足りる
下層区の坂を上っていくと、途中から鎚の音が聞こえてきた。
かあん、かあん、と澄んだ音が、朝の路地に響いている。春になっても、ガンツさんの工房の前だけは煤の匂いがした。戸口の板戸は半分開いていて、中から炉の熱がゆらゆらと流れだしていた。
「おはようございます」
声をかけても、鎚の音は止まらなかった。
ガンツさんは金床の前で、赤く焼けた鉄を叩いていた。俺たちのほうを見もしない。冬に来たときと同じだった。ネルが俺の後ろで、くすっと小さく笑った。
俺は、金床の横の作業台に布の包みを置いた。
結び目をほどいて、布を開く。拳くらいの黒い石くれと、小さなかけらがいくつか。工房の奥の、炉の火の届かない薄暗がりで、石くれの縁が青白く光った。
かあん、という音が、途中で止まった。
ガンツさんは、鎚を振り上げたまま固まっていた。焼けた鉄が金床の上で少しずつ色を失っていく。それでも、ガンツさんは動かなかった。ひげの奥の目が、作業台の上をじっと見ていた。
やがて、鎚がゆっくりと下りた。鉄を火ばさみでつかんで、水桶に沈める。じゅう、と白い湯気が上がった。
「……黒樹の森か」
「窪地の底です。父さんに、ガンツに渡せって言われました」
ガンツさんは、何も言わなかった。
ただ、ひげの奥で口を引き結んで、しばらく天井の煤を見上げていた。それから、ふうっと長い息を吐いた。
「あの男は、相変わらず言葉が足りん」
◇
ガンツさんは、厚い革の手袋をはめなおした。
石くれを両手で持ち上げて、窓から差しこむ光のほうへかざす。表も裏も、ゆっくりと回して見る。黒い表面のところどころが、焼けた陶器みたいにつやつやと光っていた。窪地の斜面と同じだった。
「混ぜ物が、ほとんどない」
ガンツさんが、ぽつりと言った。
「湖の底のは、千年も湯に浸かっとったからな。ほかの石と抱きあって、なかなか離れん。だからボルグの爺に、塊にしてもらうしかなかった」
ガンツさんは、石くれの縁を親指でなぞった。
「こいつは違う。星が落ちたその場所で、星の熱にじかに焼かれた石だ。余計なものが、みんな飛んじまっとる」
「じゃあ、親方が打てるの?」
ネルが、身を乗りだした。
ガンツさんは答えずに、工房の奥の鍵つきの棚を開けた。中から、小さな布の包みを取りだす。ミルヴェールでボルグさんが打てる塊にしてくれた、鶏の卵ほどの星鉄だった。
ガンツさんは、二つを作業台の上に並べた。
卵ほどの塊と、拳ほどの石くれ。どちらも、薄暗がりで同じ青白い光をにじませていた。
「かけらは、ボルグの爺に送ってやれ」
ガンツさんは、小さなかけらを指先で脇へ寄せた。
「礼だ。八十年、星鉄を探しとった爺だ。混ぜ物のない星鉄なんぞ見たら、泣いて喜ぶ」
「泣くんですか、あの人」
「泣かん。泣かんが、三日は片目のレンズを外さんだろうな」
ネルが吹きだした。俺も、ボルグさんが分厚いレンズを押しあてて、かけらを何時間も眺めている姿が目に浮かんだ。
◇
ガンツさんは、石くれを手のひらにのせた。
重さを確かめるように、ゆっくりと上下させる。一度、二度。それから、卵ほどの塊も反対の手にのせた。両手のあいだで、二つの重さを何度も比べている。
俺の隣で、ネルの肩が小さく震えはじめた。
何を思いだしているのかは、すぐにわかった。ルクスからの帰り道、焚き火のそばでネルがやってみせた、ガンツさんのしかめ面の真似だ。眉を寄せて、ひげを突きだすようにして、低い声で言うのだ。
足りん、と。
ネルは、両手で口を押さえていた。尻尾の先が、ぴくぴくと跳ねている。俺は、肘でネルの脇腹をつついた。ネルが、涙目で俺をにらんだ。
ガンツさんが、口を開いた。
「……足り」
ネルの肩の震えが、ぴたりと止まった。
俺も、息を止めていた。工房の中で、炉の火がぱちりとはぜる音だけが聞こえた。
ガンツさんは、手のひらの上の二つの星鉄を見下ろしていた。眉は寄っていなかった。ひげも、突きだしてはいなかった。
「……る」
ネルの尻尾が、ばさっと大きく揺れた。
一回じゃ終わらなかった。ばさっ、ばさっ、と、作業台の脚に当たるくらいの勢いで揺れつづけた。ネルは、口を押さえていた両手を、ゆっくりと下ろした。
「足りる、の?」
「足りると言った」
「ほんとに?」
「二度言わせるな」
ガンツさんは、二つの星鉄を作業台に戻した。それから、なぜか少しだけ不機嫌そうな顔で、俺たちを見た。
「なんだ、その顔は」
「いえ」
俺は、首を横に振った。
「親方が足りるって言うの、初めて聞いたので」
ガンツさんは、鼻を鳴らした。でも、ひげの奥の口もとが、ほんの少しだけゆるんでいた気がした。
◇
「紅糸を、見せろ」
ネルが腰の鞘から紅糸を抜いて、両手でガンツさんに差しだした。
ガンツさんは、紅糸を光にかざした。刃の反りを目でなぞる。青白い刃の縁を、親指の腹でそっと撫でる。それから、柄を握って、何度か軽く振った。
「よく使っとるな」
「使ってるわよ。毎日、研いでるもの」
「研ぎ方のことを言っとるんじゃない」
ガンツさんは、紅糸の柄をネルに向けた。柄には、ばあちゃんの裁ち鋏の持ち手の木が使われている。ばあちゃんが四十年近く握りつづけて、手の形にすり減った木だった。
「握ってみろ」
ネルが、柄を握った。
ガンツさんは、その手をじっと見ていた。指の位置、親指のかかり方、手首の角度。それから、ネルの手を自分の太い指で一本ずつ持ち上げて、また下ろした。
「柄が、お前の手に寄ってきとる」
「え」
「打ったときは、まだお前の婆さんの手の形だった。今は、半分お前の手だ」
ネルは、柄を握った自分の手を見下ろした。何も言わなかった。尻尾も、揺れなかった。ただ、柄を握る指に少しだけ力がこもったのが、俺にもわかった。
「紅糸は、一本で終わる剣じゃない」
ガンツさんは、紅糸を打った日から、ずっとそのつもりだったような口ぶりだった。
「もう一本と並んで、初めて一揃いだ。二本目は、こいつと並べたときに、こいつと同じ顔をしとらんといかん。反りも、重さも、手に寄る癖も、ぜんぶ覚えた」
「覚えたって、今の一回で?」
「何十年、鉄を見とると思っとる」
ガンツさんは、炉の火を見た。
「七日はかかる。最後の仕上げのときだけ、紅糸を一晩預けろ。二本を並べて、刃を合わせる」
「七日」
ネルが、指を折って数えた。それから、俺の顔を見た。
「大祭の前ね」
ガンツさんの眉が、ぴくりと動いた。
◇
「大祭に、何か用があるのか」
俺とネルは、顔を見合わせた。
城の西の門のことも、リーゼのことも、言うわけにはいかなかった。俺が言葉を探していると、ガンツさんはふんと鼻を鳴らして、工房の隅を顎で指した。
「まあいい。どうせ王都じゅう、大祭の話しかしとらん」
工房の隅の、炭俵の上に、立派な紙が一枚放りだしてあった。
厚手の白い紙で、端に金の縁取りがある。封蠟は割れていた。押されていたのは、知らない紋だった。冠のような形の下に、細い巻物が一本。
「城の、典礼の役所からだ」
ガンツさんは、つまらなそうに言った。
「大祭の行列で、騎士どもが掲げる儀仗の剣を打てとよ。柄に金を巻いて、刃には何も切れんように丸く鈍らせて、宝石を三つ埋めろ、だそうだ」
「断ったんですか」
「飾りは打たん」
ガンツさんは、きっぱりと言った。
「使いの役人が、三回来た。三回とも、同じ顔で同じことを言って帰っていった。大祭の段取りは、典礼の役所がぜんぶ握っとるからな。騎士の並び順から、広場の飾りから、夜の花火の一発まで。あそこに逆らう鍛冶屋は、王都で儂くらいなもんだ」
ネルが、炭俵の上の紙をのぞきこんだ。
「三回も来たのに、断ったの」
「四回目は来なかった」
ガンツさんは、また金床の前に戻った。鎚を握り、炉から新しい鉄を取りだす。
「それでいい。飾りの剣より、使う剣のほうが、よっぽど打ちがいがある」
かあん、と鎚の音が響いた。
それが、帰れという合図だった。俺たちは頭を下げて、工房を出た。
戸口をくぐるとき、背中に声が飛んできた。
「親父さんに、よろしく言っとけ」
冬に来たときと、同じ言葉だった。
「もう、言われました。ガンツに渡せって」
鎚の音が、一つだけ止まった。
「……そうか」
それから、また、かあん、と鳴った。さっきより少しだけ、高い音だった気がした。
◇
坂を下りきると、運河沿いの道に出た。
ネルは、さっきからずっと上機嫌だった。尻尾が、歩くたびに右へ左へ揺れている。ときどき、ガンツさんの声色をまねて「……る」とつぶやいては、一人で笑っていた。
「そんなにうれしいか」
「うれしいに決まってるでしょ」
ネルは、腰の紅糸の柄に手を当てた。
「七日たったら、紅糸がやっと二本になるのよ」
「二本目は、新しい刃だけどな」
「わかってるわよ。でも、二本で一揃いなんでしょ」
ネルは、柄を軽く握った。
「半分、あたしの手になってるんだって。この柄」
その声は、さっきまでよりずっと小さかった。俺は、何も言わなかった。言わなくていい気がした。
運河の水面に、春の日差しがきらきらと跳ねていた。
荷を積んだ舟が一艘、ゆっくりと下っていく。櫂の音。岸の花売りの声。焼き菓子の甘い匂い。
そのとき、ネルの耳がぴくりと動いた。
前を向いたまま、片方の耳だけが、くるりと後ろへ向いた。尻尾の揺れが、止まった。
「……リト」
ネルは、さっきと同じ笑顔のまま、声だけを落とした。
「後ろ。足音が一つ、坂を下りたときから、ずっと同じ距離」
俺は、振り返らなかった。
かわりに、運河の水面に目をやった。凪いだ水の上に、岸の道が逆さまに映っている。花売りの籠。行き交う人の頭。
その中に、一人だけ、立ち止まっている男がいた。
花売りの籠をのぞくふりをしている。身なりはいい。でも、どこにでもいそうな顔だった。俺たちが歩きだすと、男も籠から離れた。
水面に映った男の足もとで、何かが光った。
靴だった。
まだ一度も泥を踏んだことがないような、新しい靴。
――身なりのいい、使いっぱしりって感じのやつ。靴が新しかった。
ルカの声が、頭の中によみがえった。




