インクの指
ルカは、宿の帳場の前の長椅子に、どさりと腰を下ろした。
おかみさんが、水の入った木の杯を黙って差しだした。ルカはそれを一息で飲みほして、袖で口をぬぐった。
「昨日の昼だ。ギルドの前に、あの靴の野郎がまた来た」
「また、子どもたちに銅貨を?」
ネルが聞くと、ルカはうなずいた。
「チビたちが、俺に知らせに来た。前に言っといたんだよ。あの靴を見たら、すぐ呼べって」
ルカは、欠けた前歯をのぞかせて、少しだけ得意そうな顔をした。でも、すぐにまた真顔に戻った。
「で、つけた。運河沿いに、ずっと下ってった。古い酒場の裏だ。樽を入れる戸口のとこで、別の男と会ってた」
俺とネルは、顔を見合わせなかった。
見合わせなくても、同じことを考えているのはわかった。昨夜、橋の下で聞いたのと、同じ場所だ。
「俺は向かいの屋根の上から見てた。下から見上げる奴なんか、いねえからな」
「相手の男は、どんな」
「黒い上着の、地味な男だ。若い。……そんで、指がインクで真っ黒だった。銅貨の袋を渡すとき、袋に指のあとがついてたぜ」
ルカは、自分の指先を見せるように広げた。
「その顔を、どこで見た」
俺が聞くと、ルカは少しだけ声を落とした。
「秋の討伐祭だ。最後の日の、城のバルコニー」
ネルの耳が、ぴくりと動いた。
前に、ルカが話してくれたことがある。討伐祭の最後の日、城のバルコニーに王さまの家族が並んで、広場に手を振る。ルカは毎年、それを屋根の上から見ている。いちばん端に、蜂蜜色の髪の小さい姫がいた。
「王さまの家族の、すぐ後ろに立ってたんだ。分厚い帳面を抱えて。手を振る順番だの、どっちを向くだの、いちいち耳打ちしてやがった」
ルカは、鼻にしわを寄せた。
「あの嬢ちゃんが、ちっとも笑ってなかったのはな。たぶん、あいつのせいもある。笑う方向まで、指図されてたからな」
典礼の役所が、歩く場所も止まる場所も、笑う方向まで決める。城の温室で、そう聞いた。
「それとな」
ルカは、少しだけためらってから続けた。
「そいつの後ろに、もう一人いた。爺さんだ。ずっと動かねえで、にこにこしてた。……白い手袋をしてた」
帳場の前が、しんとした。
おかみさんが、聞いていないふりをして、帳面に何か書きつけていた。
「顔は、ぜんぶ覚えてる」
ルカは、自分のこめかみを指でとんとんと叩いた。
「バルコニーのも、酒場の裏のも。同じ奴だ。間違いねえ」
◇
ルカの話には、もう一つ続きがあった。
「靴の野郎のほうだけどな。あいつ、たぶん下町の奴じゃねえ」
「どうしてわかるの」
ネルが聞いた。
「下町の使いっぱしりは、靴なんか買わねえんだよ。銅貨が入ったら、まず腹に入れる。靴なんか、底に穴があいてからでいい」
ルカは、自分の足もとを見下ろした。継ぎはぎの外套の下の靴は、つま先がぱっくりと口を開けていた。
「新しい靴を買うのはな、まとまった金を、先にもらった奴だ」
「……前金」
ネルが、小さくつぶやいた。
霧の渡しで、浅瀬に膝まで凍りついた弓の頭目。あの男が、自警団に引き渡されるときに言った言葉だ。宿場町の酒場で、顔を隠した男に前金をもらった。金貨一枚。若くはなかった。
爪が、やけにきれいだった。
「ルカ」
俺は、ルカの前にしゃがんだ。
「ありがとう。でも、もう、つけるのはやめてくれ」
「なんでだよ。せっかく」
「あいつら、俺たちのことを調べてる。ルカが見てるって知られたら、今度はルカが調べられる」
ルカは、何か言い返そうとした。それから、口をつぐんだ。
妹とチビたちの顔が、浮かんだのかもしれなかった。
「……わかったよ」
ルカは、つまらなそうに鼻の下をこすった。
「でも、顔は覚えてるからな。消せって言われても、消せねえぞ」
「それでいい」
ネルが、腰の小物入れから揚げ菓子の包みを出して、ルカの手に押しつけた。
「チビたちのぶん。見張り代よ」
「……どうも」
ルカは、包みを外套の内側にしまった。ネルの尻尾が、一回だけ揺れた。
◇
ギルドのホールは、朝の依頼を探す冒険者でざわついていた。
掲示板の前の人だかりを避けて、俺たちは壁ぎわを歩いた。ホールの隅の長椅子に、灰色の外套の男が座っていた。膝の上に、焼き栗の紙袋をのせている。
ヴァルトさんだった。
まるで、俺たちが来るのを知っていたみたいに、紙袋の口をこちらへ向けた。
「食うか」
「いただきます」
ネルが、遠慮なく一つつまんだ。
ヴァルトさんは、自分も一つ割って口に入れた。それから、ホールのほうを見たまま、低い声で言った。
「城の鼠は、片づいたか」
「三つとも、終わりました」
「そうか」
それだけ言って、しばらく栗を噛んでいた。
俺は、ルカから聞いたことを話した。靴の男。酒場の裏。黒い上着の、インクの指の若い男。秋のバルコニー。その後ろの、白い手袋の年寄り。
シェイラのことは、言わなかった。
ヴァルトさんは、最後まで口をはさまなかった。話しおわると、外套の内側から、薄い手帳を一冊取りだした。
角がすり切れた、古い革の手帳だった。
「見えたものは、書く。見えなかったものは、書かん」
ヴァルトさんは、手帳を膝の上で開いた。
「霧の渡しの頭目は、宿場町の酒場で金をもらったと言った。俺は、その酒場を見ていない。見ていないものは、書けん」
ヴァルトさんは、ページを一枚めくった。
「だから、見に行った」
ネルが、栗を口に入れたまま固まった。
「試験のあと、まだ雪が残ってるころだ。あの宿場町の酒場は、一軒しかない。主人は、金貨を払っていった客のことを、よく覚えていた。金貨を置いていく客は、あの町には年に何人もいないからな」
ヴァルトさんの指が、手帳の一行をなぞった。癖のない、細い字だった。
「顔を隠した男は、頭巾を深くかぶっていた。卓に金貨を置いて、話は短かった。酒には口をつけなかった」
指が、次の行へ移った。
「店の外に、連れが一人いた。馬を二頭持って、戸口のそばで待っていた。若い男だ。そいつは、顔を隠していなかった」
俺は、息を止めた。
「主人は、こう言った。袖口が、インクで汚れていた。革の書類入れを、大事そうに抱えていた。どこかのお屋敷の書記だろう、と」
ヴァルトさんは、そこで手帳から指を離した。
「これは、主人が見たものだ。俺が見たものじゃない。だから、端に小さく書いてある」
たしかに、その行だけ、ほかより字が小さかった。
ネルが、ゆっくりと栗を飲みこんだ。
「……つながった」
霧の渡しで、リーゼを襲わせた男。その連れの、インクの指の若い男。その男が、今、銅貨を袋ごと渡して、俺たちのことを調べさせている。
そして、秋のバルコニーで、その男の後ろに立っていたのは。
◇
俺の頭の中で、何かが一つ、かちりと噛みあった。
「手袋だ」
声に出していた。ネルとヴァルトさんが、俺を見た。
「あの人は、三十年、人前で手袋を外したことがないって。城の中で、みんなそれを知ってる。白い手袋をしてたら、遠くからでも、誰だかわかる」
ネルの耳が、ゆっくりと前を向いた。
「だったら、逆なんだ。手袋を外して、頭巾をかぶれば」
「……誰にも、わからない」
ネルが、俺の言葉を引きとった。
人前で外さない手袋が、あの人の目印になっている。目印を外せば、ただの爪のきれいな年寄りだ。酒場の主人にも、頭目にも、誰だかわからない。
霧の渡しの頭目が、男の爪を見られたのは、そのためだ。いつもの手袋を、していなかったから。
ヴァルトさんは、しばらく黙って俺の顔を見ていた。
「筋は、通る」
それから、焼き栗の紙袋の口を、くるりと折りたたんだ。
「だが、筋は、見えたものじゃない」
ヴァルトさんは、手帳を外套の内側にしまって、長椅子から立ちあがった。
「上へ行く。今の話は、俺の手帳だけにしまっておくには重すぎる」
ヴァルトさんは、焼き栗の紙袋を外套のポケットに押しこむと、ホールの奥の大階段のほうへ歩きだした。二階の回廊のいちばん奥にある、ギルドマスターの執務室だ。Dランクの試験の結果を聞いたときに、一度だけ入ったことがある。
俺とネルは、顔を見合わせてから、そのあとを追った。
◇
ヴァルトさんが扉を二度叩くと、中から低い声が一つだけ返ってきた。
ギルドマスターの執務室は、相変わらず物が少なかった。
大きな机と、椅子が三つ。壁に古い地図が一枚。窓から差しこむ朝の光が、机の上の書類の山を白く照らしていた。
ギルドマスターは、ヴァルトさんの手帳と、俺の話を、同じ顔で聞いた。岩を削ったような顔の、古い傷のあたりだけが、ときどきわずかに動いた。
話がすべて終わると、ギルドマスターは、太い指で机を一度だけ叩いた。
「顔を隠した男の顔は、誰も見ていない」
「はい」
「インクの指の書記は、ルカのガキと、宿場町の酒場の主人が見ている。だが、書記がどこかの屋敷の誰かに金を渡していたことと、典礼官長が霧の渡しの黒幕だということは、別の話だ」
ギルドマスターは、椅子の背にもたれた。椅子が、ぎしりと鳴った。
「爪がきれいな年寄りは、城にいくらでもいる。手袋の話も、筋は通る。だが、筋だ。証拠じゃない」
ハンナさんと、同じことを言っていた。
「大祭の前に、証拠もなしに典礼官長に手を出せば、どうなるか」
ギルドマスターは、窓の外を見た。王都の屋根の向こうに、城の尖塔が小さく見えていた。
「潰れるのは、あの方じゃない。こっちだ。それから、こっちに話を通した、あちらの方々だ」
あちらの方々。ハンナさんと、王妃さまと、リーゼのことだ。
ネルの尻尾が、椅子の脇でぎゅっと縮こまった。
「じゃあ、何もできないの」
ネルが、低い声で言った。
ギルドマスターは、ネルを見た。
「できることは、ある」
太い指が、ヴァルトさんのほうを指した。
「書記を見ろ。どこへ行って、誰と会って、何を運んでいるか。見えたものだけ、書け」
「見るのは、得意だ」
ヴァルトさんは、表情を変えずに答えた。
それから、ギルドマスターは俺とネルのほうへ向き直った。
「お前たちの持ち場は、変えん。大祭の日、舞台の左手のいちばん前。縄の前だ」
「はい」
「何もなければ、ただの群衆整理だ。ハズレのコンビが、ハズレの仕事をして終わる」
ギルドマスターの声が、少しだけ低くなった。
「何かあったら、お前たちがいちばん近い」
俺は、うなずいた。
ネルも、うなずいた。尻尾は、もう縮こまっていなかった。
執務室を出るとき、ギルドマスターの声が背中に飛んできた。
「それと、城の地下の扉のことは、あちらから聞いている。お前たちは、もう近づくな」
昨夜、シェイラにも同じことを言われた。
俺は、振り返って頭を下げた。
◇
ギルドの石段を下りたところで、ネルの耳がぴんと立った。
石段の下の、通りの真ん中に、一人の男が立っていた。
金色の髪に、白銀の軽鎧。腰には、家紋の入った長剣。通りを行く人たちが、ちらちらとそちらを振り返っていく。剣聖様だ、と誰かがささやく声が聞こえた。
レオンだった。
レオンは、俺たちを見つけると、まっすぐこちらへ歩いてきた。いつもの取り巻きは、一人もいなかった。
「チビ種火」
レオンは、俺の前で足を止めた。青い目が、俺の顔をまっすぐ見下ろしていた。いつもの、皮肉っぽい笑みはなかった。
「お前、城で何をした」
俺は、答えなかった。
ネルが、俺の半歩前に出かけた。俺は、ネルの袖を軽く引いた。
レオンは、通りの人の流れをちらりと見てから、声を落とした。
「昨夜、父上の屋敷に客が来た。典礼の役所の使いだ」
レオンの家は、ヴァイスベルク伯爵家だ。代々、城の内側に席を持つ家だった。
「大祭の警備のことで、話があると言っていた。俺は、廊下で聞いていただけだ。……群衆整理に雇われる冒険者の中に、身元の怪しい者が紛れている。そういう話だった」
レオンは、そこで一度言葉を切った。
石段の上を、冒険者たちが笑いながら下りていった。誰も、こちらを見ていなかった。
「名前が、出ていた」
レオンの声は、ほとんど聞こえないくらい低かった。
「お前たちの」
ネルの尻尾の毛が、ぶわりと逆立った。
俺は、腰のナイフの柄に巻いた、茶色い布の手ざわりを確かめていた。指先が、少しだけ冷たかった。




