花冠の鐘
日が高くなるにつれて、大広場の人はふくれあがっていった。
縄の外には、もう隙間がなかった。肩車をされた子ども、窓という窓から身を乗りだす人。まわりの家の屋根の上にまで、見物の人影が並んでいる。笛と太鼓に笑い声が混ざって、広場全体が一つの大きな生き物みたいにざわめいていた。
群衆整理の冒険者たちは、縄の内側を行ったり来たりしながら、押されて前に出てくる人を戻していた。俺とネルも何度か縄を持ちあげて、人の壁につぶされかけた子どもを外へ出してやった。
広場から出ていく大きな通りは三本ある。ギルドマスターが図の上で叩いた場所だ。どの通りの入口にも、腕に布を巻いた冒険者がいつもより多く立っていた。
何かあったら、人を逃がせ。
あのときすぐに返事ができなかったことを、俺はまだ覚えていた。
「いた」
ネルが、縄の外の人ごみを顎で示した。
継ぎはぎの外套に、欠けた前歯。ルカだった。チビたちを四人まわりにかためて、人の壁のいちばん前に陣取っている。妹は、ルカの背中におぶさっていた。
ルカは手を振らなかった。俺たちと目が合うと、顎を少しだけ上げた。それで十分だった。
その少し後ろに、淡い若草色の服が見えた。ミリアさんだ。休みを取ったのだろう、いつもはまとめている栗色の髪を下ろしていた。俺たちに気づくと、胸の前で小さく手を振った。
通りの入口のほうには、焼き菓子の袋を抱えた宿のおかみさんもいた。
ネルの耳は、知った顔を見つけるたびに少しずつ下がっていった。
足もとの甘い匂いは、朝よりもまた濃くなっていた。
◇
舞台をはさんだ広場の反対側、右手の人ごみの中に、灰色の外套が一つ混ざっていた。
焼き栗の袋を片手に、ぼんやり立っているように見える。ヴァルトさんだ。その目がどこを見ているのかは、すぐにわかった。
舞台の右の階段の下。黒い上着の若い男が、分厚い帳面を胸に抱えて立っていた。袖口が、インクで黒く汚れている。
インクの指の書記だ。
ヴァルトさんは、一度もこちらを見なかった。見るのは得意だ、と言っていたとおりだった。
舞台の右奥には、木の段を組んだ見物席があった。縄で仕切られた、貴族のための席だ。上等な服がずらりと並ぶ中に、白銀の軽鎧が一つだけ光っていた。
レオンだった。
隣に、背筋のまっすぐな年配の男が座っていた。金色の髪に、白いものが混ざっている。顔は、レオンによく似ていた。ヴァイスベルク伯爵。城の中で誰の味方もしないことで、家を守ってきた人。
レオンは、俺に気づいた。その目が、俺の腕の布に止まる。片方の眉が上がった。
レオンは何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。
◇
昼の鐘が鳴ってしばらくしたころ、高いラッパの音が響いた。
広場のざわめきが、波が引くように静まっていった。
舞台の正面の階段を、王家の人たちが上ってきた。
先頭は、王さまだった。深い青のマントに、金の飾り。そのあとに、王妃さまと、背の高い若い男がつづいた。王太子だろう。三人は、舞台の奥に並べられた椅子に腰を下ろした。
最後に、リーゼが上ってきた。
蜂蜜色の髪が、日の光に透けていた。若葉みたいな色の、裾の長い衣装。髪には、水色のリボンが一本結んであった。
広場から、どよめきが起きた。十五になった王女が、初めて人前に出る日だ。
リーゼのあとから、紺の服の女の人が上ってきて、舞台の右の端に立った。ハンナさんだった。右手は、いつものように空けていた。
リーゼは舞台の真ん中まで歩いて、広場を見渡した。
整った、きれいな顔だった。秋のバルコニーで見たときと同じ、作りものみたいな顔。
その目が、左に動いた。
縄の前の、俺とネルのところで止まった。
ほんの少しだけ、口のはしが上がった。
すぐに、また元の顔に戻った。でも、俺は見た。たぶん、広場にいた人の何人かも。
「笑ったな」
縄の外から、ルカの声がした。小さな声だったのに、はっきり聞こえた。
ネルの尻尾が、一回だけ揺れた。
舞台の真ん中に、オズワルドが進みでた。白い手袋の手を胸に当てて、王家に一礼する。それから、広場に向きなおった。
「春の大祭を、ここに」
穏やかで、よく通る声だった。広場の隅々まで、すっと届いた。
儀式は、長かった。
オズワルドは帳面を開いて、春の祈りの言葉を読みあげた。それが終わると、王国の古い言い伝えを。言い伝えが終わると、今年の花の市を開いた商人たちの名前を、一人ずつ。
広場の人たちが、少しずつ足を踏みかえはじめた。子どものぐずる声が、あちこちから聞こえた。
花冠は、舞台の右の端の、花で飾った小さな台の上に載っていた。白い花と黄色い花を編んだ冠だ。オズワルドは、いつまでたってもそこへ行かなかった。
俺は、舞台の下の書記を見た。
書記は帳面を抱えたまま、顔を上げていた。広場の向こうの、鐘楼のほうを見ている。
少しして、また見た。
それから、また。
◇
ネルが、俺の袖を引いた。
振り向くと、ネルは足もとを見ていた。琥珀色の目が、細くなっていた。
「線が、ある」
ほとんど息だけの声だった。縄のすぐ外には、人が鈴なりになっている。
「石畳の、下。たくさん。それが」
ネルは、唾を飲みこんだ。
「動いてる。下から、押されてるみたいに」
止まっている石なら、ネルは三つ数えれば線が見える。その線がゆっくりと伸びて、ひび割れのほうへ近づいていくのだと、ネルは言った。
舞台のすぐ横、排水口の鉄格子の下で音がした。
ごぼり、と。水が泡立つような音だった。
花の匂いが、一瞬だけ消えた。甘ったるい、熟れすぎた果物の匂いが、むっと顔にかかった。縄の外にいた男が、鼻をつまんで顔をしかめた。
でも、それだけだった。誰も、足もとを見なかった。みんな、舞台の上の王女を見ていた。
人が、いちばん集まる時刻。
シェイラさんは、そう言っていた。
王家が舞台に上がって、広場がいちばん静まるとき。いちばん大勢が、前へ前へと詰めかけるとき。書記は何度も鐘楼を見ていて、オズワルドは儀式を引きのばしている。
何かを、待っている。
鐘だ。
そう思ったのと、ほとんど同じだった。
鐘楼の鐘が、鳴りはじめた。
オズワルドが、帳面を閉じた。
「では、花冠を」
目尻にしわを寄せて、笑った。それから、舞台の右の端の台のほうへ、ゆっくりと歩きはじめた。
リーゼは、舞台の真ん中に一人で残された。
「台が、少し傾いております。殿下は、どうぞそのままで」
オズワルドは、振り向かずに言った。
台の前で、足は止まらなかった。台の横を通りすぎて、そのまま右の階段のほうへ歩いていく。
舞台の上で動いているのは、オズワルドだけだった。
排水口から。舞台の左から。リーゼから。
離れていくのは、あの男だけだった。
考えるより先に、体が動いた。
俺は、縄をまたいだ。
「おい、何してる」
隣の持ち場の冒険者の声がした。かまわなかった。舞台の左の端の張りだしの真下まで、走った。
「カールさん!」
見上げて、叫んだ。
「王女さまを、舞台から下ろしてください! 今すぐ!」
カールさんが、俺を見下ろした。
明るい顔から、笑みが消えていた。何かを言いかけるように、口が少しだけ開いた。
それから、カールさんの目は俺から離れた。舞台の右の階段のほうへ。
オズワルドの背中のほうへ。
カールさんは、動かなかった。
鐘が、二つ目を打った。
◇
足もとが、跳ねた。
石畳が、下から殴りつけられたみたいに浮いた。俺は膝をついた。ネルが縄の杭にしがみつくのが、目のはしに見えた。
排水口の鉄格子が、真上に吹き飛んだ。
水柱が立った。
舞台の高さを越えて、もっと高く。日の光を浴びて白く砕け、雨みたいに広場に降りそそいだ。
悲鳴が上がった。
一つではなかった。あちこちから、いっぺんに。
二度目の揺れ。
舞台の左の脚の下で、石畳がゆっくりと持ちあがった。
割れた。
石のかけらが、ばらばらと宙に跳ねた。
舞台が、傾いた。
花の木枠が、ぎしりと鳴った。白と黄色の花が、雪崩のように崩れおちてくる。王家の椅子が倒れる音。誰かの叫ぶ声。舞台の右の端から、ハンナさんが走りだすのが見えた。
甘い匂いが、広場いっぱいに噴きだしていた。
割れた石畳の奥は、真っ暗だった。
その暗がりの中で、何かが光った。
目だった。
俺の頭よりも大きな目。濁った金色で、真ん中に黒い縦の筋が一本通っている。
それが、ゆっくりと瞬いた。
割れ目のふちに、何かが乗りあげてきた。
濡れた石のような、灰色の鱗。一枚一枚が、盾ほどもある。それが割れ目の奥から、ずるずると、終わりなくのぼってくる。
蛇だった。
窪地の大熊が、小さく思えた。
傾いた舞台の、左の端。崩れた花の山の向こうに、水色のリボンが見えた。
リーゼは、こちら側にいた。




