二本で一揃い
それから三日がたった。
肩のあざは、もう薄い黄色になっていた。ネルは毎晩、濡らした手ぬぐいで冷やせとうるさかったけれど、三日目の夜には何も言わなくなった。
王都は、日ごとに春の大祭の顔になっていった。
大通りの軒先には、色とりどりの布の飾りが渡された。運河の橋の欄干には花の鉢が並び、角という角に花売りの屋台が立った。花の市だ。朝、宿の窓を開けると、甘い花の匂いが運河の上を流れてきた。
「去年より、屋台が多いわね」
ネルは、窓から身を乗りだして通りを見下ろしていた。
「去年も見たのか」
「毎年見てたわよ。ばあちゃんと、花を一本だけ買って帰るの。いちばん安いやつ」
ネルは、そう言って少しだけ笑った。それから、窓枠に頬杖をついたまま、しばらく黙って通りを見ていた。
「今年は、一本じゃ足りないわね。お祝いすることが多すぎて」
ネルの尻尾が、ゆっくり揺れていた。
あざが痛むのは肩だけだった。でも、夜の西の門のことを思いだすたびに、胸のどこかが少しだけ冷たくなった。
◇
その日の昼、俺たちは大広場へ下見に行った。
持ち場を、自分の目で見ておきたかった。ギルドマスターに言われたのは、舞台の左手のいちばん前、縄の前。それがどこなのか、当日になってから探すのでは遅い。
大広場は、王都でいちばん大きな広場だった。
真ん中に、木の舞台がもうほとんど組みあがっていた。大人の背丈よりも高い。正面に階段が一本あって、舞台の上には花で飾るための木の枠が立てられていた。大工たちが、金槌の音を響かせて最後の板を打ちつけている。
舞台のまわりには、太い縄を張るための杭が、ぐるりと打ちこまれていた。
「ここね」
ネルが、舞台の左手のいちばん前の杭のところで立ち止まった。
舞台を見上げる。左の端に、人が一人立てるくらいの張りだしがあった。あそこに、カールさんが立つ。俺たちの、すぐ上だ。
「見下ろされるの、なんか落ちつかないわね」
ネルは、舞台の左の端をじっと見上げていた。
それから、ふいに鼻をひくつかせた。
耳が、ぴんと立った。
「……リト」
ネルの目が、舞台の下に向いていた。
舞台のすぐ横の石畳に、古い鉄の格子がはまっていた。雨水を流すための排水口だ。格子は赤茶色に錆びていて、その下は真っ暗だった。
ネルは、格子の前にしゃがみこんだ。鼻を、格子に近づける。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「同じ匂い。城の、扉の前と」
古くて、甘くて、嫌な匂い。
俺もしゃがんで、格子に顔を近づけた。花の市の匂いと、石畳の土埃の匂い。その奥に、たしかに何かがあった。熟れすぎた果物みたいな、甘ったるくて重たい匂い。
城の、いちばん深い倉の奥。錆だらけの扉に下がった、真新しい真鍮の錠前。
ずっと昔に閉ざされて、どこへ通じているのか、すべてを知る者はもう城にいない水路。
その水路が、どこへ通じているのか。
「……ここの、下だ」
俺の声は、自分で思っていたよりも小さかった。
頭の上で、大工の金槌が鳴った。花を運ぶ荷車が、すぐ後ろを通りすぎていった。誰も、排水口の前にしゃがみこんだ二人のことなんか、気にしていなかった。
◇
その夜、宿の窓が、外から一度だけ叩かれた。
二階の窓だ。窓の外には、運河に面した細い軒しかない。
ネルが、寝台の上で飛びあがった。尻尾が、ぶわっと倍にふくらんだ。
俺が窓を開けると、軒の上に、シェイラがしゃがんでいた。
銀色の髪が、夜風に少しだけ揺れていた。外套の裾が、濡れて黒く色を変えていた。
「確かめてきた」
シェイラは、それだけ言った。
「……入ってください。そこ、落ちますよ」
「落ちない」
シェイラは、窓枠に腰をかけた。部屋の中には入らなかった。外套の裾から、ぽたりと水が落ちた。ネルが、鼻にしわを寄せた。
「その匂い」
「うん。下に、行った」
シェイラは、運河のほうを顎で示した。
「城の扉じゃない。古い入口が、ほかにもある。運河の、いちばん古い石垣の下。水が引いたときだけ、口が開く」
「水路に、入ったんですか」
「奥まで、少しだけ」
シェイラは、自分の外套の濡れた裾を指でつまんだ。
「甘い匂いは、香。焚いてる。何日も」
「香って、お祈りのときに焚くやつ?」
ネルが聞いた。
「お祈りじゃない」
シェイラは、首を横に振った。
「昔、一度だけ、嗅いだことがある。眠ってるものを、起こすときに使う香」
部屋の中が、しんとした。
ろうそくの火が、窓から入る夜風に小さく揺れた。
「水路の、いちばん奥。広い場所があった。古い石が、輪になって並んでた。封じの石。その真ん中に」
シェイラは、言葉を一つ置いた。
「何か、いる。大きいの。眠ってる」
「大きいって、どのくらい」
「わからない。全部は見えなかった。でも、窪地のあれより、大きい」
ネルの耳が、ぺたりと後ろへ倒れた。
片角の大熊。背中だけで、村の家の屋根くらいあった。あれより、大きい。
「封じの石の外に、香炉が並んでた。いくつも。誰かが、毎日来て、香を足してる」
床の上を、何か重いものを引きずった筋。靴の跡。ランプの油。
全部、つながった。
「その広い場所は、どこの下ですか」
俺は聞いた。答えは、もうわかっていた。
シェイラは、俺の顔をまっすぐ見た。
「大広場」
窓の外で、運河を行く舟の櫂の音がした。ゆっくりと、遠ざかっていった。
「もう、寝返りを打ってた」
シェイラは、静かに続けた。
「起きるのは、たぶん、すぐ。香の量からすると、あと一日か、二日」
「大祭の日だ」
「うん」
シェイラは、うなずいた。
「人が、いちばん集まる日。いちばん集まる時刻に、起きるようにしてある」
舞台の上に、王家の人たちが上がる。昼過ぎ。
舞台の真ん中で、十五の王家の子が、花冠を載せてもらう。
それを、取り仕切るのは。
◇
翌朝、俺たちはギルドマスターの執務室にいた。
シェイラのことは、言わなかった。古い入口から水路に入って、奥を見てきた人がいる、とだけ伝えた。ギルドマスターは、誰が、とは聞かなかった。
話を聞きおえると、ギルドマスターは長いあいだ黙っていた。
「大祭は、止められん」
やがて、低い声で言った。
「春の大祭は、王家の行事だ。止めると決められるのは、陛下と、典礼の役所だけだ。ギルドが止めろと言っても、通らん」
「証拠が、ないからですか」
「それもある。だが、それだけじゃない」
ギルドマスターは、窓の外の城の尖塔を見た。
「止めろと言いに行けば、なぜ知っている、と聞かれる。城の地下の扉のことも、水路のことも。答えれば、あちらの方々が、お前たちを城に入れていたことまで知れる」
ハンナさんと、王妃さまと、リーゼ。
ネルの尻尾が、椅子の脇でぎゅっと縮こまった。
「止められないなら、備える」
ギルドマスターは、机の上に大広場の図を広げた。舞台と、縄と、広場から出ていく通りが、太い線で描いてあった。
「群衆整理の冒険者を、広場の出口に多めに置く。逃げ道は、ここと、ここと、ここ。何かあったら、人を出口へ流せ。それが、群衆整理の仕事だ」
太い指が、舞台の左手のいちばん前を叩いた。
「お前たちは、ここだ。変えん」
「はい」
「あちらには、俺から伝える。お嬢さまのまわりの守りを、厚くしてもらう」
ギルドマスターは、図を丸めた。
「何もなければ、それでいい。俺の取り越し苦労で、ハズレのコンビがハズレの仕事をして終わる」
それから、俺とネルの顔を順番に見た。
「何かあったら、人を逃がせ。それが先だ。それから、お前たちも逃げろ」
俺は、すぐには返事ができなかった。
ギルドマスターは、それ以上は何も言わなかった。
◇
夕方、俺たちは下層区の坂を上った。
ガンツさんの工房の炉は、もう赤々と燃えていた。
ガンツさんは、金床の前に立っていた。台の上に、布を一枚広げてある。その布の上に、一本の刃が寝かせてあった。
柄は、まだついていなかった。
でも、刃だけで、わかった。紅糸と同じ長さ。同じ細さ。炉の火に照らされていない側の縁が、うっすらと青白く光っていた。
ネルが、息をのんだ。
「明日の朝には、仕上がる」
ガンツさんは、刃から目を離さずに言った。
「最後に、二本の刃を合わせる。重さと、長さと、振ったときの癖を、一本目に寄せる。そのために、一晩、紅糸がいる」
ネルの手が、腰の紅糸の柄にかかった。
そのまま、止まった。
紅糸が生まれ変わってから、ネルがそれを手放したことは一度もなかった。寝るときも、枕元に置いていた。湖の氷の上でも、窪地の底でも、夜の西の門でも、紅糸はずっとネルの腰にあった。
ネルは、柄を握ったまま、しばらく動かなかった。
ガンツさんは、何も言わなかった。急かしもしなかった。炉の火だけが、ぱちぱちと鳴っていた。
やがて、ネルは鞘ごと紅糸を腰から外した。
両手で持って、ガンツさんの前に差しだした。
「……一晩だけ、だからね」
「一晩だけだ」
ガンツさんは、紅糸を受けとった。太い指が、鞘の上からそっと柄をなでた。
「明日、夜が明けたら来い」
ネルは、うなずいた。
工房を出るまで、ネルは一度も振り返らなかった。でも、坂を下りるあいだ、右手がずっと、何もない腰のあたりをさまよっていた。
◇
その夜、ネルは眠れなかった。
寝台の上で何度も寝返りを打って、そのたびに枕元に手を伸ばして、何もないことを確かめていた。
俺も、眠れなかった。
「……屋根、行く?」
ネルが、暗がりの中で言った。
宿の屋根は、窓から軒を伝って上がれる。平らなところが少しだけあって、運河と、王都の屋根の連なりが見渡せた。
夜の王都は、いつもより明るかった。大祭の前の夜で、あちこちの通りに灯りが吊るされていた。遠くの大広場のあたりが、ひときわ明るい。舞台の飾りつけが、まだ続いているのだろう。
ネルは、膝を抱えて座っていた。
「腰が、軽いの」
ネルが、ぽつりと言った。
「紅糸を持つ前は、これが普通だったのに。今は、軽いのが落ちつかない」
「明日の朝には、二本になって戻ってくる」
「わかってるわよ」
ネルは、膝に顎をのせた。
「ばあちゃんの鋏を、親方のところに持っていった日のこと、覚えてる?」
「覚えてる」
「あのとき、あたし、すごく怖かったの。ばあちゃんのものが、ばあちゃんのものじゃなくなっちゃう気がして」
ネルは、運河の灯りを見ていた。
「でも、紅糸になって戻ってきたら、ちゃんと、あたしのものだった。ばあちゃんのものじゃなくなったんじゃなくて。あたしのものに、なったの」
俺は、黙って聞いていた。
「明日、もう一本増えたら。今度こそ、ぜんぶ、あたしの剣になる気がする」
ネルは、少しだけ笑った。
それから、笑うのをやめて、遠くの大広場の明かりを見た。
「……あの下に、いるのよね」
「たぶんな」
「人が、いっぱい来るわよ。ルカも、チビたちも、絶対来る。ミリアさんも、きっと休みを取ってる。宿のおかみさんだって」
ネルの尻尾が、屋根の瓦の上でぎゅっと丸まった。
「リト」
「なんだ」
「明日、あたしの目、ちゃんと勘定に入れてよ」
窪地のふちで、ネルが同じことを言った。あのときは、耳もとで、ほとんど息だけの声だった。
今夜のネルの声は、はっきりしていた。
「入れてるよ。最初から」
「知ってる。でも、言っときたかったの」
ネルは、俺の肩に、こつんと自分の肩をぶつけた。あざのないほうの肩だった。
遠くで、夜の鐘が鳴った。
◇◆◇
夜明け前の工房は、炉の火だけが明るかった。
ガンツさんは、一晩じゅう起きていたらしかった。灰色の髭の三つ編みが、少しだけほつれていた。目の下に、煤がついていた。
金床の横の台の上に、布が一枚広げてあった。
その上に、二本の剣が並んで寝かせてあった。
一本は、紅糸だった。見慣れた細身の刃と、ばあちゃんの裁ち鋏の持ち手の木でできた柄。
もう一本は、その隣にあった。
刃の長さも、細さも、ゆるやかな反りも、紅糸とまったく同じだった。縁が、紅糸と同じように青白く光っている。柄は、黒っぽい硬い木に、細い革をきっちりと巻いてあった。紅糸の柄よりも少しだけ新しい色で、それでも、並べると不思議なくらい釣りあって見えた。
「振ってみろ」
ガンツさんが、言った。
ネルは、二本を両手に一本ずつ取った。
それから、工房の真ん中の、何もないところに立った。息を一つ吸って、二本を同時に振った。
空気が、二度鳴った。
いや、一度だった。二本の刃が切った風の音が、ぴたりと重なって、一つの音になっていた。
ネルの目が、まんまるになった。
もう一度振る。右と、左。少しずらして。今度は、二つの音が、きれいに続いて聞こえた。
「……重さが、同じ」
ネルが、ほとんど息だけの声で言った。
「同じにした。一晩かけてな」
ガンツさんは、椅子にどさりと腰を下ろした。
「紅糸の癖に、こいつを寄せた。紅糸は、お前の手に寄ってきとる。だから、こいつも、もうお前の手だ」
ネルは、新しいほうの剣を顔の前に持ちあげて、縁の光をじっと見ていた。
「名前は」
ガンツさんが聞いた。
「儂は、打つだけだ。名前は、使う奴がつけろ」
ネルは、少しだけ考えた。
紅糸を右手に、新しい剣を左手に持って、並べて見ていた。
「……白糸」
ネルは、言った。
「紅糸の隣だから。白糸」
ガンツさんは、髭の奥でふんと鼻を鳴らした。
「好きにしろ」
それから、炉のほうに顔を向けたまま、ぼそりと付けたした。
「飾りじゃない。どっちも、切るための剣だ。それだけは、忘れるな」
「忘れないわよ」
ネルは、二本を鞘に収めて、腰の左右に差した。
それから、両手を二本の柄に当てたまま、しばらく立っていた。
尻尾が、ふわりと揺れた。一回。二回。三回目は、自分で押さえつけていた。
「……重くなった」
「ちょうどいい重さだろ」
「うん」
ネルは、うなずいた。
「ちょうどいい」
工房の戸口から、朝の光が細く差しこみはじめていた。
◇
大祭の朝の大広場は、花と人でいっぱいだった。
日が昇ってから、まだそれほどたっていない。それなのに、縄の外にはもう人が詰めかけていた。花の冠をかぶった子どもたち。屋台の焼き菓子の匂い。どこかで笛と太鼓が鳴っている。舞台の上の木の枠は、白と黄色の春の花で埋めつくされていた。
ギルドが雇った群衆整理の冒険者たちが、縄の内側に散らばって立っていた。腕に、ギルドの印の布を巻いている。俺とネルの腕にも、同じ布があった。
舞台の左手のいちばん前。縄の前。
俺たちは、そこに立った。
見上げると、舞台の左の端の張りだしに、もう人が立っていた。
銀色の胸当てに、青いマント。日に焼けた、明るい顔。
カールさんだった。
カールさんは、俺たちに気づくと、軽く片手を上げた。笑っていた。城の回廊で、ハンナさんを見つけたときと同じ顔だった。
俺は、小さく頭を下げた。ネルは、下げなかった。
舞台の真ん中では、黒い上着の役人たちが、花の位置を一つずつ直していた。その真ん中に、白髪まじりの髪をなでつけた年配の男が立っていた。分厚い革表紙の帳面を胸に抱えて、役人たちに穏やかな声で指図をしている。
真っ白な手袋。
オズワルドは、一度だけ広場を見渡した。目尻にしわを寄せて、満足そうに笑った。
ネルの手が、腰の二本の柄に、そっと触れた。
それから、ネルの鼻が、ひくりと動いた。
耳が、ゆっくりと後ろへ倒れていった。
「……リト」
「ああ」
俺にも、わかった。
花の匂いと、焼き菓子の匂い。その下から、足もとの石畳の隙間から、甘ったるくて重たい匂いがのぼってきていた。
昨日、排水口の前でしゃがんで、やっと嗅ぎとれた匂い。
それが今は、立ったままでもわかった。




