左側の席
俺は封筒の端に指をかけた。
その手の上に、ミリアさんの手がそっと重なった。細い指だった。受付台ごしに身を乗りだしたまま、ミリアさんは笑っていた。
「ここで開けるのは、やめておきましょうか」
声は小さかった。ホールのにぎやかさにまぎれて、俺とネルにしか届かないくらいの大きさだった。
「お手紙は、お部屋でゆっくり読むものですから」
ミリアさんは手を引っこめて、帰着の届けの束をとんとんと揃えた。それから、何でもないことのように付けたした。
「それと。そのお手紙は、記帳には載せていません」
俺は顔を上げた。ギルドに届く手紙や荷物は、受付でぜんぶ帳面に書きこまれる。いつ、誰から、誰に。ミリアさんはそれを毎日、一通も欠かさずにつけている人だった。
「わたしの引き出しに入っていたのは、ただの春のお便りです。お二人宛ての」
ネルが、俺の袖をつかんだまま、ミリアさんの顔をじっと見た。ミリアさんは、いつもと同じ笑顔だった。でも、その目だけは笑っていなかった。冬至の夜、帰らなかった人の名前まで覚えていると話してくれたときと、同じ目だった。
「……ありがとうございます」
「なんのお礼ですか?」
ミリアさんは首をかしげて、次の冒険者に「お待たせしました」と声をかけた。
俺は封筒を上着の内側にしまった。父さんのナイフの鞘と、銀の割り符の隣だった。
◇
宿の部屋に戻ると、ネルが扉の閂をかけた。
窓の板戸も半分閉める。それから小さな机の前に座って、俺を見上げた。耳がぴんと立っていた。
「早く開けなさいよ」
「わかってる」
封蠟は固かった。父さんのナイフの切っ先を、蠟と紙のあいだにそっと差しこむ。翼を広げた鳥の紋を割らないように、ゆっくり持ち上げると、ぱりっと乾いた音がして封が開いた。
中には、紙が何枚も入っていた。
一枚目を広げて、俺は少しだけ笑ってしまった。宛名の細くて丁寧な字とは、まるで違う字だった。大きくて、勢いがあって、ところどころ行が右上がりに曲がっている。インクの染みが、あちこちに散っていた。
「……これ、あの子の字ね」
ネルも、のぞきこんで笑った。
◇
『リトへ。ネルへ。
元気にしてる? わたしは元気よ。元気すぎて、ハンナに毎日怒られてるわ。
あのね、リーフェンの神官さまから、お手紙が来たの。春告げの樹に、芽が出たんですって。わたしたちがリボンを結んだ、あの枝の近くに。それを聞いたら、どうしても二人に教えたくなって、これを書いています。
お城に帰ってから、わたし、ほとんど外に出ていないの。庭までなら出られるけど、庭の木はぜんぶ庭師がきれいに切りそろえていて、ちっとも面白くないわ。干し肉が食べたい。焚き火で焼いたやつ。ハンナに頼んだら「なりません」って言われたわ。
ネル。あなたが繕ってくれた外套、今も着てるわよ。侍女たちが「お下げしましょうか」って言うたびに、ぜったいだめって言ってるの。
それから、値切りの練習もしてるのよ。相手はハンナだけど。ハンナは一回も負けてくれないの。ネル先生、ハンナに勝つ方法を教えて。』
二枚目も、三枚目も、そんな調子だった。
城の料理は冷めていて味がしないとか、窓から見える運河の舟を数えて一日が終わったとか、夜に一人でこっそり半分こを試してみたけど、相手がいないと倍にならなかったとか。
ネルは、読みながら何度も吹きだした。尻尾がずっと揺れていた。
「あの子、ほんとに退屈してたのね」
「みたいだな」
俺も笑いながら、最後の一枚をめくった。
そこで、字が変わった。
同じリーゼの字だった。でも、さっきまでの大きな字じゃなかった。一文字ずつ、ゆっくり、丁寧に書いたのがわかる小さな字だった。インクの染みも、一つもなかった。
『ここからは、ちゃんとしたお願いです。
春の大祭の日、わたしは、初めてお城の外の人たちの前に出ます。十五になったら、そうすることになっているの。
その日まで、目立たない冒険者として、わたしの左にいてほしい。
ハンナは右にいてくれます。でも、左が空いているの。
いつでもいいから、割り符を持って、お城の西の門に来てください。ハンナが毎朝一度、門まで見に行ってくれることになっています。
来てくれなくても、怒らないわ。本当よ。二人には二人の秘密があるもの。
リーゼ』
最後の名前だけ、少しだけ字が震えていた。
ネルの尻尾が、止まっていた。
◇
しばらく、どちらも何も言わなかった。
窓の外から、運河を行く舟の櫂の音が聞こえた。リーゼが城の窓から数えていたのも、こんな舟だったのかもしれない。
「春の大祭って、いつだっけ」
ネルが、手紙から目を離さずに聞いた。
「花の市が立つころだって、宿のおかみさんが言ってた。もう、あまり日はない」
「そう」
ネルは、手紙をきちんと揃えて机に置いた。それから、俺の顔を見た。
「で。あんた、何を迷ってるのよ」
「迷ってるように見えるか」
「顔に――」
ネルは、言いかけて口を閉じた。たぶん、誰かの口ぐせを思いだしたんだろう。
「眉のあいだに、しわが寄ってるわよ」
俺は、眉のあいだを指でこすった。
「王女さまの左にいる冒険者なんて、目立たないわけがない」
それが、いちばん引っかかっていることだった。
リーゼが人前に出る日だ。王都じゅうの人が、リーゼを見る。その隣に、見たことのない冒険者が立っていたら、誰だって気にする。どこのパーティだ、何ランクだ、なんで王女さまの隣にいるんだ、と。
それに、川の上で俺たちを襲った五人を雇った男は、まだ捕まっていない。爪のきれいな、若くない男。リーゼの外出を知っていた誰か。
「目立たない冒険者として、って書いてあるでしょ」
ネルが、手紙の一行を指でとんとんと叩いた。
「あの子だって、わかってて頼んでるのよ。あたしたちが目立ちたくないこと。そのうえで、目立たないように、って」
「わかってる」
「それに」
ネルは、少しだけ口をとがらせた。
「割り符、半分こしたでしょ。あの子、言ってたじゃない。半分こすると、倍になるんだって」
上着の内側で、銀の割り符が小さく重かった。
「あんたの父さんだって、言ってたんでしょ。守る仕事は、守る相手の歩き方を覚えることから始まるって。あの子の歩き方、もう覚えてるじゃない。あたしたち」
俺は、霧の渡しの朝を思いだした。
揺れる舟の上で、リーゼの右にハンナさんがいて、左に俺がいた。その少し前、リーフェンの町で、ハンナさんは俺に、お嬢さまの左をお願いできますか、と頼んだ。俺は、うなずいたのだ。
「……そうだな」
眉のあいだのしわが、少しだけほどけた気がした。
「行こう。左が、空いてるんなら」
ネルは、ふん、と鼻を鳴らした。でも、尻尾がまた揺れはじめていた。
「最初から、そう言えばいいのよ」
◇
夕方、俺たちはギルドの裏手の路地へ行った。
石段に腰かけて、ルカが干からびたパンをかじっていた。そのまわりに、チビたちが四人。いちばん小さい子が、ネルを見つけて真っ先に駆けよってきた。
「あ。帰ってきたのか」
ルカは、パンを口にくわえたまま立ちあがった。俺とネルを上から下まで見て、それから俺たちの手もとを見た。
「土産は?」
「話ならある」
「話かよ」
ルカは、心の底からがっかりした顔をした。
それでも、石段に座りなおして、話を聞く姿勢になった。チビたちも、ルカの横にずらりと並んで座る。俺は、故郷の村で食べたもののことを話した。
母さんが焼いた、蜂蜜をたっぷり練りこんだパン。父さんが冬のあいだに燻しておいた猪の腿肉。厚く切ると、脂のところが透きとおって、噛むと煙の匂いがする。鍋いっぱいの、肉と根菜の煮込み。
話しているうちに、チビたちの口が、だんだん開いてきた。
「……ずりい」
ルカが、ぼそりと言った。
「話だけでこれかよ。腹が減るだけじゃねえか」
「だから、話だけって言っただろ」
「余計に悪いわ」
ネルが、くすくす笑いながら、肩にかけた袋から油紙の包みを取りだした。王都の門の近くで、さっき買ったばかりの揚げ菓子だった。
「話だけじゃかわいそうだから、これ。ちゃんと人数ぶんあるから、けんかしないのよ」
チビたちが、わっと声を上げた。
ルカは、自分のぶんの揚げ菓子を受け取って、しばらく黙って眺めていた。それから、そっぽを向いた。
「……どうも」
「どういたしまして」
ネルの尻尾が、三回揺れた。
◇
ルカの妹が、ネルの外套の裾を引いた。
継ぎはぎの外套の、袖口のていねいな継ぎ当て。冬至の夜に、俺が灯籠に火をつけてあげた子だった。手に、小さな上着と、木のボタンを一つ握っていた。
「ネルせんせい。ボタン、とれたの」
「あら。玉止めは合格したんだったわね」
「うん」
「じゃあ、次はボタンね」
ネルは石段に腰を下ろして、妹を膝の横に座らせた。腰の袋から、針と糸を取りだす。ネルの指先が、上着の布をそっとなでた。ほつれを見る目だった。
「ボタンはね、布にぴったりくっつけて縫っちゃだめなの」
「なんで?」
「ぴったりだと、穴に通らないのよ。だから、ボタンと布のあいだに、ほんのちょっとだけ隙間をあけて縫うの。で、最後に、その隙間に糸をぐるぐる巻きつける。こうやって」
ネルの指が、器用に糸を巻いていく。妹は、口をぽかんと開けて見ていた。
「この巻いたところが、ボタンの足になるの。足があると、ボタンは長持ちするのよ」
「ボタンにも、足があるの?」
「あるわよ。ばあちゃんが、そう言ってた」
妹は、ネルの手から針を受け取って、真剣な顔で糸を巻きはじめた。
俺は、ルカの隣に腰かけた。ルカは、揚げ菓子をちびちびかじりながら、妹の手もとを見ていた。
「そういや」
ルカが、ぽつりと言った。
「あんたらの留守のあいだに、あんたらのことを聞いてきたやつがいたぜ」
俺は、ルカの横顔を見た。
「どんなやつだ」
「身なりのいい、使いっぱしりって感じのやつ。靴が新しかった。ギルドの前で、チビたちに銅貨を握らせて聞いてた。狐の娘と一緒の、小さい種火の冒険者はどこにいる、って」
「なんて答えたんだ」
「知らねえ、って。チビたちには、ああいうのには何も言うなって教えてある」
ルカは、揚げ菓子の最後のひとかけを口に放りこんだ。
「二回来た。顔は、覚えた」
それだけ言って、ルカは立ちあがった。妹の手もとをのぞきこんで、「足、短けえぞ」と口を出し、ネルに「うっさい」と言われていた。
俺は、石段に座ったまま、王都の空を見上げた。
ギルドの屋根の向こうに、白い城の塔が見えた。夕日を浴びて、うっすらと赤く染まっていた。
◇◆◇
その夜、宿の部屋の机に、俺は二つのものを並べた。
一つは、布の包み。開くと、拳くらいの黒い石くれと、小さなかけらがいくつか。ろうそくの火の届かない机の端で、縁が青白く光っている。
もう一つは、銀の割り符。親指の先くらいの、無地の銀の円盤だ。
「まずは、ガンツさんのところだな」
俺が言うと、ネルは星鉄の包みに手を当てた。
「明日の朝いちばんね。で、その次の日に、西の門」
「ああ」
「紅糸の、相棒のぶん」
ネルは、包みをそっと閉じた。それから、リーゼの手紙をもう一度手に取って、最後の一枚を読み返していた。
「左が空いてる、か」
ネルは、手紙を封筒に戻そうとした。
そこで、手を止めた。
「……ねえ。まだ何か入ってる」
封筒の底に、紙が一枚、貼りつくように残っていた。
手紙の紙よりずっと小さい、手のひらほどの紙だった。ネルが、爪の先でそっとはがして、机の上に置く。
字は、宛名と同じ字だった。細くて、丁寧で、少しも乱れていない。
そこには、一行だけ書かれていた。
『城の中は、川の上より危のうございます』
ろうそくの火が、小さく揺れた。
ネルの耳が、ゆっくりと伏せていった。
俺は、上着の内側の、父さんのナイフの鞘に触れた。
霧の中で綱を切られ、矢が飛んできた、あの川の上より。
ハンナさんは、そう書いていた。




