典礼の帳面
その夜、宿の部屋で、ネルは寝台の端に座ったまま、ずっと鼻をひくひくさせていた。
「まだ、残ってる気がする」
「何が」
「あの手袋の人の匂い。すれ違ったときの」
ネルは、自分の外套の袖を鼻に近づけた。それから、顔をしかめて離した。
「インクの匂い。それと、甘い油。髪につける、高い香油みたいな」
俺は、机の上のろうそくの火を見ていた。
廊下ですれ違ったのは、ほんの何秒かだった。穏やかな笑み。目尻のしわ。胸に抱えた、革表紙の分厚い帳面。真っ白な手袋。
それと、ハンナさんの右手。城に入ってから、一度も動かなかった右手が、あのときだけ指一本ぶん動いた。
「ヴァルトさんが聞いてきた話、覚えてるか」
「顔を隠した、若くない男。爪がきれい」
ネルは、指を折って数えるように言った。
「金貨一枚、前金で払った」
「手袋をしてたら、爪がきれいかどうかなんて、誰にもわからない」
ネルの耳が、ぴくりと動いた。
「……わざと、ってこと?」
「わからない」
俺は、首を横に振った。
「ただ、手袋の下は、見えない」
ろうそくの火が、小さく揺れた。窓の外で、夜の運河を行く舟の櫂の音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
◇◆◇
翌朝も、俺たちは西の門をくぐった。
鼠退治の依頼書には、地下倉、とだけ書いてあった。でも、ハンナさんが言うには、城の地下倉は一つじゃなかった。昨日の倉は、三つあるうちの一つ目だった。
「依頼は、地下倉の鼠の駆除でございます。地下倉、すべての」
ハンナさんは、表情一つ変えずに言った。
ネルが、ちらりと俺の顔を見た。依頼書の書き方まで、最初から決めてあったらしい。何日か続けて、堂々と城に入れるように。
二つ目の倉は、一つ目よりも古かった。
天井が低くて、石の壁にはところどころ苔が生えている。古い麦の袋と、空の酒樽が並んでいた。ネルが壁ぎわを見て回るあいだに、ハンナさんは倉の入口の扉を閉めた。それから、外の廊下に耳を澄ませるように、しばらくじっと立っていた。
「ここなら、話せます」
ハンナさんは、空の酒樽の前に立った。俺たちのほうに向き直る。
「お嬢さまのことを、少しだけお話しいたします。お二人は、左に立ってくださる方ですから」
◇
「お嬢さまのお母上は、今の王妃さまでございます」
ハンナさんは、静かに話しはじめた。
「陛下の、二人目のお后さまです。先のお后さまが亡くなられたあとに、お輿入れなさいました。小さな家のご出身で、城の中に、頼れるお身内がほとんどいらっしゃいません」
「後ろ盾、っていうやつ?」
ネルが聞いた。
「左様でございます。城の中では、それがないと、何をするにも声が小さくなります」
ハンナさんは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「お嬢さまには、腹違いの兄上がいらっしゃいます。先のお后さまのお子で、王太子殿下です」
「その人は、リーゼの味方なの?」
ネルの問いに、ハンナさんはすぐには答えなかった。
古い麦の袋の陰で、何かががさりと動いた。ネルが振り向きもせずに、そっちへ小石を一つ放った。鼠の鳴き声がして、また静かになった。
「わかりません」
ハンナさんは、やっと言った。
「殿下は、お嬢さまに優しくしてくださいます。けれど、殿下のまわりにいる方々が、みな同じお気持ちかどうかは、私にはわかりません」
「お嬢さまが大祭で人前に出れば、王家の一人として、城の中に席ができます。小さな席でも、席は席です。それを喜ばない方が、どこかにいらっしゃるのです」
城の中は、川の上より危のうございます。
封筒の底の一行が、また頭に浮かんだ。川の上では、敵は霧の中から矢を射てきた。でも、少なくとも、それが敵だとはわかった。
城の中では、それすらわからないのだ。
◇
「昨日の、手袋の人は」
俺が聞くと、ハンナさんは、ゆっくりと息を吐いた。
「典礼官長の、オズワルドさまでございます」
ハンナさんの声は、低かった。
「大祭も、お嬢さまの披露目も、あの方が取り仕切っておられます。花冠を載せるのも、あの方です」
「あの人が、怪しいってこと?」
ネルが、声を落とした。
ハンナさんは、すぐにはうなずかなかった。
「王家の者が城の外へ出るときは、どんな用でも、必ず典礼の帳面に書かれます。いつ、どの門から、誰と、どこへ。それが城の決まりです」
「じゃあ、リーゼのお忍びも」
「書かれておりました。お忍びの中身までは書かれません。ただ、お嬢さまが、ある日、南の門から、侍女一人を連れて出た、ということだけは」
ハンナさんは、自分の左手を見下ろした。
「あのお忍びを知っていたのは、王妃さまと、私と、その帳面を読むことのできる方だけでございます」
倉の中が、しんと静かになった。
天井の石のすきまから、水が一滴、ぽたりと落ちた。
「典礼の帳面を読めるのは、典礼官長と、そのお下の役人たちだけです。ですから、あの方とは限りません。お下の誰かかもしれません」
ハンナさんは、言葉を選ぶように、一つずつ区切って話した。
「ただ。あの方は、三十年、手袋を外したことがないと言われております。大切な書を汚さないためだと」
「三十年」
「私は、一度だけ、外したところを見たことがございます」
ハンナさんの目が、遠くを見た。
「まだ、近衛にいたころです。冬至の祭事の夜、祭壇の蠟燭の火が、あの方の手袋の指先に燃えうつりました。あの方は、すぐに手袋を外して、床に捨てました」
「そのときに見えた手は、本を何千冊めくってきた方の手とは、思えませんでした。指は細くて、白くて。爪は、磨いたようにきれいでございました」
ネルの尻尾が、ぴたりと止まった。
「でも」
ハンナさんは、首を横に振った。
「爪がきれいな方なら、城にはいくらでもいらっしゃいます。手を汚す仕事をしない方は、みなそうです。私の心当たりは、心当たりでしかございません」
「それに」
ハンナさんは、少しだけ声を落とした。
「証拠もなく典礼官長を疑ったと知れれば、王妃さまのお立場が、もっと小さくなります」
それで、ハンナさんの右手は、指一本ぶんしか動かなかったのだ。
◇
二つ目の倉の鼠は、昨日より少しだけ手こずった。
巣が古い酒樽の中にあって、泡を張る出口が多かったからだ。それでも、昼前には麻袋が二つ重くなった。
三つ目の倉へ向かう途中、使用人の廊下が、一度だけ広い回廊とつながるところがあった。
そこで、一人の騎士とすれ違った。
銀色の胸当てに、青いマント。近衛の騎士だった。三十をいくつか過ぎたくらいの、日に焼けた明るい顔の男だった。ハンナさんを見つけると、ぱっと顔をほころばせた。
「ハンナじゃないか。地下で鼠退治の見張りだって? 近衛の右腕と言われた女が、ずいぶん地味な仕事をしてるな」
「カールさま」
ハンナさんは、軽く頭を下げた。
「お嬢さまのお世話は、地味な仕事ばかりでございますので」
「相変わらずだな」
カールと呼ばれた騎士は、からからと笑った。それから、俺とネルをちらりと見た。
「大祭の日は、俺が王女殿下の警護につく。舞台の上だ。お前も右にいるんだろう? 昔みたいに、二人で並べるな」
「左様でございますか」
「なんだ、うれしくないのか」
「うれしゅうございます」
ハンナさんは、少しも表情を変えずに言った。
カールさんは肩をすくめて、また笑いながら回廊を歩いていった。気のいい人なんだろうな、と思った。ネルも、尻尾をゆるく揺らしていた。
でも、ハンナさんの右手は、すれ違ってからも、外套の内側で空いたままだった。
使用人の廊下に戻ってから、俺は小さな声で聞いた。
「昔の、お仲間ですか」
「同じ年に、近衛に入りました」
ハンナさんは、前を向いたまま答えた。
「良い方です。昔から」
それきり、何も言わなかった。
良い方だと思っている昔の仲間にも、右手は空けておく。それが、城の中で生きるということなのかもしれなかった。
◇
三つ目の倉は、いちばん深いところにあった。
階段をさらに一つ下りる。空気は冷たくて、湿っていた。水の流れる音が、昨日よりずっと近くに聞こえた。
倉の中には、ほとんど何もなかった。壊れた椅子と、底の抜けた樽が少し。鼠の糞も、ほかの倉より少なかった。
「ここ、鼠もあんまりいないわね」
ネルが、松明をかざして倉の奥へ歩いていった。
それから、足を止めた。
「リト。これ」
倉のいちばん奥の壁に、鉄の扉があった。
人の背丈より少し低い、古い扉だった。表面は赤茶色の錆に覆われて、ところどころ穴が開きかけている。扉の向こうから、水の音が聞こえてきた。
「古い水路への扉でございます」
ハンナさんが、後ろから言った。
「ずっと昔に閉ざされて、今は誰も――」
ハンナさんの言葉が、途中で止まった。
ネルが、松明の明かりを、扉の取っ手の下に近づけていた。
錆だらけの扉に、錠前が一つ、下がっていた。
真新しい、真鍮の錠前だった。松明の火を映して、つやつやと金色に光っている。錆の一つも、埃の一粒もついていなかった。
「……ハンナさん。これ、知ってましたか」
「存じません」
ハンナさんの声が、少しだけ硬くなった。
俺は、しゃがんで床を見た。
扉の前の床には、厚い埃が積もっていた。何年も、誰も歩かなかった埃だった。でも、扉の前の、ちょうど人が立つところだけ、埃が乱れていた。
靴の跡だった。
一人じゃなかった。大きさの違う跡が、いくつも重なっている。それから、何か重いものを引きずったような、太い筋が一本。扉の下の隙間へと続いていた。
「新しいわ」
ネルが、鼻を床に近づけて言った。
「ここ何日か。油の匂いがする。ランプの油。それと」
ネルは、顔をしかめた。
「なんか、古い匂い。甘くて、嫌な匂い」
扉の向こうで、水の音がしていた。
ずっと昔に閉ざされて、どこへ通じているのか、すべてを知る者はもう城にいない水路。その扉に、誰かが新しい錠前をつけて、ここ何日かのあいだに、何かを運びこんでいる。
ハンナさんは、しばらく真新しい錠前を見下ろしていた。
それから、何も言わずに、左手で俺の肩に軽く触れた。
戻りましょう、という合図だった。
倉を出るとき、俺は一度だけ振り返った。松明の明かりが届かなくなった倉の奥で、真鍮の錠前だけが、ぼんやりと光っていた。
◇
夕方、宿に戻ると、おかみさんが帳場から身を乗りだした。
「ああ、あんたたち。ちょうどよかった」
おかみさんは、なぜか少しだけ頬を赤くしていた。
「昼過ぎにね、女の人があんたたちを訪ねてきたんだよ。それがまあ、えらくきれいな人でさ。肌が日に焼けたみたいな色で、髪が長い銀色で、耳が、こう、すうっと長くて」
ネルの耳が、ぴんと立った。
「留守だって言ったら、これを置いていったよ」
おかみさんは、帳場の下から小さな包みを取りだした。紙で丁寧にくるんで、細い紐で結んである。手のひらにのるくらいの大きさだった。
「なんて言ってました?」
俺が聞くと、おかみさんは首をかしげた。
「蜂蜜パンの、お礼だってさ」
ネルが、包みを受け取った。
それから、包みに鼻を近づけて、目を丸くした。
「……甘い匂い」
ネルは、包みを両手で持ったまま、俺の顔を見た。耳は立ったままだった。でも、尻尾は、ほんの少しだけ揺れていた。
「王都で、また」
ネルが、小さくつぶやいた。
森の出口で、あの人が言った言葉だった。




