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鼠の逃げ道


部屋に戻ると、ネルは包みを机の上に置いた。


それから、しばらく紐をほどかずに眺めていた。耳は立ったまま、尻尾だけがゆっくり揺れている。


「開けないのか」


「開けるわよ。今、開けようと思ってたとこ」


ネルは、細い紐の結び目に指をかけた。ほどき方が、ていねいだった。紐を一本の糸みたいにまっすぐ伸ばして、机の端にそっと置く。それから、包み紙を一枚ずつ開いた。


中から出てきたのは、焼き菓子だった。


花の形をした、手のひらに半分のるくらいの小さな焼き菓子が、二つ。表面に蜂蜜が薄く塗ってあって、ろうそくの火を受けて、とろりと光っていた。部屋じゅうに、甘い匂いが広がった。


「……これ、あの菓子屋の」


ネルが、小さな声で言った。


前に、夜明け前から並んだ菓子屋だ。最後の一つを、ネルとシェイラが同時につかんだ店。


「花の形のは、見たことないわね。春の新作かしら」


「シェイラさん、新作は必ず見てそうだもんな」


「お礼が二つって、どういう勘定よ。パンは一個しか渡してないのに」


「二人ぶん、ってことだろ」


ネルは、ふん、と鼻を鳴らした。でも、尻尾は揺れつづけていた。


俺は、机の上に広がった包み紙に目を落とした。


紙の内側に、何か書いてあった。


細くて、少しだけ右に傾いた字だった。


『今夜。運河の、三つ目の橋』


ネルが、俺の肩ごしに紙を覗きこんだ。


「……前にも、こんなのあったわね」


「石切り場のときだ」


討伐の前の夜。宿の窓枠に挟んであった包み紙にも、同じ細い字で、同じように短く書いてあった。今夜。石切り場で。


あのときは、そこからアラクネの巣へ行くことになった。


ネルは、焼き菓子を包み紙の上にそっと戻した。


「食べないのか」


「お礼を言うのが、先でしょ」


ネルは、もう一度ていねいに包み直した。紐の結び目まで、元どおりだった。



◇


夜の運河は、昼よりも水の音が大きく聞こえた。


岸に並んだ家の窓から、ところどころ明かりがもれている。その明かりが水面に落ちて、舟が通るたびに細かく揺れた。宿から運河に沿って下ると、石の橋が一つ、二つと現れる。ネルは、迷わずに歩いていった。


「三つ目の橋って、どこから数えて三つ目なのかしら」


「宿から、じゃないのか」


「宿の場所、ちゃんと知ってて言ってるってことよね。あの人」


ネルは、少しだけ口をとがらせた。


三つ目の橋は、ほかの橋より古かった。


石の欄干が低く、橋のたもとから水ぎわまで細い石段が下りている。荷を積みおろすための石段らしかった。橋の下は真っ暗で、水の音だけが石の天井に響いていた。


石段を下りきったところで、ネルの耳がびくりと跳ねた。


橋の下の暗がりに、誰かが座っていた。


石段のいちばん下の段に、膝を抱えるようにして。水面に映る家の明かりが、長い銀色の髪の先だけを、ちらちらと照らしていた。


いつからそこにいたのか、わからなかった。俺たちが石段を下りてくるあいだ、ずっと見えていたはずの場所なのに。


「来た」


シェイラは、こちらを見ずに言った。


「……びっくりさせないでよ」


ネルが、胸を押さえて言った。尻尾が、倍くらいにふくらんでいた。


「させてない。座ってただけ」


シェイラは、ようやく顔を上げた。切れ長の紫の目が、暗がりの中で俺とネルを順番に見た。


「二人とも、足がある」


「ミリアさんみたいなこと言わないでください」


「ミリア。あの受付の子」


シェイラは、少しだけ首をかしげた。それから、ネルの手の中の包みを見た。


「食べてない」


「お礼を言うのが先って、言ったの」


ネルは、包みを胸の前に持ったまま、少しだけ背筋を伸ばした。


「……ありがと。お菓子」


シェイラは、何も言わずにネルを見ていた。それから、自分の外套の胸のあたりに、そっと手を当てた。


「パン」


「え?」


「食べた。三日、かけて」


ネルの耳が、ぴんと立った。


「三日? あんなの、ふた口で食べられるでしょ」


「ひと口ずつ。もったいないから」


シェイラは、それだけ言った。


ネルは、何か言い返そうとして口を開けた。でも、何も出てこなかった。尻尾のふくらみが、ゆっくりしぼんでいって、それから、ぱたりと一回揺れた。



◇


ネルが、石段の上で包みを開いた。


花の形の焼き菓子が二つ。三人で、二つ。


ネルは、少し考えてから、一つを俺に差しだした。それから、もう一つを両手で持って、まんなかから、ぱきりと割った。


蜂蜜の匂いが、ふわっと広がった。


ネルは、割った片方を、シェイラのほうへ突きだした。


「半分こ」


シェイラの目が、少しだけ大きくなった。


「前も、こうだったでしょ。最後の一個」


ネルは、そっぽを向いたまま言った。


「お礼のお菓子を、お礼した人が食べないのは、変だもの」


シェイラは、差しだされた半分を、しばらく見ていた。


それから、受けとった。


小さくかじる。噛む。目を閉じる。


「……ん。美味しいね」


その声は、さっきまでの声と、少しだけ違っていた。語尾のところが、ほんのわずかに、やわらかかった。


ネルも、自分の半分をかじった。


「……美味しい」


「うん」


「別に、あんたが選んだからじゃないわよ。お菓子が美味しいの」


「知ってる」


俺は、黙って自分のぶんを食べた。花びらの端がさくっと崩れて、中から蜂蜜がじわりとしみだしてきた。


橋の上を、誰かの足音が通りすぎていった。水の音が、また大きく聞こえた。



◇


最後のひとかけらを飲みこんでから、シェイラは指先についた蜂蜜を、外套の裾で軽く拭いた。


「本題」


声が、いつもの淡々とした声に戻っていた。


「君たちの周り、嗅ぎまわってる人がいる」


ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。


「……靴の新しい人なら、知ってます」


俺は言った。


「一回、まきました。運河の石段で」


「うん。その人も」


シェイラは、うなずいた。


「おととい、王都に着いた。君たちを探しに、ギルドへ行った。いなかった」


「仕事で、出てました」


「知ってる。そのとき、ギルドの前で、男が子どもたちに銅貨を配ってた。靴が新しかった」


ルカが言っていた、使いっぱしりだ。


「その人、子どもたちに聞いてた。『狐の娘と一緒の、小さい種火の冒険者。あの二人、何の魔法を使う』って」


俺は、息を止めた。


前にルカから聞いたのは、居場所だった。どこの宿に泊まっているか、どこへ出かけたか。


今度は、違う。


「子どもたちは、なんて」


「ロウソクくらいの火、って」


シェイラは、ほんの少しだけ口のはしを上げた。


「正しい。半分は」


ネルが、肘で俺の脇腹をつついた。笑いごとじゃないでしょ、という顔だった。


シェイラの口のはしは、すぐに元に戻った。


「居場所を探すのは、会いたいとき。何ができるかを探すのは」


シェイラは、運河の暗い水面を見た。


「片づけたいとき」


橋の下の空気が、ひやりと冷えた気がした。



◇


「その人を、つけた」


シェイラは、続けた。


「運河沿いの、古い酒場の裏。荷を入れる戸口のところで、別の男に会ってた。黒い上着の男。銅貨を、袋ごともらってた」


「黒い上着」


「地味な上着。どこにでもいる、役人みたいな格好。でも」


シェイラは、自分の胸の左のあたりを、指で軽く叩いた。


「ここ。上着の内側に、銀の飾りをつけてた。袋を出すとき、ちらっと見えた。表につけるものを、わざと内側につけてる感じだった」


「どんな、飾りですか」


シェイラは、指で空中に形を描いた。


「上が、冠みたいな形。その下に、細い棒が一本。横向きに」


ネルの耳が、ゆっくりと後ろへ倒れた。


俺には、その形がわかった。


ガンツさんの工房で、親方が口にした紋。大祭の儀仗の剣を注文しに来た使いの、典礼の役所の紋だ。冠のような形の下に、細い巻物が一本。


それから、城の絨毯の廊下ですれ違った、黒い上着の役人たち。あの人たちの胸にも、同じ銀の飾りが光っていた。


「棒じゃなくて、巻物です。たぶん」


俺は、言葉を選びながら言った。


「典礼の役所の、紋だと思います」


シェイラは、俺の顔をじっと見た。


「知ってるの」


「……仕事で、見たことがあります」


それ以上は、言えなかった。城のことも、リーゼのことも。左にいると約束した相手のことを、たとえシェイラにでも、勝手に話すわけにはいかなかった。


シェイラは、何秒か黙っていた。


紫の目が、俺の顔から、ネルの止まった尻尾へ、それからまた俺の顔へ戻った。


「そう」


それだけ言った。


「聞かない」


ネルの尻尾の先が、ほんの少しだけゆるんだ。


「一つだけ」


シェイラは、指を一本立てた。


「黒い上着の男。手袋は、してなかった。爪は、普通。少し、インクで汚れてた」


ネルが、俺の顔を見た。


手袋をしていない。爪は、きれいじゃない。


あの人じゃない。あの人の下で、帳面を書いている誰かだ。


ハンナさんの言葉が、頭に浮かんだ。あの方とは限りません。お下の誰かかもしれません。


お下の誰かが、銅貨を袋ごと渡して、俺たちが何の魔法を使うのか調べさせている。


なら、その上には。



◇


「シェイラさんは、どうして王都に」


俺が聞くと、シェイラは少しだけ首をかしげた。


「森のあと、一度、北へ行った。それから、こっちに来た」


「何か、あったんですか」


「鼠」


「……鼠?」


ネルが、思わず聞き返した。


シェイラは、真顔のままうなずいた。


「ギルドの掲示板。冬の終わりから、鼠退治の依頼が増えてる。下町の井戸のそば。粉屋の倉。パン屋の床下。古い屋敷の地下」


シェイラは、指を一本ずつ折っていった。


「どこも、鼠が下から上に出てきてる。地面の下にいたのが、上へ」


「弱いものが棲み処を捨てて押しだされるのは、もっと強い何かが近くに棲みついたしるし」


シェイラは、俺のほうを見た。


アラクネのときも、そうだった。森の浅いところに、いるはずのない毒牙蜘蛛が出てきた。その奥に、女王がいた。


「王都の、下」


シェイラは、橋の下の暗い水面を見つめた。


「古い水路が、ある。昔の砦のころの。今はもう、全部を知ってる人はいない」


城の地下倉で、ハンナさんも同じことを言っていた。


俺は、ネルを見た。ネルも、俺を見ていた。


城の地下倉にいた、猫ほどもある大鼠。五年、誰にも退治されなかった鼠。いちばん深い倉にだけ、鼠がほとんどいなかったこと。


それから、錆だらけの扉に下がった、真新しい真鍮の錠前。


「……シェイラさん」


俺は、言葉を選んだ。城の名前は出さずに。


「仕事で入った、古い倉があります。その奥に、閉ざされた水路の扉がありました。古い扉なのに、錠前だけが新しかった」


シェイラの目が、わずかに細くなった。


「扉の前に、靴の跡がいくつも。それと、何か重いものを、扉の下へ引きずった跡」


「匂いもしたの」


ネルが、横から言った。


「ランプの油。それと、古い匂い。甘くて、嫌な匂い」


シェイラが、動かなくなった。


水の音だけが、橋の下に響いていた。


さっきまで、焼き菓子をかじっていた人と、同じ人には見えなかった。窪地のふちで、片角の大熊の寝息を聞いていたときの顔だった。


「……甘くて、古い」


シェイラは、ネルの言葉をゆっくり繰り返した。


「それ、どこで」


言いかけて、シェイラは自分で口を閉じた。


「いい。聞かないって、言った」


「何か、知ってるんですか」


俺の問いに、シェイラはすぐには答えなかった。


「確かめてから、話す」


それから、俺とネルを順番に見た。


「その扉。今は、もう近づかないで」



◇


シェイラは、石段から立ちあがった。


背が高い。暗がりの中で、銀色の髪が腰のあたりで揺れた。


「春の大祭。もうすぐでしょ」


「はい。俺たち、その日は広場にいます。群衆整理の仕事で」


ギルドが毎年出している依頼だ。言っても困ることはない。


シェイラは、少しだけ眉を寄せた。


「私も、王都にいる。でも、広場では、あまり動けない」


「どうしてですか」


「人が、多すぎる」


シェイラは、自分の右手を見下ろした。細身の曲刀の柄に、指が軽くかかっていた。


「私の剣は、まわりごと斬る。魔法は、まわりごと吹き飛ばす。それに」


シェイラは、言葉を一つ置いた。


「人がいっぱいのところで、音を消したら。逃げろって声も、消える」


アラクネの巣の前の夜、石切り場でシェイラが言ったことを思いだした。私は、強すぎる。守りたいものまで、壊してしまう。


あの夜から、それは何も変わっていないのだ。


「だから、広場の真ん中は、君たち」


シェイラは、まっすぐ俺を見た。


「何もなければ、いい。でも、何かあったら」


「……はい」


俺は、うなずいた。


ネルが、俺の隣で小さく息を吸った。


「左は、あたしたちが見てる」


ネルは、言いかけてから、少し顔を赤くした。


「……舞台の、左手側って意味よ。持ち場が」


シェイラは、ネルを見た。何も聞かなかった。ただ、口のはしが、ほんの少しだけ上がった。


「うん。あの子なら、ちゃんと見る」


ネルの尻尾が、ぶわっとふくらんだ。



◇


帰り際、シェイラは橋の上へ続く石段の途中で、一度だけ足を止めた。


「今夜も、一人いた」


ネルの耳が、ぴんと立った。


「宿を出たところから。君たちの、ずっとうしろ」


俺は、振り返りそうになるのをこらえた。気づかなかった。ネルの耳でさえ。


「……今は」


「もう、いない」


シェイラは、橋の上の暗がりのほうを見た。


「何をしたんですか」


「何も。帰り道を、少し、長くしてあげただけ」


それがどういう意味なのか、聞いても教えてくれない気がした。


シェイラは、また石段を上りはじめた。足音は、一つもしなかった。橋の上へ出たところで、銀色の髪がふっと夜の中に溶けた。


あとには、水の音だけが残った。


ネルは、しばらく橋の上を見上げていた。それから、空になった包み紙を、ていねいにたたんだ。細い紐も、一緒にくるくると巻いた。


「捨てないのか、それ」


「捨てないわよ。紙は、何にでも使えるの」


ネルは、たたんだ包み紙を、外套の内側にしまった。


内側に、細い字が書いてある紙だった。



◇◆◇




翌朝、宿の帳場の前で、おかみさんが困った顔をしていた。


「あんたたちに客だよ。客っていうか、その」


おかみさんの肩ごしに、継ぎはぎの外套が見えた。


ルカだった。走ってきたのか、肩で大きく息をしていた。


「ルカ? どうしたの、こんな朝から」


ネルが聞くと、ルカは膝に手をついたまま、顔だけを上げた。


いつもの、にやにやした顔ではなかった。


「見つけたぞ」


「何を」


「顔だよ」


ルカは、自分の目を指さした。


「あの靴の新しい野郎と、一緒にいた奴の顔。……俺、前にも見たことがある」



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