を、一度だけ見た。


「行け」


声は聞こえなかった。口がそう動いたのが、遠くからでもわかった。


城の中で、誰の味方もしなかった人だ。


レオンは振り返らずに、家紋入りの長剣を抜いた。刃に、風がまとわりついた。


大蛇の首が、若葉色の布を食いちぎっていた。そこへ、レオンが斬りこんだ。


風をまとった刃が、灰色の鱗を割った。


血が、噴いた。黒っぽい、どろりとした血。大蛇が、首を跳ねあげた。


広場に残った冒険者たちが、一斉にかかっていった。斧を担いだ大柄な男。『鋼の誓い』のリーダーだ。弓使いが、目を狙って矢を放つ。魔法使いの火の玉が、鱗の上で弾けた。


「首だ! 首を狙え!」


斧のリーダーが叫んだ。斧が、レオンの割った傷にめりこんだ。


大蛇が、身をよじった。


傷が、ふさがっていく。


割れた鱗の下から、新しい肉が盛りあがって、裂け目を埋めていく。三つ数えるほどの間で、傷はもう、どこにあったのかわからなくなった。


「再生……」


誰かの声が、震えた。


レオンは、止まらなかった。また斬った。斧のリーダーも、また斧を振るった。傷ができる。ふさがる。斬る。ふさがる。


大蛇の尾が、穴の奥から振りだされた。


冒険者が二人、まとめて弾きとばされた。石畳を転がって、動かなくなった。


左の通りの入口で、俺は拳を握っていた。


撃てない。


まだ、広場のはしに人が残っている。逃げおくれた人を、冒険者たちが引きずるようにして通りへ運んでいる。ここで爆発を起こしたら、あの人たちを巻きこむ。


それに、ギルドマスターに言われた。人を逃がせ。それが先だ、と。


割れた石畳の穴のふちで、何かが動いた。


濡れた銀色の髪。


シェイラさんだった。


穴の中から這いあがってきた。頭のてっぺんから足の先まで、ずぶ濡れだった。黒い服に、灰色の泥がこびりついている。


水路の中にいたんだ。香炉を消しに。


シェイラさんは、穴のふちに立ちあがって、広場を見渡した。それから、左の通りの入口にいる俺たちを見た。


ほんの少しだけ、首を横に振った。


間に合わなかった、と。


シェイラさんは、細身の曲刀の柄に手をかけた。



◇


最後の一人が、広場から運びだされた。


広場は、空っぽになった。


崩れた舞台。散らばった花。割れた石畳。その真ん中に、灰色の大蛇と、剣を構えた冒険者が数人。


音が、消えた。


大蛇の吐く息の音も。冒険者たちの怒鳴り声も。遠くの悲鳴も。何もかもが、いっぺんに。


【静寂】だ。


人が多いところでは使えないと、シェイラさんは言っていた。逃げろ、という声まで消してしまうから。


広場が空いた今なら、使える。


音のない広場を、シェイラさんが走った。足もとの水たまりが、跳ねもしなかった。


曲刀が抜かれた。抜いたのが見えなかった。気づいたときには、大蛇の首に細い線が走っていた。一本。二本。三本。


傷がふさがる前に、次の傷が入る。


冒険者たちが、それに合わせて首だけを狙った。斧が、矢が、火の玉が、シェイラさんの斬った線の上に重なっていく。誰も声を出せないのに、誰も迷っていなかった。


首の傷が、少しずつ深くなっていく。


ふさがるより、ほんの少しだけ早く。


レオンが、剣を下ろした。


構えを、解いたように見えた。刃にまとわりついていた風が、消えていた。


レオンは、ただ剣を振りあげた。


型も、何もなかった。夜明け前の訓練場で、手の豆を潰しながら、誰よりも早く振っていた。あの素振りと、同じ形だった。


振りおろした。


世界が、止まった。


【静寂】の中で、音はとっくに消えていた。その上に、今度は動きまで消えた。大蛇の首も、宙に舞う石のかけらも、シェイラさんの銀色の髪も。ぜんぶが、その場に縫いとめられたように見えた。


一振りぶんの、ほんの一瞬。


それから、世界が戻った。


大蛇の首に、光の線が一本、まっすぐ通っていた。


その線に沿って、首が、ずれた。


落ちた。


音のないまま、灰色の首が石畳に転がった。地面が、大きく揺れた。胴が、一度だけ大きくのたうった。


それきり、動かなくなった。


音が、戻ってきた。


最初に聞こえたのは、荒い息だった。冒険者たちの。それから、からん、という乾いた音。


レオンの手から、剣が落ちていた。


レオンは膝をついていた。両腕が、だらりと垂れていた。指が、震えている。拾おうとして、指が柄をつかめなかった。


シェイラさんが、曲刀を鞘に納めた。レオンを見下ろした。


「今の。悪くない」


レオンは、何か言いかけた。でも、息が上がって声にならなかった。


広場のはしの、通りの入口から、声が上がった。


遠巻きに見ていた人たちだ。一人が叫んだ。もう一人が叫んだ。それが、波みたいに広がっていった。


倒した。


倒したぞ。


剣聖だ。S級のシェイラだ。


歓声が、広場に流れこんできた。


俺の隣で、ハンナさんが息を吐いた。リーゼが、俺の外套の端を握っていた手を、ゆっくりとほどいた。


やっと、終わった。


そう思った。



◇


ネルが、俺の袖を引いた。


さっきと、同じ引き方だった。


ネルは、広場の真ん中を見ていた。転がった首ではなく、首を失った胴の、切り口を。


琥珀色の目が、細くなっていた。


切り口から、何かがにじみだしていた。


黒い、光だった。


光なのに、黒い。夜の水たまりに油を流したような、ぬらぬらとした光。それが切り口からあふれて、胴を包みこんでいく。灰色の鱗が、黒く濡れていく。


歓声が、一つずつ消えていった。


レオンの割った傷が、ふさがった。冒険者たちの斧の跡も、矢の跡も、火の玉の焦げ跡も。黒い光が撫でたところから、ぜんぶ消えていく。


切り口の肉が、盛りあがった。


のびていく。形になっていく。


首に、なっていく。


石畳に転がっていたほうの首の目は、まだ開いていた。濁った金色の目が、黒い光に照らされて、ぎらりと光った。


「リト」


ネルの声は、かすれていた。


「あの光にも、線がある」



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