白い手袋
俺は、振り返らずに歩いた。
運河沿いの道は、少し先で石段になって、船着き場へ下りていく。荷を積みおろす人足たちが、濡れた石段を何人も行き来していた。
「ネル。石段を下りたら、どっちに逃げる」
「左の倉の陰。そこから染物屋の裏に抜ける路地があるの。荷物持ちのころ、近道に使ってた」
ネルは、前を向いたまま答えた。尻尾が、またゆっくり揺れはじめていた。何も気づいていないふりをするのが、うまい。
俺たちは石段を下りはじめた。
後ろの足音も、同じ速さでついてくる。石段の真ん中あたりまで来たところで、俺は腰の横で指を小さく弾いた。
米粒ほどの泡が一つ、俺の指先から転がり落ちた。
誰にも見えないくらい小さな、滑り泡だった。泡は濡れた石段の上をころころと転がって、三段上の、ちょうど人の足が下りてくるところで止まった。
(……一)
すぐ後ろで、短い悲鳴が上がった。
振り返ると、さっきの男が石段の上で両足を宙に浮かせていた。そのまま、尻から派手に石段を滑り落ちていく。途中で、花売りが水を張っていた桶にぶつかった。桶がひっくり返って、春の花と水が石段いっぱいに広がった。
「ちょっと、あんた! うちの花!」
花売りのおかみさんの怒鳴り声。人足たちの笑い声。男は、ずぶ濡れのまま花に埋もれて、起きあがろうとしてまた滑った。
そのときにはもう、俺たちは倉の陰に入っていた。
染物屋の裏の路地は、色とりどりの布が頭の上にいくつも干してあって、昼間でも薄暗かった。藍の匂いのする布をくぐり抜けて、ネルはずんずん奥へ進んでいく。三つ目の角を曲がったところで、ようやく足をゆるめた。
「……あの人、花まみれだったわね」
ネルは、肩を震わせていた。
「泡、一個だけだぞ」
「一個で十分よ」
ネルは笑いながら、それでも耳だけはまだ後ろへ向けていた。足音は、もう聞こえなかった。
◇◆◇
翌朝、俺たちは城の西の門へ向かった。
西の門は、俺が思っていたよりずっと小さかった。王都の大通りに面した正門とは違って、裏通りの奥にひっそりとある。荷車が一台やっと通れるくらいの幅で、門の前には野菜の籠や粉袋を積んだ荷車が何台か並んでいた。城の台所に品物を納める商人たちの門らしかった。
門番は、槍を持った中年の男だった。
俺は、上着の内側から銀の割り符を出して、手のひらにのせて見せた。門番の眉が、ほんの少しだけ動いた。それから、何も聞かずにうなずいて、門の奥へ早足で消えていった。
ネルと二人、荷車の列の横で待った。
しばらくして戻ってきた門番は、俺たちの前に立つと、ちらりと門の奥を振り返った。それから、声を落とした。
「あの侍女さん、ひと月近く、毎朝ここに来てたよ」
「毎朝、ですか」
「雨の日もな。来て、門の外をひと回り見て、何も言わずに帰っていく。今朝もさっき来たばかりだ」
門番は、それだけ言うと、また槍を持って門の脇に立った。
門の奥から、足音が近づいてきた。
紺色の簡素な服に、灰色の外套。黒髪をきっちりとまとめた女の人が、まっすぐ俺たちのほうへ歩いてくる。右手は、外套の内側に軽く添えたまま、何も持っていなかった。
ハンナさんは、俺たちの前で足を止めた。
「お待ちしておりました」
それだけだった。
でも、ハンナさんの目は、俺とネルの顔を一度ずつ、ゆっくりと見た。南門の手前の木立で別れた日と、同じ目だった。
「お手紙、読みました」
「左様でございますか」
「封筒の底の、小さい紙も」
ハンナさんの左手が、ほんの少しだけ止まった。
「……お嬢さまには、内緒にしておいていただけますか。あれは、私が勝手に入れたものですので」
◇
ハンナさんは、門の内側には入れてくれなかった。
門の脇の、荷車の陰になったところで、小さな声で話した。荷車の向こうでは、商人と台所番が、玉ねぎの値段で言いあっていた。
「城に入る者は、すべて名前を帳面に書かれます」
ハンナさんは言った。
「お客さまとしてお通しすれば、誰の客なのかも書かれます。その帳面を、誰が読むのかは、私にはわかりません」
俺は、ハンナさんの追伸の一行を思いだした。城の中は、川の上より危のうございます。
「ですので、お二人には、仕事で入っていただきます」
「仕事?」
ネルが首をかしげた。
「お昼過ぎに、城からギルドへ、依頼を一つ出させていただきます。地味で、手間ばかりかかって、誰もやりたがらない依頼です」
ハンナさんは、表情を少しも変えなかった。
「ギルドマスターには、もう話を通してございます」
◇
昼過ぎに、ギルドのホールへ戻った。
依頼の掲示板の前には、昼休みを終えた冒険者たちが何人もたむろしていた。俺とネルは、なんとなく掲示板を眺めるふりをしながら、受付のほうをうかがった。
ミリアさんが、受付台の向こうから手招きしていた。
「リトさん、ネルさん。ちょうどよかった」
ミリアさんは、いつもの笑顔で、受付台の上に一枚の依頼書を置いた。
「Dランクのお二人に、ぴったりのご依頼があるんです。今日のお昼に届いたばかりで」
依頼書には、こう書かれていた。
城の地下倉の、鼠の駆除。倉の古い樽や木箱を荒らす大鼠を退治すること。報酬は、大銅貨八枚。
「鼠、ですか」
「はい。お城の地下倉は広くて、暗くて、じめじめしていて、どなたも受けたがらないんです」
ミリアさんは、にこにこと笑ったまま言った。
「それに、お城のご依頼は、身元のしっかりした方にしかお回しできませんので。Dランクになったばかりで、悪い噂の一つもない、地味で確実なお二人なら、ちょうどいいかなって」
地味で確実、という言葉のところだけ、ミリアさんは少しだけゆっくり言った。
隣で、ネルが小さく吹きだしかけて、こらえた。
「受けます」
「ありがとうございます」
ミリアさんは、帳面にさらさらと書きこんだ。それから、判を押した依頼書を俺に渡しながら、いつもより少しだけ小さな声で付けたした。
「お城の地下は、迷いやすいそうですから。ちゃんと、帰ってきてくださいね」
掲示板の前で、誰かが笑うのが聞こえた。
「おい見ろよ。ハズレのやつ、城の鼠退治だってよ」
「似合いすぎだろ」
ネルの尻尾が、ばさっと一回揺れた。怒っているんじゃなかった。笑いをこらえているときの揺れ方だった。
◇
依頼書を見せると、西の門の門番は今度は黙って通してくれた。
ハンナさんが、門の内側で待っていた。
「倉まで、ご案内いたします」
城の中は、思っていたよりずっと静かだった。
ハンナさんに続いて、使用人の通る細い廊下を歩く。石の壁は厚くて、外の音がほとんど聞こえない。ときどき、洗濯物の籠を抱えた下働きの娘や、銀の盆を持った給仕とすれ違った。みんな、ハンナさんに会釈をして、俺たちのことは見ないふりをして通りすぎていった。
石の階段を、ぐるぐると下りる。
一段下りるたびに、空気がひんやりと湿っていった。どこか遠くで、水の流れる音がしていた。
「水の音がする」
ネルが、耳をぴくりと動かした。
「城の下には、古い水路が通っております」
ハンナさんが、前を向いたまま答えた。
「王都がまだ小さな砦だったころの水路だそうです。今はほとんど使われておりません。どこへ通じているのか、すべてを知る者は、もう城にはおりません」
階段の下の地下倉は、たしかに広かった。
古い樽や木箱が、天井近くまで積みあがっている。床には、齧られた木くずと黒い粒が点々と散らばっていた。ネルが壁ぎわにしゃがんで、木箱の角をのぞきこむ。
「穴が三つ。巣は、たぶんあの奥の樽の裏ね」
鼠退治は、すぐに終わった。
ネルが巣穴を見つけて、俺が穴の出口ごとに泡を張る。追いだされて飛びだしてきた大鼠は、猫ほどの大きさがあった。でも、泡に鼻先から突っこんで、そのまま閉じこめられて、じたばたするだけだった。ハンナさんは、泡の中で暴れる大鼠を、表情一つ変えずに見下ろしていた。
「お見事でございます」
「鼠ですから」
「いいえ」
ハンナさんは、空っぽになった巣穴のほうを見た。
「この倉の鼠は、五年、誰にも退治されませんでした」
◇
鼠を麻袋にまとめると、ハンナさんは倉の奥の、小さな木の扉を開けた。
「こちらへ」
扉の向こうには、また細い階段があった。今度は上りだった。上りきったところの扉を開けると、急に、まぶしい光と、甘い匂いがあふれてきた。
ガラスの屋根の、小さな温室だった。
古くて、ところどころガラスが曇っている。でも、中は春よりもっと暖かくて、見たことのない花がいくつも咲いていた。
その花のあいだに、女の子が一人立っていた。
蜂蜜色の髪に、若葉色の大きな目。髪には、水色のリボン。肩には、ネルが繕った、あの外套をはおっていた。
リーゼは、俺たちを見て、ぱっと顔を輝かせた。
一歩、駆けだした。
それから、何かを思いだしたように、急に足を止めた。背筋をのばして、両手を前で重ねる。王女さまらしい、すまし顔を作ろうとしているのがわかった。
二秒くらいは、もった。
「……ネル!」
すまし顔が、くしゃっと崩れた。リーゼは、そのままネルに飛びついた。ネルが、よろけながら受け止める。
「ちょ、ちょっと! 王女さまでしょ、あんた!」
「今は、いいの!」
ハンナさんが、温室の入口で静かに扉を閉めた。何も言わなかった。でも、止めもしなかった。
ネルは、リーゼを引きはがすと、肩にかけた袋から油紙の包みを取りだした。
「はい。お土産」
リーゼが包みを開けた。中には、厚く切った干し肉が何枚も入っていた。宿の台所で、朝のうちにネルが炙っておいたものだった。
リーゼの目が、まんまるになった。
「焚き火の、干し肉……」
「焚き火じゃないけど。宿のかまどだけど」
「なりま――」
ハンナさんが、言いかけた。
リーゼが、干し肉を胸に抱えたまま、くるりと振り返った。若葉色の目で、じっとハンナさんを見上げる。
ハンナさんは、しばらく黙っていた。
「……本日だけで、ございます」
リーゼが、干し肉にかぶりついた。もぐもぐと噛んで、それから少しだけ首をかしげた。
「焚き火の味が、しないわ」
「だから、かまどだって言ったでしょ」
ネルが笑った。リーゼも笑った。温室の曇ったガラスの向こうで、春の日差しがやわらかく揺れていた。
◇
温室の隅の、古い石のベンチに、四人で並んで座った。
リーゼは、干し肉を一枚食べ終わると、指先をハンナさんに拭いてもらいながら、春の大祭のことを話しはじめた。
大祭の日、王都の大広場には舞台が組まれる。昼過ぎ、王家の人たちがその舞台に上がる。リーゼが人前に出るのは、そのときが初めてだった。
「舞台の真ん中で、花冠を載せてもらうの。十五になった王家の子は、みんなそうするんですって」
「誰に載せてもらうの」
ネルが聞いた。
「典礼官よ。大祭のことは、ぜんぶ典礼の役所が決めるの。わたしがどこを歩いて、どこで止まって、どっちを向いて笑うかまで」
リーゼは、少しだけ唇をとがらせた。
「笑うところまで決まってるのよ。おかしいでしょう?」
「それで、俺たちは」
俺が聞くと、ハンナさんが口を開いた。
「大祭の日には、毎年、ギルドが群衆の整理に冒険者を何組も雇います。人が舞台に押しよせないように、縄を張って、その前に立つ仕事です」
ハンナさんは、俺とネルを順番に見た。
「今年の一組に、仄かな灯を入れていただくよう、ギルドマスターにお願いしてございます。持ち場は、舞台の左手の、いちばん前です」
縄の前に立つ冒険者なら、何組もいる。誰も、いちいち顔なんて覚えない。
目立たない冒険者として、左にいてほしい。手紙の一行が、そのまま形になっていた。
「……地味ね」
ネルが言った。
「地味でございます」
ハンナさんがうなずいた。
「お二人には、いちばん似合うお仕事かと」
ネルが、ふん、と鼻を鳴らした。でも、尻尾は揺れていた。
リーゼは、しばらく黙って、膝の上の外套の裾をいじっていた。ネルの縫った、細かい縫い目のあるところだった。
「あのね」
小さな声だった。
「本当は、ちょっと怖いの」
俺もネルも、何も言わなかった。
「人がたくさん見てるところで、何か間違えたらどうしようって。それに」
リーゼは、外套の裾をぎゅっと握った。
「川の上のこと。わたしが城の外にいたことを、知っていた人がいたのよね。その人は、たぶん、今もお城のどこかにいるの」
温室の中が、少しだけ静かになった。
ガラスの屋根の上を、鳥の影が一つ横切っていった。
「左にいる」
俺は言った。
それしか、言えることがなかった。でも、リーゼは顔を上げて、俺の顔を見た。
ネルが、リーゼの肩を軽くつついた。
「目をそらしちゃ、だめよ」
王都の南門の手前の木立で、別れぎわにネルが言ったのと、同じ言葉だった。
リーゼは、目を丸くした。それから、ゆっくりと笑った。
「はい、ネル先生」
◇
帰りは、ハンナさんが別の廊下を案内してくれた。
地下倉へ戻る階段とは逆の、少し広い廊下だった。床には細長い絨毯が敷かれていて、壁には古い旗がいくつも掛かっている。鼠の入った麻袋を担いだ俺は、どう見ても場違いだった。
角を曲がったところで、ハンナさんが足を止めた。
廊下の向こうから、役人の一団が歩いてきた。
五、六人。みんな、同じ形の黒い上着を着ていた。胸もとに、小さな銀の飾りが光っている。冠のような形の下に、細い巻物が一本。
ガンツさんの工房の、炭俵の上で見た紋だった。
先頭を歩いているのは、年配の男だった。白髪まじりの髪をきれいになでつけて、穏やかな笑みを浮かべている。急ぐでもなく、ゆっくりでもなく、絨毯の真ん中をまっすぐ歩いてくる。
ハンナさんが、廊下の端に寄って、深く頭を下げた。
俺とネルも、慌ててそれにならった。
そのとき、俺の目の端で、ハンナさんの右手が動いた。
外套の内側に添えていた右手が、ほんの少しだけ、腰のほうへ下りた。指一本ぶんくらい。すぐに、元の場所へ戻った。
城に入ってから、ハンナさんの右手が動いたのは、それが初めてだった。
男の足音が、俺たちの前で一度だけゆるんだ。
「やあ、ハンナ。地下倉の鼠退治かね。ご苦労なことだ」
穏やかな声だった。
「恐れいります」
ハンナさんは、頭を下げたまま答えた。
男は、俺の担いだ麻袋をちらりと見て、それから俺の顔を見た。ほんの一瞬だった。目尻にしわを寄せて、にこりと笑った。
「若いのに、感心なことだ」
そう言って、男はまた歩きだした。役人たちが、その後ろに続いていく。黒い上着の背中が、廊下の角の向こうに消えていった。
俺は、頭を下げたまま、男が胸に抱えていたものを思いだしていた。
革の表紙の、分厚い帳面だった。
それを支える両手は、真っ白な手袋に包まれていた。




